空が溶け合うように【1】
あと数時間後に、四年生の春休みが終わって五年生になる。
そんな日に、このボス戦には勝つと躍起になっていたら、明かりも消した部屋で、朝までゲームをしていた。今になってこみあげるあくびに、「やばい」とコントローラーを放って、カーテンをめくる。よく晴れていて、空は透明色のオレンジが滲んで白みかけていた。
ゲームに没頭中、新聞配達の音を聞いた気もする。時計を見ると、五時半だ。
これは始業式は立ったまま寝る、と目をこすって、ゲームとテレビの電源を切って部屋を出る。すうっと朝の冷気が首筋を撫でた。薄暗い室内でも、階段の輪郭くらいは見て取れる。
一階でカフェオレを作ると、まろやかな香りを口にしながらリビングに行った。するとそこでは、白いチュニックと細身の迷彩パンツを合わせたかあさんが、荷物を放置したままうつぶせに寝ていた。今夜は帰る、というメールを昨日もらったから俺もこっちに来たのだけど、少なくとも、腹ごしらえをしにきた零時には帰っていなかった。
起こしたほうがいいのかな、とまくらもとにしゃがんでカフェオレをすすっていると、その香りが鼻腔に届いたのか、かあさんが少しうめいた。俺は首をかたむけて考えてから、「かあさん」とその肩をたたいてみる。
「ん……もう朝ですか……」
「朝ですよー」
俺の声に一瞬沈黙してから、「あー」とかあさんはまぶたを抑えながら顔を上げる。
「そうか、家……あー、コンタクトそのままだ。痛い」
「ちゃんと帰ってきたんだね」
「三時くらいに帰ってきた。現場が遅くまで長引いて。ごめん、あんたもう寝てると思って声かけなかった」
「うん。寝てた」
ゲームをしていたとか言ったら、怒られるのでそう言っておく。かあさんは仰向けになって、ウェーヴが解けかかったストレートの髪を絨毯に流した。
「昼からまた撮影があったなー」
「グラビア?」
「うん。用意しなきゃ」
「三時ってことは、二時間くらいしか寝てないじゃん。もうちょっと寝たら」
「今日の監督は気難しいから」
かあさんの仕事はスタイリストだ。グラビア、ドラマ、映画といったさまざまな撮影の現場で裏方として頑張っている。そのセンスは業界では有名らしく、俺も名前は知っている芸能人にも気に入られ、一緒に仕事をしたりしている。
「朝飯食べる? 俺、作るよ」
そう言うと、かあさんは突然噴き出して、俺にぱっちりした印象の目を向ける。
「『俺』って」
「もう高学年だから、『僕』はやめるの」
「南に聞いた。というか、南は『僕』じゃない?」
「南くんはそういう感じだからいいと思うけど」
「あんたもそういう感じだけどね、あたしにしたら」
かあさんは俺の頭にほっそりした手を伸ばして、ぽんぽんとした。
「響は元気? 学校は大丈夫そう?」
「二年の最後の試験は、満点だったらしいよ」
「そう」とかあさんは上体を起こした。俺は飲み干したカフェオレのマグカップを置くと、かあさんの手を引いてそれを手伝う。
「うちから弁護士が出るのも夢じゃないね」
「響くんはなれると思う」
「うん。応援しないと」
兄の響くんは、俺と同じかあさんと南くんの子だ。将来は弁護士になりたいらしい。
「今日始業式よね」
「うん」
「朝ごはん作るよ。しっかりしたもの食べていきなさい」
「俺が作ってもいいよ」
「作れる。あんたはシャワーでも浴びてきたら」
「そんな気合い入れなくていいと思うけど」
「気合いはいいけど、服も髪もくしゃくしゃじゃない。ほんと、パジャマには着替えて寝なさいよ」
う、と思わず口ごもる。ここは掘り下げられると徹夜がばれる。素直に「分かった」と立ち上がると、取り上げたマグカップをキッチンに置いて部屋に戻った。
さっきより、部屋の中がほんのり明るくなっている。暖房がつけっぱなしだったので、踏みこむと軆がふっとほぐれた。窓の向こうで鳥も目覚めてさえずっている。
口元のカフェオレの味を舐め、クローゼットを開けて適当に服を選んだ。赤と黒のニット、ユーズドジーンズ、俺はファッションなんてまだよく分からないから、かあさんに任せたコーディネイトで服を着ている。着替えがまとまると、また一階に降りてバスルームに行った。
鏡の中では、まだ少し見慣れない茶髪になった俺がいる。この春休み、南くんに頼んで髪をこの色にした。俺の兄弟はわりと黒髪のままでもかっこいい奴ばかりだけと、正直俺はそれだと地味だった。「そんなことないのに」と南くんは言ったけど、「まあさせてやれば」と恋人の司くんが推してくれた。
熱めのシャワーでさっぱりすると、ドライヤーの熱風で髪を乾かして部屋に行く。学校に持っていく少ない荷物をランドセルでなく手提げに整理して、それは玄関に置いておく。
ねむ、とかあさんの目がないと、あくびが止まらない。
「今日は南のとこに泊まりなさい」
朝食中、香ばしいエッグトーストに食らいついく俺に、かあさんはコーヒーを飲みながら言った。
「分かった。かあさんって、最近南くんに会った?」
「会えてないけど、電話とかメールはしてるよ」
「司くんは?」
「司は、プライベートで南以外とメールとかするの?」
「……そういや、俺もメアド知ってるだけかも」
「司らしいけどね。昔から、南のことは特別あつかいだったから」
かあさんと南くんと司くんは、みんな小学校が同じだった。幼なじみに近いかもしれない。俺はまだあんまり三人の関係を詳しく知らないけど、「そのうち、うるさいぐらい昔話するから」と言われているので待っている。
「じゃあ、気をつけていってらっしゃい」
八時になる前、かあさんに見送られて家を出た。
空はすっかり青く、陽射しは暖かくても冷気の残る風が頬を滑っていく。同じく手提げを持った子たちが歩道を流れている。俺は近所づきあいをあんまりしないので、ひとりで学校に向かう。
始業式の前は、新しいクラスも教室もまだ分からないから、みんな旧学年の教室に集まる。「おはよー」という声がかかって返事をしながら、憶えている自分の席に着いてつくえに伏せる。
「久賀が死んでる」
「てか、髪の色マジで変わってるし」
足音が集まって友達の声が降ってきても、「眠い……無理」としか返せない。
「寝てないのか? 宿題はなかっただろ」
「朝までゲームしてた……」
「え、今日の朝?」
「いや、さすがに昨日は寝ようぜ」
「あのボスだけは倒して、ダンジョン攻略したかった……」
くだらなさすぎる理由に、友達は噴き出したりあきれたりした。そいつらをちらりと一瞥で見上げて、クラス替えか、と思った。正直、寂しさはない。俺はまだ、本当に友達と言える奴に出逢ったことはない。みんな、陰では俺のことをこう言っているのを知っている。
『あいつの親、父親がホモだったから離婚したらしいよ』
始業式はやっぱり立ったまま寝ていた。完全に寝落ちして床に崩れなかっただけ頑張った。
寒い体育館でぼんやりしてくる頭にこめかみを抑えていると、クラス替えのある新三年生、新五年生だけ残って新しいクラスに割り振られた。クラスメイトになった奴より、担任が鬱陶しい体育会系の男教師で舌打ちしたくなった。
「うわ、笹村もこのクラス?」
「根暗うぜえ」
そんなささやきが聞こえて、俺はその声の主が視線を向けている生徒を見た。表情が窺えない長い前髪とその奥の暗く沈んだ瞳、たぶんそのささやきが聞こえたのか、唇を噛んでいる。服装もちょっとくたびれた感じがあった。
俺は初めて知る同級生だけど、みんな何となくそいつのそばをよけている。ちょっと気になったけど、声をかけにいく前に担任が整列をうながしてきた。
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