風切り羽-107

時間をくれるなら

「沙霧さんは、音楽には執着してないんですね」
「まあな。俺、楽譜も読めねえもん」
「ゲームが好きなんですか」
「ゲーム。昔ほどでも。何で」
「いえ、ゲームが好きなら、そっちの仕事もあるんじゃないかって」
「はは。俺はやるの専門だからな。作り出す個性はないよ。そうだな、何してんだろ。萌梨はなりたいもんってある?」
「ないです。ぜんぜん」
「不安?」と訊かれ、躊躇ったのちうなずく。
「そっか。ガキの頃、何て書いたっけかなあ。将来の夢の作文とか書かされなかった?」
「書かされました。僕──憶えてないです。模範みたいなのを書いた気が」
「俺も。俺、将来のことなんか分かんないんだよな。決められない。一時期、残るか堕ちるかみたいになった時期あるしさ。あんなん抜けたから、今落ち着いてんのが続けば、無理に良くしようとは思わないんだよ」
 僕はこくんとした。分かる気がする。
「しかし大人にしたら、若者はでかすぎる希望に羽ばたかなきゃいけないんだと」
「したくないことで無理して、危なくなっちゃうほうが怖いですよね」
 沙霧さんは僕を見て、含み咲うとうなずく。
「何、ですか」
「ん、何が」
「笑いませんでしたか」
「ああ。いや、分かるんだなあと」
「分かる」
「そういう、無理すると危ないとかさ。だいたいの奴には、それは思いもよらない神経質だよ」
「そう、なんですか」
「うん。夢を持てって押しつける奴は、こっちの神経の細いとこを無視してるんだ。普通はそんな細いとこなんか無視できるんだろうけど、俺は自分が堕ちたらどうなるのか、一回体験しちまったわけだし」
 沙霧さんが堕ちたとき。壮絶ではあったのだ。以前ざっとしてもらった話が思い返る。家も学校もかえりみず、法律に触れることもさんざんやっていた。そういうことには一般人であるのと、自分が自分でなくなる空恐ろしさを知る僕には、薬物をやったというのが衝撃的に焼きついている。
「その頃は、そうしてるのが楽だったんですか」
「まあ、な。楽というか、マシかな。そのときはだぜ」
「今は嫌なんですね」
「うん。神経質にもなるって。俺はあの頃にだけは戻りたくないんだ。あんなのしてんのが一番マシだった状態には、二度となりたくない」
「そう思えてるなら、それを大切にしたほうがいいと思います」
 沙霧さんは僕を向いて、「うん」と笑みになった。僕も少し照れ咲いする。気づくと悠紗がこちらを眺めている。「強くなったか」と沙霧さんは悠紗の隣に帰り、「ダメ」と悠紗は沙霧さんを首を垂直に折って仰ぐ。
「悠って、タイミング系下手だよな」
「むずかしいもん。昔よりはマシになったよ」
「そうか?」
「そうだよっ」
「楽器弾くのもタイミング入りそうだよな」と沙霧さんは悠紗の隣に座る。ふくれていた悠紗は不安げな顔になって、「あのね」と沙霧さんの服を引っ張る。
「僕、無視してるの?」
「は?」
「細いとこ無視してるから、音楽したいって思ってるの?」
 沙霧さんは悠紗を見ると、「聞き耳」と咲って小突いた。悠紗は頬をわずかに染める。
「自分で好きなもの持てる奴が、一番いいんだよ。悠はそれ」
「ほんと?」
「ほんと。だから、俺も萌梨も悠がうらやましいの。違ってたら可哀想にって思ってるぜ」
 悠紗は沙霧さんを見て、僕を見て、床を見る。沙霧さんに頭をぽんぽんとされると、やっとうなずいて納得した。悠紗ってこういう子だよなと胸の内で微笑ましくなる。
 昼下がりにふとんを取りこんだほかは、時間の流れは平穏だった。僕のあの夢の反動も、沙霧さんが来て紛れ、埋めるより落ち着くという方向に収まった。
 悠紗と沙霧さんのやりとりも、聞いているのはおもしろい。悠紗は早熟な知識は要さんや葉月さんから取り入れているようでも、大人びた知識には沙霧さんから吸収しているようだ。知らない言葉が出てくると説明してもらい、「ふうん」と噛み砕いている。
 ふたりは僕のことも構ってくれて、いい意味で鬱に沈んでいるヒマがなかった。夕方になった頃には、向こうにいたときにはありえなかった速度と堅実さで、僕の精神は安定していた。明かりをつけてカーテンを閉めつつ、沙霧さんが来てよかったなと思った。
 その時間になると、「帰りたくない」と沙霧さんはぶつくさしはじめた。受験生の十二月はいろいろ慌ただしそうではある。去年僕は一年生で、中学でも三年生は惣々としていた気がする。高校だと、あれで済む騒々しさでもないのか。沙霧さんが壊れた時期を見た親も向上を願っているのは、僕にしたら不可解でもある。
 聖樹さんが帰宅しても沙霧さんは部屋にいたけれど、十九時半過ぎに電話が鳴って、それは沙霧さんと聖樹さんのおかあさんだった。聖樹さんに受話器を受け取った沙霧さんは、鬱陶しそうではなくてもだるそうに話す。
 そばに立つ眼鏡をかける聖樹さんは苦笑していた。ゲームをRPGに切り替えた悠紗もそうで、夕食の用意を手伝う僕は息を詰めている。聖樹さんたちのおかあさんに、僕の存在が気取られるのはまずい。
 受話器を置いた沙霧さんは「『迷惑かけるな』だって」と息をつく。「逃げたくなったら、またいつでも来ていいよ」と聖樹さんに肩をたたかれ、沙霧さんは仕方なさそうに通学かばんとデイパックのところに行った。
「ねえ沙霧」
「ん」
 上着の袖を通す沙霧さんは聖樹さんに目を向ける。要さんが梨羽さんに目を向けると何となく優しくなるみたいに、沙霧さんも聖樹さんを見るときは心持ち視線をやわらげる。
「沙霧は、しばらくいそがしいんだね」
「ん、そうだな。来週試験だし。落第点とってモラトリアムしよっかな」
「早く卒業したいんじゃないの」
「はは、まあな。で、それが」
「ちょっとね、時間くれるんだったら欲しいなって思って」
「時間。別に構わないぜ」
「いそがしいんだろ」
「逃げ出す口実じゃん」
 悪戯に笑う沙霧さんに、聖樹さんは眉をひそめる。まじめな兄と不良の弟だなと傍目で思った。
「じゃあいいよ。落ち着いたあとで」
「嘘だって。どんどんうるさくなってくだけだろ。落ち着くのなんか卒業後だぜ」
「卒業──」
「三月の初め。三ヵ月後。何かあるんだったら、今のうちに済ましとけよ」
 聖樹さんは沙霧さんを見つめて考え、うなずいた。早いうちがいいと聖樹さんが言うと、「明日は」と沙霧さんは返す。「明日」と聖樹さんは面食らう。
「学校、は」
「土曜で休み。俺、もうどうせこれで家帰って、普通に寝るしさ。明日の日中はずっと空いてるぜ」
「そう。じゃあ、お昼過ぎは」
「十三時頃」
「だね」
「いいよ。うちに来んの」
「いや、どこか──こないだ萌梨くんのこと話したとこ、いい?」
「えー。ああ、あそこ」
「そこで一回会って、別のとこに」
「分かった」と承知した後に、「でも何?」と沙霧さんは首をかしげる。
「それは明日。今日は歩き?」
「ああ。学校から直行で逃げてきた。先公に追いかけられてさ。月曜、学校行くの怖いなー」
「直行って、制服は」
「この中」
 沙霧さんはデイパックをたたく。聖樹さんはあきれた息をつく。
「じゃあ、まあ歩きなら気をつけてね。真っ暗だし」
「俺は殴るときは殴るぜ」
「そういうことじゃないの。あ、萌梨くん、シチューの火止めて、つくえ拭いておいてくれる?」
「あ、はい」
 沙霧さんも僕を向き、「じゃあな」と言った。僕はこっくりとする。沙霧さんは悠紗にも同様にすると、また不平を並べ、聖樹さんになだめられながら玄関に送られる。
 僕はホワイトシチューを煮こむ焜炉の火を止めると、ふきんを取ってリビングに行った。悠紗と顔を合わせる。
「時間だって」と悠紗は言い、僕はうなずく。
「何かな」
「さあ」
 心当たりはなくもなかった。例えば、両親に沙霧さんの将来の世話を焼くのを頼まれた、とか。そうだとしたら沙霧さんは気の毒だ。聖樹さんにかまわれると沙霧さんは弱そうだし、そこを周囲が利用するのもなくない。
「あれかなあ」
 つぶやいた悠紗に、「え」とふきんをテーブルに走らせる僕は振り返る。
「ほら、こないだ沙霧くんが来たとき、おとうさん沙霧くんに何か言おうとしてたじゃない。あの話かもよ」
 そういえば、と沙霧さんが訪ねてきた一週間前を思い返す。あれはEPILEPSY最終日の翌日だった。あの日、聖樹さんは沙霧さんに何かを言いたそうにして、結局は口をつぐみ、かなり露骨にはぐらかしていた。
「あれ、あの女の人が来た次の日だったよね」
「じゃ、あの人のことかな」
「かなあ。一週間して、気持ちが片づいたとか」
「あの人の、何の話だろ」
「んー。分かんない」
 僕はもう、あの人の顔も憶えていなかった。が、顔はないのにあの卑しい笑顔や甘ったるい声は覚えている。あれ以来、あの人からの働きかけはない。おとなしく引き下がったのか。もしかすると、聖樹さんはあきらめる人ではないと踏んで、その対策を沙霧さんに相談しようとしているとか。
 あんがいただの兄弟の話かもな、と僕がテーブルを拭きおえてキッチンに帰ろうとしたとき、聖樹さんもこちらに帰ってきた。僕の手にあるふきんを見て、「ごはんにしようか」と笑む。
 僕がこくんとすると、聖樹さんは眼鏡をはずしながら悠紗にゲームを片づけるよう言った。そして、物言いだけにする僕には微笑んで、何も言わずに僕の背中をキッチンへと押した。

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