突然の電話
翌日、午前中には家事をしていた聖樹さんは、午後は出かけてしまった。
四人のところに行ってもよかったけど、火曜日に行ったとき、週末にはスタジオがあると紫苑さんに聞いていた。聖樹さんは出かけ際、遅くなるかもしれないと言った。
悠紗はゲームをして、僕はそれを眺めて、「何だろね」と当て推量する。
「これまでに、こういうのってあった?」
「んー。ない、かな」
「やっぱ、あの人のことなのかな」
「何か話すことあるかな」
「また押しかけてきたときの相談とか」
悠紗は嫌な顔になって、「来るのかな」と僕を仰いでくる。僕は首をかしげた。
「だって、あの人って分かんないし」
「僕も分かんない」
「ちょっとしたら、ほとぼり冷めたとか思って来るかも」
「やだなあ。でもそうだね。分かってなさそうだったもんね。僕が怒ったのも気にされてないのかな。おとうさんが言ったのも分かってないのかな」
「こわーい」と悠紗は言って、戦闘になるとそちらを向く。僕は昨日の夜の雑談の際、気になって聖樹さんにこのことを訊いてみた。「話しておきたいことがあるんだ」と聖樹さんは言った。
「話」と僕が言うと、「萌梨くんには何にもないから」と聖樹さんは咲った。僕に関することかもとは思い設けていなかったのでどきっとしたが、何にもないというのなら、そこはそれでほっとする。
そのあと、沙霧さんの高校や将来のことを話して、何だか今思い返して、うまくごまかされたのに気づく。戦闘を終えると、遺跡を進む悠紗は僕に向き直った。
「あの人以外のことだったら、何にもないかな」
「んー、沙霧さんのことは」
「沙霧くん」
「高校卒業したあとのこと」
「おとうさんが気にするかな」
「両親に頼まれたとか」
「あー。それだったら、ここでしてもいいんじゃない」
「あ、そっか」
そう、ここでできない話というのも念頭に置かなくてはならない。悠紗か僕に聞かれたくない、もしくは聞かせてはいけない話をするということなのか。
悠紗は地面に落ちていたアイテムを拾い、さっそくキャラクターに装備させている。そこでまた戦闘が発生し、それを倒すと悠紗は僕を見る。
「まあ」と僕は自分に対しても兼ねてたしなめた。
「そのうち、聖樹さんが自分で教えてくれるんじゃない」
「そお、かな」
「うん。すぐかは分かんなくても、そんな、悠紗には絶対話せないいかがわしい話でもないだろうし」
「いかわしい」
「いかがわしい。怪しい、というか。知ったら良くないとか」
「いかがわしい。ふうん。そっか。そうだね。じゃ、おとうさんが言ってくれるの待つのがいいんだね」
僕はうなずき、悠紗もそれに笑んで詮索するのは素直にやめた。
いずれにせよ、聖樹さんが悠紗や僕に話せないというのなら、僕たちも立ち入らないほうが賢明なのだろう。後ろめたいから語らない、とかいう理由は、聖樹さんであればないと思う。
悠紗の操作する主人公が、遺跡を走りまわるのを眺める。
その後も、露骨にそのことを話題から撤収はせず、「いつ帰ってくるかな」とか「どこまで行ったのかな」とかいう話はした。
遺跡を進み、ボスに当たると悠紗はそちらに集中する。
僕はガラス戸を見やった。休日のせいか、外では話し声や物音の雑音が多い。天気も悪くはなく、寒そうであれ青空が伸びている。乾される洗濯物は、水曜日に僕がしたので、普段に較べたら少なめだ。夕方に取りこむのは、引き受けることになっている。
「夕食までには帰ってこれると思う」と聖樹さんは言った。つまり、夕食は勝手に用意しなくていいのだろうが、悠紗がお腹が空いたと言えば軽く作ってもいい。
来週は十二月だなあ、とも思った。十一月いっぱいはここにいられる。この予想は外れないだろう。
来月のなかばには、あの四人はいなくなってしまう。しばらくここで休むときに当たったせいか、四人が十階にいるのが日常的になって、いなくなってしまうのが信じられない。
あの四人がいなくなったら年末で、僕はここでクリスマスやお正月も過ごすのだろうか。いられたらいいなとは思う。
ボスを倒してイベントを済ました悠紗は、街に帰って療養をしたときにセーブをし、ゲームをやめた。勉強するのだそうだ。「紫苑さんたち、来月にはいなくなっちゃうね」と僕が言うと、悠紗は寂しそうにこくんとする。
「次に帰ってくるのいつかな」
「えぴれぷしーには帰ってくるんでしょ」
「次のEPILEPSY、分かる?」
かかるカレンダーは来月の十二月で終わっている。ひとまず来月に十三日の金曜日はない。しょうがないので紙に書いて計算したら、来年の八月というのが発覚して顔を合わせてしまった。
「八月だって」
「うん」
「夏だよ」
「半年以上先だね」
「今から冬なのに」
「けっこうないんだね、十三日の金曜日って」
「その次はいつかな」
なおも計算しようとしたものの、「何か怖くない?」という悠紗の躊躇に、確かに怖かったのでやめておいた。悠紗はノートを広げて息をつき、今のうちに時間もらってたほうがいいかなあ、と僕も天井を仰ぐ。
四人が帰ってきたとき、まだ僕はここにいるだろうか。そう思ったことがあるけど、この情報に不安は一気に強まった。
八月。半年以上──正確には、八ヵ月先だ。僕はここにいないのではないか。四人がここを出ていくのを見送る見こみはあっても、迎えられる可能性はぐんと低い。
最悪、見送りが四人との最後かもしれない。要さんと葉月さんの軽口を聞くのも、紫苑さんが悠紗にギターを教えるのを見るのも、梨羽さんの怯えた雰囲気を感知するのも、終わりかもしれない。再びXENONのライヴを、この目で見ることもなくなってしまう。
なくもない冷たい現実に、胸騒ぎの哀しい吐き気がする。
悠紗が勉強を始めて、昼食の食器を片づけた僕は、音楽を聴くことにした。『MORGUE』にするのはすんなり決まった。ほかの二枚は何度か聴いていても、これは一回きりだ。
絶望って感じだったっけ、と思うと逡巡がかすめなくもなくとも、聴いてみる。危なくなったら止めればいい。ヘッドホンをかけるのはもはや習慣で、僕は仕切りに体重をかける。
ドラムスのリズムだけが“檻”である小品曲の“中絶”のあと、EPILEPSYにも連ねられていた“窒息”がはじける。梨羽さんの声に耳を澄まし、もし向こうに連れ去られていたら、と膝を抱えた。
そうなっていたら、せめてXENONのこの三枚のアルバムはどうにか手に入れたい。空っぽになる衝撃で、のしかかられる苦しみから一時的にでも現実逃避できるかもしれない。あの無感覚にこの衝撃が勝てるかどうか、言い切れずとも見限りもできない。
少なくとも、ポップスより勝算がある。僕の痛みに蹴りこんでくれる。この音は衝撃だけでなく、無限の抑鬱もはらんでいるし、そこに共鳴できれば孤独から救ってもらえる。
XENONの音楽は、そういう音楽だ。だから痛みも何もない人には無価値だ。この音楽は一種の精神療法を秘めている。救ってほしかった僕は、ゆえに変えがたかった無関心も解いて、この音に強烈な興味を持ったのだ。
すさまじい孤独に、優しい体温でなく、同じ孤独を見せる。XENONのやり方は、そんな感じだ。そしてそれは、僕みたいに不信感に壊れた心の人間には、一気に突き刺さって効果的だ。
なぐさめの言葉でじわじわ溶けるなんて、この殻にはほぼ不可能なのだ。信じるも分かるもできない。XENONは、ある種の壊れた心への仕方を心得ている。でも原理が解けなければ、一見超自然的で神様みたいだ。それで、梨羽さんはカルトに崇められるのだろうか。
最悪が起こったときには、あちらで梨羽さんたちのこの音を探そう。ブックレットには、聖樹さんと悠紗の名前も記されている。僕がここで得たものが、かたちになっている。
僕の家にはプレイヤーはなかったけれど、持っているだけでもいい。ひとりぼっちではない証明を握りしめておかないと、あちらでの僕は、簡単に感情につぶされる。
このアルバムが残したのは、今回も重苦しい混沌の疼痛だった。一度聴けば、存分にぐったりする。このアルバムは、共感というより途轍もない闇で、どんなものも陰らせる。光を持つ人は用がないし、やわな痛みは負けてしまう。
日が暮れる前に洗濯物を取りこみ、たたむのは悠紗も手伝ってくれた。「おとうさん、帰ってこないね」と悠紗は言い、僕もうなずく。十二時半過ぎに出かけ、十七時になろうとしている。
早くも空には夕暮れが滲んで、聖樹さんが帰る頃には真っ暗になっているかもしれない。洗濯物をたたみおえると、僕は明かりをつけてカーテンを引いた。
「お腹空かない?」
「まだ平気。でも、おとうさんいつ帰ってくるのかな」
「お腹空いたら作ってあげるよ」
「そお。おとうさん遅いね。こんなに遅くなるとは思ってなかったな」
洗濯物をたたみおえ、悠紗は勉強に戻ろうと、僕はタオルをバスルームに持っていこうとしたときだ。突然電話が鳴り響いて、悠紗と僕はどきりと顔を合わせた。
「な、何。誰」
「聖樹さん、じゃない?」
「あ。でも分かんないよ。どうする?」
「どう、って──それ、留守番電話とかできないのかな」
「知らない。あんまり電話使わないもん」
それ自体には何にもないのに、僕はタオルを抱きしめてそろそろと電話に歩み寄る。
コールは鳴り続けている。
留守、というボタンはあった。押してみても作動しない。使わないので、設定がされていないらしい。
「ほっと、こうか」
「けど、おとうさんだったら。あ、変な人だったら切ればいいかな」
「そう、だね」
「またかかってきたら」
「そのときはそのときだよ」
「そうか。保育園、の人ではないよね」
「こないだ話したんだし」
「そっか」と悠紗はみずからを安んじる深呼吸をした。そして息を吐いて背伸びをして、コールの止まらない電話の受話器を取った。
「もしもし、鈴城──え。あー、何だ。おとうさん」
おとうさん。その言葉に、息を詰めていた僕はほっとした。悠紗も同じく肩の力を抜いている。
「え、だって保育園の人かとか思ったんだもん。──はは。そだね。──うん。どうしてるかなって萌梨くんとも話してたよ」
電話かと思いながらタオルを抱え直し、その無造作に、これをバスルームを持っていこうとしていたのを思い出す。話す悠紗にはタオルをしめしておき、バスルームに向かった。
【第百九章へ】
