Koromo Tsukinoha Novels
「自分のわがままで、できることを投げ出してるなら、スマホ没収じゃすまないぞ」
「そんなん、脅し──」
「それなら、高校なんか辞めたほうがいい」
「はっ?」
「あとから高校に行っておけばよかったと言っても、そのときは自分で学費もすべて揃えて通いなさい」
思わず茫然としてしまうと、「それが、おかあさんが心配してくれてる、お前の『現実』だ」ととうさんはあくまで静かに言った。
俺は唇を噛み、どう返せばいいのか分からなくなった。じゃあまじめに高校で勉強する、と言うのが正しいのか? それとも、俺は自信を持てないまま、今すぐ社会に放り出される?
どっちも嫌だと思う俺は、甘えているだけなのか。だが、それも認めたくなくて、その場に突っ立ってるのも耐えられなくて、身を返した。
とうさんも、かあさんだって、俺を呼び止めなかった。
玄関に向かって、スニーカーに足を突っ込むと家を出た。熱気が顔面に押し寄せて一瞬にして汗ばむ。階段を降りてマンションを出たときには、オレンジの空にインディゴが滲みはじめていた。蝕むようなその濃い色は、俺の心も陰らせていく。
追いかけてこないし。何だよ。どうこう言ったって、俺への「心配」なんてそんなもんかよ。
やがて闇に包まれていった道を、ふらふら歩いていたつもりだったが、無意識に通学路をたどって駅前に出ていた。ここまで来ると、コンビニやファーストフードが明るい。
ポケットのスマホを見ると、時刻は二十時過ぎだった。着信はあったけど、親からは何も来ていない。無意識に舌打ちしたとき、「えっ」と驚いた声がしてはたと顔を上げる。
すれ違いざまの女の人が、びっくりした目で俺を見ていた。すぐに舌打ちを勘違いされたのだと気づいた。慌てて謝ろうとして、ん、と彼女を見つめる。
「な、何……?」
その声音。髪色。瞳。マスクしてないけど間違いない、と俺は焦り、冷や汗すら感じながら、「すみませんっ」と勢い込んで口にした。
「あなたに舌打ちしたんじゃなくて、その、ちょっとスマホ見ていらついちゃったとこで。ほんとに、何でもないです。すみません」
あわあわと言い訳する俺を、彼女はぽかんと見ていたものの、さいわい安堵を苦笑に混ぜて、「よかった」と息をついた。
「いきなり舌打ちされたかと思いました」
「すみません。ぜんぜん、あなたは悪くないので」
彼女はまだ苦笑いしながら俺を見つめ、「朝、よく挨拶してくれますよね?」と言った。今度は俺がびっくりと目を開く。
「え、と……あっ、はい。……憶えててもらえたんですね」
「さわやかな印象だったので、今、ギャップ感じてます」
「さわやか……ではないですけど。あんまり」
彼女は柔らかに微笑み、やっぱマスクなくても美人だと見蕩れそうになる。
「何かあったんですか?」
「へっ」
「スマホ見て、いらついたって。彼女と喧嘩とか」
「かっ……のじょは、いないです」
「そうなんですか?」
「いるわけないですよ」
「じゃあ、友達と喧嘩とか」
「いや、親が……」
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。
干渉がうるさいならまだしも、何も連絡が来ないことに舌打ちしたなんて、かっこ悪すぎる。
「まあ、少し……喧嘩して」
「そっか……。そういうことも多いですよね、その年頃だと」
「何か……帰れないし、どうしようかなって」
彼女は首をかたむけた。言ってしまってから、俺もこの人に「どうしよう」なんて投げかけてもしょうがないと気づく。
「いや、友達のとこでも頼ってみようかな」
「……そうですね。夜の街ふらつくとかはやめてくださいね」
「しないですよ。怖いし」
「ふふ、怖いんですね」
「あっ、……え、怖くないですか」
「怖いです」
くすりとした彼女に負けを感じつつ、「何か、ありがとうございます」と俺は素直に述べた。
「話して、落ち着きました。ほんとにすみません、舌打ちなんて聞かせて」
「それはもう大丈夫です。あんまり意地張らずに、帰れるなら帰ってみてください」
「はい。そうします」
俺の言葉に彼女はにっこりすると、「じゃあまた、朝に」と手を振って住宅街のほうに歩き出した。それを見送った俺は、やばい、やっぱ好きだ、と胸がいっぱいになる。
それから、スマホを取り出して、家族のグループに適当なスタンプをひとつ送信してみた。すぐ既読がふたつつき、『帰ってきなさい』とかあさんのメッセも表示される。
俺は息をつくと、そうしとくか、といらいらと歩いてきたはずの道を、和んだ足取りで引き返しはじめた。
朝、彼女に会うと、すれ違いざまの挨拶だけでなく、並んで歩いて会話も交わすようになった。彼女はやはり大学生で、もうすぐ二十歳になるらしい。名前は深光さんというそうだ。
「親御さんとは仲直りしました?」
「はい、一応。俺が勉強を頑張ることになりました」
俺の言葉に、深光さんほっとしたように笑んでくれて、心配してもらえてたのか、とそれだけで嬉しくなる。
そもそも試験結果が悪かったことが発端だったのも話して、「だから、夏休みは補習です」と苦笑すると、「高一の夏休みに遊べないのはつらいですね」と深光さんは微笑む。でも、俺は実はそんなに悪くないと思っていた。だって、夏休みもこうして登校するなら、朝に深光さんと話せる。
そんなわけで、夏休みに突入しても、俺は朝にはきちんと起きて、制服を着て、狂ったような蝉時雨の中を高校に向かった。猛暑の太陽はまばゆく、風もない日はすぐに頭がくらついてくる。制汗剤で抑えてきたのに汗が流れて、深光さんの隣に並ぶときは、少しにおいとか気にしてしまう。
八月に突入すると、「勉強で分からないとこあったら訊いていいですか」とか言って、思い切って深光さんの連絡先を訊いた。「役に立てるか分からないけど」といつしかタメ口になってくれた深光さんは、俺のQRコードを読みこんで登録してくれた。
それからは、深光さんとメッセのやりとりもするようになり、ひとりでにやにやするのが止まらなかった。盆に俺は両親と帰省して、迷ったものの、深光さんにおみやげのご当地お菓子を買ってみた。地元に帰宅して、それをメッセで伝えると、『よかったら、うちに来てみる?』というレスが来て、脳が蒸発しそうになった。
『いいんですか?』
『おねえちゃんも茉樹くんに会ってみたいらしくて』
『おねえさん、いるんですか』
『ふたりで暮らしてるの』
ふたりで。親はどうなのだろう。いや、姉妹でルームシェアしていて、実家は別とかなのかもしれない。
『たぶん、近所に住んでますよね?』
『公園分かるかな? そこまで来てくれたら迎えに行ける』
『赤い時計がある公園ですか?』
『そうそう! 来れそう?』
『ガキの頃、よく行ってたんで行けます』
『じゃあ、お昼も作っておくから、待ち合わせ十二時くらいでいいかな?』
『はい。大丈夫です』
『よかった。じゃあ、またあとでね』
まだ会話を続けたくても、ぐっとこらえて了解のスタンプで止めておく。
深光さんの部屋にお邪魔するのか。おねえさんもいるようだけど──まさか、もし、童貞喪失の流れになったらどうしよう。いや待て、落ち着け。さすがにそれはないだろ。でも……シャワーは浴びとくか。
我ながら単純思考だが、シャワーで軆はすっきりさせておく。悩んで服装を決めたあと、「今日の昼、外で食べるわ」とキッチンにいたかあさんに言うと、「えー、もう支度始めてたのに」と言われ、「夜に食うから」となだめておく。「何だかデートに行くみたいだなあ」とリビングにいるとうさんが笑って、「そうなの?」とかあさんは驚いた顔をする。「知り合いに帰省のみやげ持ってくだけだし」と俺はそっぽを向き、頬に射した熱をごまかした。
公園までは十分もかからないけど、十一時半をまわったら家を出た。
台風が近づいているらしく、今日はそこまでの快晴ではなくて、風も強い。蝉の声も、八月中旬を過ぎてけっこう減った。かすかに、雨が近い湿気た匂いがする。
台風上陸するのかなあと思いながら、到着した公園に踏みこむ。親子連れも昼食のために帰宅したのか、誰もいないようだった。深光さんのすがたもなく、待たせなかったことにほっとする。
カラフルなペンキで彩られた、ブランコ、砂場、滑り台といった遊具の真ん中に、赤い時計が立っている。空では雲がもくもくとうごめき、時計のかたわらでその流れを見ていると、不意に「茉樹くん」と呼ばれた。
はたと声を振り返ると、いつもと違って、髪をおろした深光さんがいた。クリームのカットソーに黒のチュールスカート。マスクはしている。ちなみに、俺も人の家に上がるならと、一応マスクはしてきた。
「待たせた? ごめんね」
「いえ、ぜんぜん」
「ごめんね、急に家なんて」
「俺はいいんですけど、深光さんはいいんですか?」
「うん。おみやげもらうなら、ランチくらいご馳走したいし」
「あ、そんな大したもんでもないんですけど」
「いいの。じゃあ、行こうか」
深光さんは微笑み、俺は見蕩れそうになったのをこらえて、歩き出した彼女に並ぶ。帰省で会った親戚のこととかを話していると、「いいなあ」と深光さんは哀しそうに睫毛をわずかに伏せた。
「私は、肉親っておねえちゃんしかいないと思ってるから」
「……ご両親は」
「どうしてるんだろうね。死んではいないと思う」
「そう、なんですか」
「あ、重い話ごめんね」
「いえっ、気にしないでください。聞きますよ」
「ふふ、茉樹くんは優しいなあ」
深光さんは微笑を取り戻して、その笑みのためなら俺は何だってやると思った。公園を出て、一軒家が続く道を進んでいき、その中にあった、こぢんまりした家の門扉に深光さんは手をかける。「お邪魔します」と俺も深光さんに続き、やや窮屈に玄関をくぐった。
「ただいまー」
深光さんの呼びかけに、「深光。おかえり」と声質の良く似た声が反応する。ついで足音がして、背格好も近い女の人が顔を出した。
「お、ほんとに年下男子と仲良くなってたんだ」
「何それ。茉樹くん、しっかりしてるんだから」
「あはは。えっと、茉樹くんか。いらっしゃい」
「あ、こちらこそ、突然お邪魔してすみません」
「いいの、私も深光がかわいがってる子なら会ってみたかったし。私は深光の姉で、美糸です」
「美糸……さん」
「うん。あ、お昼って冷やしうどんでよかった? トマト入ってるけど食べれる?」
「大丈夫です」
「おねえちゃん、茉樹くんは高校生だよ? パスタとかにしてあげればよかったのに」
「あ、ぜんぜんいいですよ。普通にうどん食いますよ」
「なるほど、しっかりしてる」
美糸さんがそう言ってうなずいていると、「とりあえず、あがって」と深光さんは俺にスニーカーを脱ぐのを勧めた。俺がそうすると、深光さんもサンダルを脱ぐ。爪先の青いペディキュアがすごく綺麗だ。
美糸さんはペディキュアも、マニキュアもしていない。化粧自体ほとんどしていなくて、そばかすも隠していない。深光さんと、顔立ちがかけはなれているわけではないが、美糸さんは素朴で、深光さんは丁寧といった感じだろうか。化粧の差で、印象が違っているのかもしれない。
靴箱の上にあったボトルで手を消毒したあと、俺はおみやげのお菓子を渡そうとして、「ええと」と深光さんにさしだすべきか、美糸さんにさしだすべきかに迷った。すると、美糸さんが咲い、「深光にだよね」と言ってくれて、俺も深光さんにさしだしやすくなる。「ありがとう」と深光さんは笑顔で受け取ってくれて、みやげ買ってきてよかった、と俺は噛みしめる。
「お菓子かな?」
「クッキー、だったかな。父親が毎年職場のみやげに買ってるから、うまいのかなって」
「じゃあ、おねえちゃんといただくね」
「私、もらっていいの?」
「もちろんです。食べてください」
そんなやりとりをしつつ、俺は家の中に案内された。右手は二階への階段のようで、左に入るとリビングがある。つけっぱなしのテレビや座卓があり、床はフローリングだ。人はいない。「適当に座っておいて」と美糸さんは奥に行ってしまって、「座ろうか」と深光さんに言われて、俺は慌ててうなずいた。
「暑いね。マスク取ろうか」
「密ではないですよね」
「おねえちゃんもつけてなかったし」
深光さんはマスクを外す。俺もそうすると、携帯しているマスクケースにいったんしまっておいた。
【第三話へ】