茜さす月-21

同じ血【1】

 夏休みが終わる直前のあの土曜日から、有栖が優しい。
 有栖のベッドで自分をなぐさめて、そのままうつらうつらしていた。部屋が暗くなってきて、起きなきゃ、とは思っても軆が重く気だるくて、何とか自分を片づけただけで、またベッドにうつぶせてしまった。
 有栖に抱かれているみたいで、ベッドが心地よかった。蒸し暑ささえなければ、毛布もかぶって有栖の匂いに包まれたかった。全身を抜けた快感の名残もあって微睡んでいた私は、有栖が帰宅した物音ではっとした。
 嘘。何時? 焦っても、バカみたいに寝たふりをするしかなかった。
 やがて有栖が部屋に入ってきて、当然ながら唖然としているのが分かった。どうしよう。何してんだ、気持ち悪い、そんなことを言われて、たたき起こされるのではないかとすくみそうだったけど、有栖はそっと私に触れた。ついで息遣いが唇に触れて、思わず声がもれた。
 ぱっと離れた有栖はこちらに背を向けてしまい、私はその背中を見つめた。
 キス、だったのだろうか。そう思うと、ちゃんともう一度してほしくなった。有栖の茶色の髪に触れた。振り返った有栖の切迫した瞳が愛おしかった。有栖の口が私の指先を少しだけ食んだ。有栖は身を乗り出して、私を見下ろして、やっと唇を重ねてくれた。
 何年ぶりなのか、とっさに数えられない。懐かしい味、舌の動き、蕩けあう唾液──視界が潤んで、肩も筋肉も男らしくなった有栖の軆にしがみついた。
 一緒にベッドに横たわってくれた有栖は、私を抱きしめて髪を梳いてくれた。その日はそのまま眠った。翌朝になったら全部夢として終わっているかもしれないと思うと、眠るのが怖かったけど、目覚めたとき有栖はまだ隣にいて、私の頬に触れていた。私が甘えて抱きつくと、優しく抱きしめ返してくれた。
 それから、有栖は態度が昔のように甘くて優しいものになった。見つめ方、微笑み方、触れ方、すべてがあの頃のように私を愛おしんでくれる。だから私も何だか安堵して、有栖に寄り添って、手を握って、口づけをした。
 有栖が優しい。それだけで嬉しい。これなら、もっと早く素直になっていればよかった。もっと有栖とふたりきりの時間を過ごしたかったのに、夏休みは終わってしまった。
 九月になった始業式、私は仕事が終わってシャワーを浴びて、洗濯機をまわしながら有栖の朝食を作った。それでも、まだ五時半だった。有栖起きてこないなあ、とリビングのソファで膝を抱えていたら、六時過ぎに有栖は起きてきて、私のすがたに気づくと少し構ってくれた。
 有栖はシャワーを浴びたり、朝食を食べてくれたり、制服に着替えたりしたあと、お昼には帰るともう一度私をぎゅっとしてから登校していった。私はソファに倒れこんで幸せを噛みしめてから、キッチンで有栖の食器を片づけて、部屋で眠りについた。
 でも、一時間くらいしか眠れずに目が覚めた。電話が鳴っている気がした。何だろとスマホをたぐりよせたのだけど、着信はない。何だ、とまた眠ろうとしたらまた電話が鳴った。
 眉を寄せて考えて、あれは確か家電のコールだと気づいた。家電なんか、もはやセールスの電話しかかかってこない代物だ。うるさいなあと思って毛布をかぶったけど、まだコールは続く。あまりにしつこいので、もしかしておかあさんに何かあったのかなと、私は仕方なくベッドを降りた。
 そうしたら、有栖の担任の先生からの電話だった。有栖がクラスメイトをいきなり殴りつけて暴力沙汰を起こしたらしい。しかも、そのクラスメイトは涼くんらしかった。ちょっと寝ぼけていた私は、とっさに混乱してしまったけど、「こちらにお越し願えますか」と言われて、何とか目をこすって頭をはっきりさせた。「親は留守がちなので私が伺います」と言って承知してもらうと、電話を切った。
 まだ眠気で脳が潤びていて、何度も頭を揺すってまばたきする。有栖。何かあったのだろうか。涼くんを殴った。涼くんと別れたことは、結局有栖は私から知ったようだった。なぜ言わなかったのかと責めたとか──それで殴るまでするだろうか。
 どのみち、今から事情を聞きにいくのか。私はリビングの奥にやっている電話の前を離れると、仕事のときとは違う軽いメイクをして、おとなしめの紺のアンサンブルを着た。そしてバッグに財布やスマホを入れると、まだ強い午前の日射しの下、駅まで歩いた。
 時間帯的にさほど混んでいなかった電車で、そういえば、有栖の高校には初めて顔を出すなあと思った。受験のときも、合格発表のときも、入学式のときも、有栖は大丈夫だと言ってひとりでここまで来ていた。
 そろそろ大学受験で三者面談とかもあると思うのだけど、やはりおかあさんは私のときみたいに帰ってこないのだろうか。有栖はちゃんと大学に行ってほしいから、私ができる限り対応しようとは思っている。高校の最寄りで降りると、ちょっと迷いそうになったけど、何とか有栖の通う高校にたどりつくことができた。
「川村有栖の姉ですけど」
 授業中みたいで、校内は静かだった。靴箱を抜けてすぐ左手に職員室があったので、勝手にスリッパを借りて顔を覗かせ、そう挨拶する。「あ、」と手近にいた先生が頭を下げて職員室を見やり、「すみません、わざわざ」というジャージの三十手前くらいの男の先生がやってきた。
「川村の担任の松近まつちかです。初めまして、ですね?」
「はい、初めまして。あの、弟が──」
「今、生徒指導室にいるんですが、困ったもんで、何も話さないんですよ」
「そう、ですか。その、弟が手を出したほうの子は」
「保健室です。話しますか?」
「その子が良ければ。でも、まずは弟に」
「分かりました。行きましょう」
 有栖の担任は、後ろ手に職員室のドアを閉めると、職員室とは逆の右手へと歩き出した。私はそれについていきながら、学校での有栖ってぜんぜん知らないなと改めて思った。
 というか、家の外の有栖をよく知らない。親友という涼くんの存在にも驚いたのに、今度はその涼くんを殴るなんて。一番奥の教室の前で立ち止まった有栖の担任は、ノックしてからドアを開けた。
「どうだ、少しは頭冷えたか」
 返事はない。息をついてこちらを見た担任は、「おねえさんには話すかもしれません」と私を中にうながした。私が顔を出すと、有栖は広くない教室で椅子に腰かけて顔を背けていた。「僕は職員室にいますので」と担任は引き下がって、私はその教室に踏みこむとドアを閉めた。
「有栖──」
「……俺が悪いんだ」
「えっ」
「俺がねえさんをひどい目に遭わせてたから」
 私は有栖に歩み寄って、向かい合ってしゃがむと手を取った。有栖は泣きそうな目で私を見た。
「ほんとは涼としたかった?」
「………、有栖以外としたいと思ったことなんてないわ」
「ほんとに?」
「涼くんに何か言われたの?」
「言われた、というか、言ってた。男にそういうのされてて無理だって、ねえさんに言われて別れた……みたいなことを」
 有栖を見つめて、私は首をかたむけた。
「間違いではないわ」
「じゃあ、」
「でも、分かってる。私は後悔してないわ。有栖だけは選べないより、有栖しか選べないほうが私は幸せよ」
 有栖の手が私の手をつかむ。私はそれを握り返して微笑んだ。
「全部、有栖と私には必要だったから、いいのよ。あの人にされていたことも、有栖しか許せなくなったことも、ほかの男は受けつけないことも。大丈夫、有栖は悪くない」
「ねえさん──」
「私たちのためだったって、私は知ってるわ」
 有栖は、急に私を引き寄せて抱きしめてきた。私は倒れこむように有栖の制服の胸に顔をうずめた。有栖は手はつなぐまま、右腕を私の腰にまわす。
「ねえさんは、俺に甘すぎるよ」
「イジメてほしい?」
 有栖は首を横に振って、私の顔を覗きこんでくると、軽くキスをしてきた。「いっぱいキスしたい」と有栖は甘えた声で、私の手を恋人つなぎで握る。
「家、帰る?」
「帰る。学校の奴にねえさん見られたくない。また涼みたいのが出てきたら嫌だ」
「涼くんと仲直りしないの?」
「もういい。俺もねえさんがいればいいから」
 私は身を起こして、有栖も椅子を立ち上がった。「荷物はないの?」と訊くと、「教室だ」と有栖はつぶやき、もどかしそうに私を見たものの、「取ってくる」と手を放した。「ここにいて」と言われてうなずくと、有栖は教室を出ていった。
 私は有栖が腰かけていた椅子に腰を下ろし、有栖の唇が触れたばかりの唇に触れた。いっぱい、キス──想像しただけで、神経が甘く蕩ける。
 どうしよう。有栖が好きだ。昔よりも、もっと好きだ。声が低くなったのも、軆がたくましくなったのも、背がずっと高くなったのも、全部愛おしい。
 本当に、私は有栖にしか感応しないみたいだ。涼くんといたとき、こんなにどきどきしたりしなかった。有栖が目の前にいると、血の中に麻薬が混じったみたいに全身が痺れてくる。まるで有栖に流れる同じ血に反応しているように。
 このまま、またふたりだけのあの世界に幽閉されたい。そしたら、きっと有栖はもっと私を──生クリームに沈んでいくみたいに、その息苦しい甘さに酔っていたときだった。

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