かけはなれるふたり【2】
ベッドに横たわり、左の指に下着を絡ませて、ジーンズの上から右手で自分のものをこすった。すでに硬くなりかけていて、変態かよと嫌気のようなものが差した。それでも、我慢できない。
俺も萌香が欲しい。でもそれが叶わないなら、萌香の軆が涼のものなら、これくらい──。
目を閉じて、腰がわななきそうな快感を覚えながら、このあいだ抱きしめた萌香の軆を思い返した。熱。柔らかさ。匂い。まだ、くっきり憶えている。撫でた髪も、見えたうなじも、当たった胸も。俺の背中にまわった手。腕に抱いた華奢な肩。触れあいそうで触れなかった腰。下着をぎゅっと握りしめて、頭の中で何度も萌香を呼ぶ。
ねえさん。ねえさん。ねえさん。
ふと、後頭部から首筋にかけて、愛撫されたような錯覚を覚える。昔、萌香はよくそんな手つきで俺を撫でてくれた。俺は萌香の脚のあいだを吸いながら、股間までじんじんしてくる萌香の喘ぎに昂ぶり、頭を愛撫される。萌香のあの、いやらしくてかわいい声。そしてその声で呼ぶのだ、俺の名前を。
有栖。有栖。もっと、有栖──
「……くそ」
薄目を開けて、ファスナーを下ろし、どくどくと血管まで浮くほど腫れたそれを取り出す。萌香はこれをよくしゃぶってくれた。とても愛おしそうに、おいしそうに、舌と指で俺を快感の白波にさらってくれた。
その舌遣いや指遣いを思い出し、俺は自分の手のひらで自分をしごく。萌香の唾液と俺の先走った液は、いつも溶け合って俺たちをなめらかに結びつけた。今では萌香の唾液はないけど、それでも自分の透明な汁がべとべとになるほどあふれていて、手の動きの潤滑油になった。
「萌香ちゃん」
あの男は萌香の上になりながら、萌香をデジカメで撮影しているときがあった。
「かわいいね、『パパちょうだい』って言える?」
脚を大きく開いて、そこに男のものをハメこまれながら、萌香はかすれた声でその言葉を繰り返した。
「うん、いいよ。もっと何度も言って」
萌香のうわごとを俺も聞いていた。
パパちょうだい。パパ萌香の見える? 萌香こんなにエッチなんだよ。
男が萌香を突き上げて、水音が弾ける。喘ぎ声があふれて、萌香は男の欲望のまま揺すぶられる。
俺はそれを見ている。見て、憶えて、家に帰ったら同じことを萌香にしたが、子供心に台詞は繰り返させなかった。
あの男が実は俺たちの父親だった、なんて種明かしはない。俺も萌香も、父親の顔は知っている。母親の顔もだ。
母親はとにかく浮気性だった。いまだに複数の男をふらふらしていて、それでろくに家に帰ってこない。萌香の稼ぎに較べたら、たしにもならない額の金を毎月振りこんでくるだけだ。そんな母親に愛想を尽かし、父親も萌香と俺を置き去りにして出ていってしまった。
それから、この家はほとんど俺と萌香のふたりきりだ。
俺には萌香だけだった。萌香にも俺だけだった。なのに、どうして触れあってはいけないのか。
一度は踏み越えて、愛しあえたのに。萌香。何でもういらないなんて言った挙句、俺じゃない男とあんなことをするんだ。萌香を一番良くしてあげられるのは俺だし、萌香だってそれは分かってただろ? なぜ粗悪で不浄な他人の元なんかに行った?
俺がいるのに。純粋で、一途で、血を分けた俺がいるのに。俺の何がダメなんだよ。父親も母親も、俺はもうどうでもいいよ。何でもするから、萌香だけは俺のそばにいてくれよ。
「……ね、えさっ……ねえさんっ……」
無意識に何度も萌香を呼ぶうちに、息が荒くなって手の動きも糸口をつかんで、のぼりつめるように俺は一気に達していた。手の中に、熱い白濁が勢いよく飛び散る。
天井の電燈が遠い部屋の中で、息切れとめまいがぐるぐるまわる。時刻は二時になりそうで、心臓の脈が聴こえるほど静かだった。俺はぐったりするまま、小さく身動きし、左手の中の萌香の下着を持ち上げると、そっと口づけた。
眠れないまま朝が来て、五時半、萌香は恐らく始発で帰宅した。物音だけ聞いて、顔は出さなかった。さすがに涼は送らなかったみたいで、話し声もなくひとりぶんの足音がしばらく続いた。
涼とやっぱりしたのかなあ、と考えると胸が苦しくなった。でも、俺だってさんざん適当な女と寝ていた。萌香はこんな胸苦しさを抱えて、ひとり俺の朝帰りを待っていたのだろうか。
だとしたら、結局萌香を涼の元に追いやったのは俺なのか。でも、何で適当な女を漁っていたかって、それは萌香が俺をいらないとか言って、水商売なんか始めて──糸が絡まりすぎて分からない。
もう何でもいい、萌香とまた愛しあえるなら、俺はそれでいいのに。それがどうしようもなく、うまくいかない。
萌香が部屋に入って、物音もなくなって寝たと分かる頃には、真夏の熱い朝陽がじりじりと気温を焼いていた。俺は結局、一睡もできなくて、蝉の声に気づきながら部屋を出てペットボトルの烏龍茶で喉を潤した。
背後のテーブルには、萌香が朝食を用意してくれている。半熟の目玉焼きと焼かれた厚いベーコン、レンジで温めるベーグル、そしてコンソメスープの粉末。椅子を引いて腰かけてそれを食べると、シャワーを浴びて身なりを整え、スマホと財布だけ持って家を出た。
涼からメールが来ているかと思ったが、来ていなかった。小波からは来ていたが、スルーする。
俺は連絡帳から静を呼び出すと、今起きてるかどうかとメールを送った。午前八時、駅前に着いてコンビニでアイスを買おうか迷っているとスマホが震えた。
『起きてるよ。
どうかした?』
俺は熱を吸うガードレールにもたれ、気がふれそうな青空を見上げて、『姉貴と親友が寝たかもしれない。』とそのままのことを送った。あんまり間を置かずに返信が来て、静が塾の最寄り駅にいる旨が書いてあった。俺は立ち上がると、財布の中にICカードがあるのを確認して、改札に向かった。
学生は夏休みでも、社会人だけでじゅうぶん朝のラッシュだった。揺れる電車の中は、クーラーが降りそそいでも窓の日射をさえぎっても暑い。どこかの誰かが朝から汗臭くて、鼻腔が嫌悪を覚える。この混雑でも、みんなスマホで何か見たり、イヤホンで何か聴いたりしていた。
ヒマつぶしに小波のメールを読んだけど、次はいつ会えるかとかそんな内容だったので返事しなかった。涼に萌香とのことを訊こうかとも思ったけど、たぶん弟の俺が訊いたら変なんだよな、と歯噛みして我慢した。
朝帰りだもんなあ、と虚ろに吊り広告を眺める。何もないほうがおかしい。つきあいはじめて二週間くらい経つわけだし、いくら萌香を大事にしていても、あの涼がそんなに禁欲的だとも思えない。
萌香は、涼で感じたのだろうか。あの声や表情を晒したのだろうか。涼って無駄にテクはありそうだよな、と気づく。もしかしたら、あの男より、俺より、技術は一番うまかった男かもしれない。でも、気持ちは──萌香を想う気持ちなら、俺が誰よりも強いのに。
「おはよう、有栖」
人に紛れながら、目的の駅の改札を抜ける。
静はあんまり制服と変わらないシャツとスラックスで、やっぱり小説を読んで待っていた。こいつが待たせることって、あんまりないなあと思う。
「はよ」と返した俺は、まずはため息をついて静に失笑される。
「有栖、夏休みになってから塾来てなかったよね」
「あんまりそういう気分じゃない」
「萌香さんからメールは来たよ。彼氏ができたから、僕も頑張れって」
「静は……萌花さんだっけ、が好きなんだっけ」
「一応ね。別につきあえなくて構わない。僕とつきあうと、周りがうるさくて面倒だろうからね」
「俺は、周りが何言ってきても、つきあいたいな」
「それを伝えないから、ほかの男なんて出てくるんだよ。萌香さんは綺麗な人だよ?」
「知ってる。あんな美人見たことない」
静は眼鏡の奥で笑って、ページに紐を挟むと本を足元のかばんにしまった。そして、それを持ち上げると目配せしてきて、ざわめく人波の中を歩き出す。駅ナカから日射しの元に出ると、蒸し暑さはもっと容赦なくて、汗が絞り取られていった。
「静って、意外とこんな時間からふらふらできるんだな」
「夜は家に帰って、朝六時に起きてたよ」
「……優等生だな」
「そうするだけで、親からの信頼が得られるものだからね。どうしても帰れないとき、その信頼が役に立って切り抜けられる」
「そう……だな。いつも夜に家にいるって、何か安心するよな」
「萌香さん、夕べは家にいなかった?」
俺は静を見た。朝の風がゆっくり流れて、静のまっすぐの髪がなびく。
俺はうなずいて、ここしばらくのことを簡単に話した。告ってきた小波と寝たことから、昨夜のことまで。静は相槌だけで言葉をはさまずに吐かせてくれた。「もうこうなったのが俺のせいなのか、萌香のせいなのか分からない」と俺は眉を苦くした。
いつのまにか、街中を外れて線路沿いに出て、人通りが減った道に出ていた。
「萌香さんもつらいと思う?」
「え」
「有栖との仲がかけはなれてしまって」
「どうなんだろうな。つらい……のかな、と思うときもある。でもうぬぼれじゃないかって気もする」
「確かめないの?」
「確かめたら、俺の未練まで知られるだろ」
「未練を知られたくない?」
「……うざいじゃん。もういらないって言われたんだぜ」
「何で、そんなこと言ったのか考えた?」
「考えたよ。あの男がつきあってた女と結婚して、」
「有栖って、萌香さんに気持ちを伝えたことはあるの?」
「気持ちって」
「だって、ほんとは穢れてたから抱いたんじゃなくて、好きだから抱いたんだろ? 僕はその気持ちがおかしいとは思わないよ。ありえない話じゃない」
「……ありえないだろ。姉弟とか」
「でも、実際、有栖と萌香さんはありえてたわけだろ? 浄化なんて本音? やりたいからやってただけじゃないの?」
静はくすくす笑って、俺はうつむいてしまう。
気持ちを伝える。思い起こすと、俺はそれをしっかり萌香に行なったことがない気がする。
いつも「綺麗にする」から抱くのだと言っていた。そうでも言わないと萌香を抱けなかった。でも、俺も萌香も、もはやそんな理由で抱きあっていたわけではないのは確かだ。
言わなくても分かるなんて、確かにそれは驕りだ。俺が言わなかったから? 「好きだ」と言わなかったから萌香も自信がなくて、あいつに汚されることのなくなった自分は、俺に捨てられると思った? それで、自分のほうから──
「今から、萌香に『好きだ』って言っても間に合うのかな」
「どうだろうね」
「もう涼のもんだからダメかな」
「そういうルールはないと思うけど」
「………、言わなかったら、死ぬまでこんなだよな」
「僕にはそう見える」
大きく、吐息をついた。静は歩調を緩め、「ここ知り合いの店だから、ゆっくりしていきなよ」とちょっと古びた感じの喫茶店のドアに手をかける。
からん、と喫茶店の扉を開いた音が響き、ドアの隙間からすうっと冷気が肌に染みこんでくる。
「おはようございます」と中に入っていった静に続き、言わないといけないな、とどうしても萌香を手放したくなくて俺はそう思った。
【第十七章へ】