茜さす月-17

香りに狂う【1】

 涼くんが私と寝たいのは分かっているけれど、何だか気だるくて進む気になれなかった。
 好きと言われて、たまにキスをして、別に満足するわけではなく、ただ、それで疲れてしまう。してあげなきゃ可哀想だと思っても、ふと腕に触れた手が性的だとあいだを置いてしまう。
 涼くんと寝て、私にとって、いったい何なのだろう。汚してもらうわけではないし、もちろん、有栖とそうしたように愛しあった行為でもない。
 いや、告白を受けたのだから、愛しあわなければならないのだろう。でも、私の気持ちは涼くんに追いついていない。
 涼くんの想いは、日に日に成長しているのが分かる。私のほうは、日陰にでもいるように想いはぐずついて育たない。
 恋人。彼氏。だから何? 涼くんのほうが、よっぽど弟に思える。かわいいし、いい子だし、憎めない。ふてくされて、目をそらし、怒ったような口調の有栖のほうが、私にはやっぱりゆいいつの「男」だった。
 正直、焦れったいのだ。涼くんに対して思うのは、「もっと早くしっかり有栖を忘れさせてほしい」。小波さんだけじゃない、きっと有栖はモテるから、いずれ私は取り残される。だったらと思って涼くんの告白を受け入れたのに、涼くんはいまいち私の心を引っ張ってくれない。
 もっと私の心を奪ってよ。さらってよ。強引に押し倒されたら、流されてしまえるかもしれないのに。
 涼くんは私にあいだを置かれると、そのまま手を引っこめてしまう。
 私と涼くん、有栖、そして小波さんで花火大会に行ったとき、二組にはぐれてしまった。有栖と小波さんがいなかった。思わず私は立ち止まったけれど、「ふたりきりにしてもらったんです」と涼くんは私の手を握った。この暑さのせいか、熱っぽい手だった。
 涼くんを見ると、涼くんは前を向いて私を引いて、人混みを縫いはじめた。草の匂いがする続く土手で、たくさんの人が空を見上げている。下の河川敷に出店もあって、暖かい明かりを灯していた。涼くんは土手沿いの歩道を進んで、私は前のめりになったり、人とぶつかりそうになりながらついていった。
 人気がなくなったら、そういうことなのかな。そう思ったとき、不意に大きな音を立てて花火が打ち上がりはじめた。顔を上げると、赤い花火が空に広がり、流れ、溶けていた。その刹那の美しさに、有栖と愛しあったときの軆が長く痺れる快感を思い出した。
 このままついていけば、きっと逃げられない。私は、そんなの、望んでない。そうなろうと思ったけど、やっぱり涙があふれてくる。私があの花火を一緒に見たいのは、どうしても有栖なのだ。あの花火の下で、私を抱いていいのは有栖だけだ。
 少し人が減ってきたところで、私はぐっとその場に立ち止まった。涼くんが初めて振り返り、私の涙に目を開いた。
「萌香さん──」
 花火が打ち上がった。今度は青い光が射しこんだ。涙に揺れる視界にその色が沁みる。
「私……ね、子供の頃、男の人に悪戯されてたの」
「えっ」
「だから、そういうことできないのよ。怖いの」
 涼くんは狼狽を混ぜて私を見つめる。私は弱く咲った。
「意味がない女でしょう?」
「……え、あ」
「いらないならそれでいいの。分かってるから」
「俺、は、………」
 涼くんは言葉を見失ってうつむいた。でも、私が手をほどこうとするとぎゅっとつかんでくる。また花火が上がって、涼くんの右側が映った。
「それでもいい……のは、ダメですか」
 私は涼くんを見た。涼くんも私を見た。
「俺、こういうふうに女に惚れたことないからよく分かんないけど、それでも、つきあうのは無理ですか」
「……私は、何もできないわ」
「そんなの、気にしなくていいんです。俺はただ、萌香さんが自分の彼女ならそれだけで嬉しい」
 視線を下げた。自分の性格が、こんなに醜いとは思わなかった。
 私は、あなたが彼氏だとそれだけで苦しい。
 びくびくしてしまう、いつ有栖をかすめとられてしまうかと。今だって、きっと有栖は小波さんと花火を見ている。私じゃない女と夏の夜を過ごしている。
 そんなの許せない、と思ってしまう。花火がどんどん飛び散っていく。ふと涼くんが私との手を握りなおし、「絶対、何にもしないから」とまた軽く引っ張ってくる。
「今夜は、ふたりでいさせてくれますか」
「……でも、」
「そしたら、別れてもいいですから」
「えっ」
「俺とひと晩、過ごしてください」
 そのとき突然背中に誰かがぶつかって、びくっとした拍子に涼くんが私の肩をかばった。「すみませんっ」という女の人の声が一瞬聞こえて、混雑に飲まれる。私はしばらく、涼くんの腕の中で動かなかった。
 やっぱり、よぎるのは有栖だった。涼くんとつきあうことになったとき、お祝いだと有栖は私にハグをした。有栖とあんなに抱きしめあったのは、何年ぶりだっただろう。涼くんの腕にいても、あのときのように心臓は動かないし皮膚も蕩けない。でも、もしこうして私をかばっているのが有栖で、あの声で耳元で私を呼んで、髪を撫でてくれたら──
 何でだろう。なぜ、こんなにも有栖なのだろう。きっと、涼くんを好きになれたほうが真っ当な幸せなのに。
 有栖は遠ざかっていく。そう思ったから涼くんを受け入れた。なのに、ぜんぜんあの体温を断ち切れない。自分と同じあの匂いを求めてしまう。
 有栖のほうは私なんて何とも想っていない。でも、だったらどうしてあんなに強く抱きしめたの?
 花火が大きく咲いて、その明かりで私は小さくうなずいた。涼くんは軆を離し、少し哀しそうに咲った。
 それから、私と涼くんはちょっと人混みを外れて、音は小さくなっても花火の色は鮮やかに見える公園で過ごした。花火大会のあいだは、カップルがちらほらしていたけど、終わるとみんな引きはらって静かになった。時刻が遅くなっても蒸し暑い中、ベンチに腰かけてしばらく沈黙していた。
 やがて、ぽつりぽつりと有栖の話をしたり、小波さんの話を聞いたりした。私はこの時間帯に起きていることに慣れていたけど、涼くんは眠たそうになってきた。「寝てもいいのよ」と言うと、「最後なのに」と涼くんは口走って、自分でその言葉に傷ついたようにうつむいた。
 それから、「膝枕してもらっていいですか」と上目遣いで訊いてくる。私は咲ってうなずき、膝に涼くんの頭を乗せてその頭を撫でた。涼くんはすぐに眠ってしまった。
 私はそのままぼんやりとして、涼くんと別れたら有栖にしかられるのかなあと思った。
 やがて空気が蒼くなり、空がゆっくりピンクとオレンジを綯い混ぜた色で明るくなっていくのをひとりで見つめた。まぶたに当たった朝陽で涼くんが目覚めると、私たちは少し歩いて駅にたどりついた。「有栖には俺から話しておきますね」と涼くんは言って、その反対方向のホームに行く背中を見送ると、私も始発で地元に帰ってきた。
 有栖のスニーカーはあった。小波さんと泊まったりはしなかったようだ。家の中は静かで、私はシャワーを浴びたり、有栖の朝食を用意したりした。
 涼くんとはこれで別れたことになるのだろうか。振りまわしただけだったなと自己嫌悪が芽生える。まあ、あの子ならもっといい女の子が現れるだろう。どうせ有栖が好きなら、こんなことはしちゃいけないなと自分を諫めて、部屋に入るとベッドで眠りについた。
 有栖は、涼くんとの別れについて何も触れてこなかった。むしろ「涼と出かけないの?」とか訊かれて、まだ聞いてないのかなと私は曖昧にうなずいた。
 私から言ってしまってもいいのだろうか。でも、「何で別れたの?」と突っ込まれたら怖い。
 行為ができない、なんて嘘だ。有栖だから、それを一番知っている。私が本当は淫らなほど求めることを知っている。ただ、私がそんなに欲しがるのは有栖だけなのだ。
 でも、それはやっぱり言えないから、私から触れることもしなかった。
「ねえさん、こないだの花火大会で浴衣着なかったよな」
 一緒に昼食を取っていたとき、ふいに有栖がそんなことを言ってきた。献立は輪切りのレモンを乗せた爽やかな味のお蕎麦と、なすと油揚げの胡麻和えだった。「そうね」は私は小ねぎの絡まったお蕎麦をすする。有栖はねぎが嫌いだから、シンプルにレモンを絞っためんつゆだけで食べている。
「持ってなかったっけ」
「持ってるけど、去年仕事用にしたから煙草の臭いがすると思って」
「今年は着た?」
「何回か」
「俺、見てないや」
「お店でちゃんと着付けしてもらうのよ」
「……ふうん」
 有栖はグラスに入った麦茶を飲んだ。氷が涼しく響く。
「俺、あの赤い花の奴が好き」
「菊の?」
「たぶん。黒に赤い花の奴」
 私はちょっと咲って、箸でお蕎麦をすくう。
「……あなたを愛しています」
「えっ?」
「赤い菊の花言葉」
「え、ああ──」
「お客さんが言ってたわ。『俺のために着てるの?』って」
「うざいな」
「ほんとに。じゃあ、来年の花火大会には着ようかしら」
「……涼のために?」
 私はくすりとして、答えずにレモンの澄んだ香りを口に含んだ。赤い菊の花言葉が、仮に逆の『あなたを憎んでいる』でも、私は有栖のために喜んであの浴衣を着たい。有栖が好きだと言ってくれる。だったら、どんな意味が含まれようと、私はそのすがたになって有栖に愛されたい。

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