明日この世が終わるみたいに【2】
俺はベッドに乗って萌香の隣に横たわった。抱き寄せようとすると、萌香は「涼くんに聞いたの?」と言った。どきっとしたものの、「涼と何かあったの?」と抱くのをこらえて訊き返す。萌香はちょっと言いよどんでから、もう涼と別れていることを打ち明けた。思わず萌香を覗きこんだ。「ごめんなさい」と萌香は視線を伏せた。
「有栖の親友なのに、……私、」
俺は首を横に振って、今度こそ萌香を胸に抱き寄せた。温かくて柔らかい。このあいだ、お祝いだなんて言ってずるく抱きしめた軆が、また腕の中にいる。
どうしよう。好きだ。萌香が好きだよ。
それをささやきたかったけど、そう言って萌香が困ったときが怖くて、声にならない。もうちょっと。もうちょっと、萌香を腕に感じていたい。萌香も俺の背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きついてきた。服越しに伝わる萌香の感触が、追いつめるぐらいの勢いで俺を駆り立てる。
「……ねえさん」
「うん」
「もう、ダメだよ」
「え……」
「ほかの男なんか、やめろよ」
萌香は俺を見上げた。そして瞳を潤ませて、「有栖がいればいいわ」と甘えてしがみついてくる。
「有栖も」
「ん」
「離れていかないで」
俺は萌香をきつく抱いて、「そばにいるよ」と耳元でささやいた。遠まわしな束縛なら言えるのに、素直な「好き」のひと言は言えない。言っていいのか、まだ分からない。やっと抱きしめられたのに、それを言って、かえって距離になったら耐えきれない。
部屋が残暑にほてって、汗が滲んでもそうして抱きあっていた。空腹も忘れて、何年間も離れていたこの世で最も愛おしい軆を感じていた。萌香の心臓と俺の心臓が、まろやかに溶け合って重なっていく。
俺は萌香の髪をほどいて、その艶に指を通した。指先が頭皮に触れると、萌香の軆がわずかに震える。すれちがうときに感じていた、俺と同じ匂いが嗅覚から体内に流れこんでくる。
萌香を離したくなかった。たぶん、「好き」と言った向こう側でしか俺たちは結ばれない。俺は何度か言いかけたけど、俺の胸に頬を当てて穏やかにしている萌香を見ると、上手に声にできなくて言えなかった。
でも、言おうと思った。まだ萌香と酔っていたい今は言えなくても、近いうちに必ず言おう。俺はまだ萌香が好きだ。もう汚れなくていい。綺麗にするなんて、全部ガキの詭弁だった。昔から俺は、萌香に恋い焦がれているだけなんだ。
その夜はけして夢ではなく、俺と萌香の関係は緩やかにうつろいはじめた。萌香が物言いたげに俺を見つめるから「何?」と訊くとき、身をかがめて耳元で問う。あるいは出勤前に俺が仏頂面だと、萌香は背伸びして優しく俺の頬にキスをする。
手をつなぐ。抱きしめる。萌香がその瞳で、俺を見つめてくれるのが嬉しかった。
もう俺のことなんて視界に入れてくれないと思っていた。でもまた、あの頃のように愛おしそうに俺を瞳に映して微笑んでくれる。幸せすぎて、現実なのか判別できないほどだった。伝う視線に絡みついてくる、甘美な感覚が錯覚じゃない自信が持てたら、萌香に気持ちを伝えようと思っていた。
すぐに二学期が始まった。始業式の日、萌香はまだ起きていて、でもカーテンに陰るリビングで半分寝ていた。「休まないの?」と支度を終えて制服すがたの俺が訊くと、萌香は振り向いて曖昧にうなずいた。
俺は萌香の背中に近づいて、その肩を後ろから抱いた。萌香はずっとそうしてほしかったみたいで、俺の腕をぎゅっと抱きしめる。仕事から朝帰りした萌香はシャワーを浴びたばかりで、潤った柔らかい匂いがした。「今日から、お昼に起きても有栖がいないわ」と萌香が小さくつぶやいたので、俺は我慢できなくて萌香のこめかみに口づけた。
「学校終わったらすぐ帰ってくるよ」
「夕方くらい?」
「今日は始業式だけだから昼に帰ってこれる。何か作ってて」
「分かった」
「ねえさんが待ってるなら、寄り道なんかしないから」
萌香はこくんとして、俺の手の甲にキスしてから腕を離した。俺は軆を起こし、「じゃあ行ってくる」と床に置いていた荷物を持ち上げる。萌香は俺をかえりみて、「いってらっしゃい」と言ってくれた。俺はそれに「いってきます」と返すときびすを返し、にやつきそうなのを玄関で何とか押し殺して家を出た。
九月に入ったのに、まだ日射しは強くアスファルトを照り返していた。青空が痛いぐらい目に沁みる。電車のラッシュの熱を冷房が必死に冷まそうとする中、俺はスマホをチェックして涼の着信がないのを確認する。
萌香と別れたことは、涼からは聞いていない。別に気にしなくていいのだが、やはりあれだけ紹介しろと迫っていたので遠慮しているのだろうか。というか、家に来なくなった時点で察しろという話か。
萌香に言われるまでぜんぜん考えなかったな、とポケットにスマホに滑りこませる。何かあったとは思っていたが、別れたなんて俺にとって都合が良すぎて考えなかった。小波は知っているのだろうか。まあこのあと学校で嫌でも分かるか、と俺は思考を萌香にそらせて、さっき抱きしめた肩の感触に、早く家に帰ってあげたいと思った。
学校に着いて、駅からの道のりで、あっという間にかいた汗を鬱陶しく思いながら教室に向かった。朝陽の射す蒸した廊下では、新学期特有のかったるそうな挨拶が行き交っている。二年六組にたどりつき、ドアを滑らせようとしたときだった。
「はあ? 何だよそれ」
一瞥すると、少し先の二年六組の廊下の窓が開いている。そこから聞こえた声のような気がしたら、やっぱり会話が続いた。
「やっぱそう思うよな?」
え……。
「トラウマだか何だか知らないけどさあ、そんなもん引きずってるとか重すぎだろ」
この声。
「まあ、ほんとの話なのかも怪しいけどな」
涼……?
「どうせ作り話だろ」
「そんなのがごろごろしてるわけないじゃん」
そう、この声は敏輝と潤弥だ。
「やっぱそうだよなー」
何の……話をしてる?
「そこまでして貞淑ぶる女とか、もはや分かんねえわ」
女……?
「つか、そういうガードってヒくし。男に悪戯されてたから無理とか──」
俺は無意識に強くドアを引いた。会話が止まる。
やっぱり、そうだ。俺が来て話が止まるということは──。
教室に顔を上げ、声のしていた左手を向いた。そこでは、涼と敏輝と潤弥が溜まっている。涼が何か言おうとしたのが見えたけど、聞きたくなかった。
俺はそこに歩み寄ると、床に荷物を投げて涼の胸倉をつかんだ。
「ちょっ、有栖、」
「ねえさんの気持ちを何だと思ってんだよっ」
言うのと同時に、涼の頬を殴りつけていた。骨の音が関節に伝わる。教室がざわめく。敏輝と潤弥が俺を涼から引きはがそうとするけど、俺は涼を睨みつけて離さない。
「やらせなきゃ陰口たたくとか、その程度かよっ。どうせお前のほうが振られたんだろ? そんなだから振られ──」
「落ち着け、有栖!」
敏輝が俺を羽交い絞めにして抑え、涼は顔を顰めながら離れて、潤弥に支えられた。
「ねえさんの……そのことを、教室なんかで言い触らさなくていいだろっ。ねえさんの気持ち考えてみろよっ」
「……んだよっ、俺に落ちないお前の姉貴がおかしいんだろ!」
「お前なんかにねえさんが落ちるか、ねえさんは昔からずっと──」
涼が俺を見て、俺ははっとして口をつぐんだ。涼は笑みをもらした。
「やっぱり、あの人には男がいるんだ?」
「……それ、は」
「だったら、遊んでたのは向こうも同じじゃねえか、ふざけんなよっ。俺はちゃんと本気だったよ、でもあの人がいっつも浮わついた目だから──」
そのとき教室に担任が駆けこんできて、「川村!」と俺の名字を怒鳴った。涼は唇を噛んで目を背け、俺はそれを苦く見つめて舌打ちした。敏輝が俺を担任に引き渡し、「何やってるんだ」と涼の腫れてきている頬を見やった担任は息を吐く。俺も視線を下げた。
萌香は、昔から、ずっと。
朝、俺に甘えてくれた萌香が脳裏によみがえる。そう、昔からずっと、萌香は俺のことしか見ていない。俺しか見ないようにしてきた。
萌香に悪戯されるのを強いていたのは俺だ。俺を愛するように強いたのも俺だ。萌香の気持ちを何だと思っている? それは本当は俺が言われなくてはならない台詞だ。なのに、萌香はきっと俺を許していて、いじらしく俺を求めてくれる。
萌香に会いたいと思った。今すぐ抱きしめて、頭を撫でてほしかった。大丈夫、と言われたかった。またあのふたりだけの繭の中に戻りたい。
外の世界は疲れた。萌香を縛って、萌香に縛られて、明日この世が終わるみたいにただ愛しあっていたい。
萌香。好きだよ。俺以外の男が、萌香に相応しいなんてありえない。
だから、俺たちは早く閉じこもってしまおう。同じ血の匂いの中に溺れてしまおう。そうしないと、俺はこの世の男をすべて殺してでも、あんたの隣を手に入れたいと思ってしまうんだ。
【第二十一章へ】
