風切り羽-111

訪れたのは

 悠紗は勉強を再開して、僕は時計を仰いだ。あれこれあって、十八時もまわっている。僕はコンポを片づけると、お風呂に入るかを悠紗に訊いた。悠紗はこくんとしかけ、「おとうさんいないよ」と気づく。
「あ、そっか。ひとり、ではダメだよね」
「僕は別にいいよ」
「転んだりしない?」
「しないもん。んー、じゃ、萌梨くん入ろうよ」
「えっ」
「嫌?」
「い、嫌、というか。悠紗はいいの?」
「僕はいいよ」
「そ、そう。じゃあ、まあ、うん」
 にっこりした悠紗に、何だかなあと内心つぶやく。一ヵ月以上暮らしていても、僕は他人だ。全裸を見られて平気なのか。子供とはそんなものなのか。僕には分からない。
 バスルームに行くとバスタブは空で、まずは蛇口を捻り、タイルにしゃがんで水がお湯になるのを無言で待つ。
 僕には幼い自分が焼きついて、並行している。そう思っているけれど、正確にはその幼さは、子供には早すぎる経験で捻じ曲げられた壊れた幼さだ。壊れていなかったら、しっくり過去という箱に収まっていただろう。
 僕は、普通の子供の心理や感受性を知らない。僕はされていることのとまどいや言いようのない靄に支配され、子供特有のことからははずされたまま、幼少期を終えた。下手なものを引っぱたかれて起こされたばかりに、子供としての特徴を帯びた言動には、泣き寝入りされていたようだ。
 ゆえに僕は、あのこと以外の記憶がおぼろげにしか残っていない。僕はあまりにも、子供がされてはならないことをされすぎていた。それが根おろす影に支配されていた。ただあのことが食いこんで、ほかは意志もなく、ゆらゆらとやりすごしていただけだった。
 あの頃から。いまだにそうだ。僕は影に支配されている。
 蛇口が吐く水に、細い湯気が立ちはじめる。
 自分が妙な気を起こさないのは分かっている。子供の軆を見て記憶の鍵にならないかと、そんな不安はあった。悠紗の歳の頃には、僕はすでに大人の卑猥な手つきを肌に受けていた。変なのにならなきゃいいな、と僕は指先で蛇口の水がお湯になったのを見ると、栓をして立ち上がる。
 リビングに帰ると、悠紗のそばで雑誌を読んで時間をつぶした。溜まった頃に再度バスルームにおもむき、湯加減を見る。入る前に、少し沸かせばちょうどいいだろう。熱が逃げないように蓋をして戻ると、「お腹空いた」と悠紗に言われて、僕はキッチンに立った。
 勉強を片づけた悠紗も追いかけてきて、「手伝う」と言ってくれる。「簡単なのでいいよね」とカレーに決まった。悠紗が皮剥き器で野菜の皮を剥き、僕が米を研いでいたときだ。
 突如部屋にインターホンが鳴り響いて、どきんとした。
 二回連続のドアフォンだった。悠紗と僕は顔を合わせる。先日、変な人ではないと分かるように二回連続で押してほしいと、悠紗が沙霧さんに頼んでいた。
「沙霧くんかな」と言われ、僕は首をかたむける。その可能性は高いので、僕は洗った手を拭いて、さほど遅疑せずにインターホンの受話器を取った。渡された悠紗が応答すると、案の定、相手は沙霧さんだった。
 悠紗が鍵を開けにいって、僕はシンクの前に戻る。沙霧さん。何だろ、と首をかしげた。来るとは思っていなかった。何か伝えにきただけで、すぐ帰るとかかもしれない。
 白く不透明になった水を排水溝に捨て、再び米を研ぎだしたところで悠紗と沙霧さんはやってきた。振り返った僕に、沙霧さんは曖昧に咲う。僕も似たような笑みを返し、「どうしたんですか」と訊く。悠紗は床に座って、野菜の皮を剥くのを再開する。
「いや、危ないしさ。兄貴、今日帰ってこれないし。一応、俺が」
「あ、いてくれるんですか」
「まあ。兄貴もそうしてくれって言ったし。邪魔かな」
「いえ。悠紗も──」
「ゲーム、一緒にしてくれる?」
 上目遣いの悠紗に、「上達したか」と沙霧さんは咲う。悠紗は照れ咲いして、「教えてよ」とにんじんの皮を剥いた。
 そっか、と僕も納得する。確かに、頼れる人がいたほうが心強い。悠紗に頼るわけにはいかないし、僕は僕で不安がある。沙霧さんだったら安心できる。ほっとした僕は、沙霧さんに夕食を食べたのかを問う。
「いや。食べてないな。そんなヒマなくて」
「作りましょうか」
「いいのか」
「カレーですし」
「っそ。じゃあ、もらうよ」
 承知した僕は、悠紗が皮を剥いてはボウルの水に浸している野菜を見おろす。三人ぶん、じゅうぶんまかなえるだろう。米の分量も、明日の朝のぶんを念頭に置いていた。
 沙霧さんはリビングに行って、オーバーを脱ぐと、座卓のそばに座る。
 僕は研ぎ終わった米を炊飯器に流しこむと、いっとき置いておくあいだに、ボウルの野菜を網にいくつか取り、水を切るとぶつ切りにしていく。
 リビングをちらりとすると、沙霧さんは座卓に頬杖をついて、考え深げだった。瞳は宙を泳ぎ、ため息もついている。
 話されたら話されたで、複雑だろう。まして沙霧さんは、聖樹さんに何かあるとも思っていなかった。二十年近く親しくしてきただけに、ショックも大きいと思う。事実は何とか飲みこんでも、それをどう受け止めて消化するかには困惑しているはずだ。
 あの様子では笑ったりもしなかったんだろうな、と要さんと葉月さんが絡んだ不謹慎な推察もする。もしかすると、そのとき話して笑われたのが、何気なく聖樹さんには告白してみるのを狐疑させるものになっていたのかもしれない。
 今頃、聖樹さんは両親と対峙している。要さんたちのような笑いはされないだろうとしても、ふたりの笑いのほうがマシな笑い、つまり笑殺はされていないのを祈りたい。もちろん、笑みすら消して嫌悪されるのも、ふざけるなと信じないのも、あってほしくない。
 とにかく聖樹さんが後悔するようなことには、僕もなってほしくない。
 分かってもらえるかもしれない、と思ってあのことを告白し、はねつけられた経験は、まだ僕にはない。もしそうされたらその痛手が計り知れないのは推知できる。人間不信も招きかねない。
 それぐらいで、という人もいるだろうが、このことを口にするのは、そんなにたやすいことではないのだ。少なくとも僕にとっては、あれは根底からめちゃくちゃにされたひどい仕打ちだった。でも、だいたいの人には、どれだけ僕が揺すぶられたか分からない。
 どうせ分かってもらえないなら、言いたくない。分かってもらえずに不可解がられるぐらいなら、言えもしない。だから、この人には分かってもらえるかも、と思えることはものすごいことで、そんな相手に背を向けられたら、不信感と無気力に見舞われて絶望的な状態になってしまう。
 聖樹さんが両親に傷を晒すのは、手堅い信頼の上というより、思い切った投機に近い。聖樹さんが心の荷をおろせて安堵して帰ってくるか、閉じこめておけばよかったとぼろぼろになって帰ってくるか、可能性は五分五分だ。僕は聖樹さんの両親がどういう人かいっさい知らないので、ますますこの賭けの行方が分からない。
 野菜の皮を剥いた悠紗は、「次、何する?」と言う。じゃがいもの発芽をくりぬいて、ひと口大にしていた僕は、電子レンジで温めたのち、自然解凍していた薄切りの牛肉の包装を開いておくのを頼んだ。悠紗はそうして、僕は切った野菜を水に浸して、炊飯器のスイッチも入れると、まずその肉を炒める。野菜を順々に入れて、慣れた手順で煮こむだけにした。
 そのあいだに、悠紗に手伝ってもらって、マカロニサラダも用意する。ゆでたまごを作って、悠紗がそれをつぶしてくれているあいだに、マカロニをゆがいたり野菜を切ったりする。あとはカレーを煮こんでごはんが炊けるのを待つだけになると、悠紗はリビングに行かせた。
 ぼんやりとしていた沙霧さんと共に、悠紗はゲームを始め、僕は使った器具や食器を洗ったり片づけたりする。
 十九時過ぎに夕食ができあがり、いつも聖樹さんがいるところに沙霧さんが座り、僕たちは悠紗が拭いたテーブルで夕食を取った。沙霧さんは僕を見て、少し食べるのを躊躇ったようでも、食べてみると、「うまい」と言ってくれた。
 沙霧さんは、向こうで僕が家事を仕切っていたとは知らない。料理なんて、ここでの聖樹さんの手伝いで初めて手をつけたものだと思っていたみたいだ。
「沙霧くん、泊まってくの?」という悠紗の問いに、「そうしたほうがいいなら」と沙霧さんは答えた。悠紗は僕と顔を合わせると、「じゃあ、いてね」と沙霧さんに言う。
 悠紗は聖樹さんの話題を妙に避けたりせず、たまに質問して逆に自然なようにしている。悠紗の言動のからくりを知っている僕としては、切なくもあった。

第百十二章へ

error: