空が溶け合うように【2】
放課後になると、南くんにこれから向かうというメールを入れて駅に出る。まだ暖房の電車は、始業式を終えた学生でけっこう混んでいた。話し声や笑い声が、眠気のせいかひどく障ってくる。ひと駅なのにどっと疲れて駅を出ると、ロータリーを出て住宅地に入った。この住宅街の中に、俺のもうひとつの家族が住んでいる。
「ただいまー」
鍵を取り出してドアを開けると、普通に出てくるのはその言葉だ。手提げをマットに放ってスニーカーを脱いでいると、誰かが階段を降りてくる。南くんかな、と思って昇り口に駆け寄ったら、違った。
私服の築くんだった。築くんは司くんの息子で、今日高校二年生に進級した──と思う。「もう帰ってきたの」と言うと、「そして出かける」と築くんは俺の頭を小突いて玄関に向かう。
「うー、高校生ってほんとムカつく! 電車でもマナーないしっ」
「小学生も電車ごときに浮かれてうるさいけどな」
「俺はもう違うもんっ」
築くんが噴き出した。「何」と何となく察しつつもむくれると、「合ってねえ」と築くんはこちらを見もせずに答える。
「お前は『僕』のほうが合ってるぜ」
「やだもん。高学年だし」
「高学年とか言ってる時点でガキだろ。小学生は全部小学生なんだよ」
ショルダーバッグから鍵を取り出しながら、築くんはスニーカーに足を突っこむ。
「また女の子?」
「今日クラスが一緒になった奴らに誘われただけ」
「でも女の子と泊まってくるんでしょ」
「休憩しかしねえ」
「休憩ってことは、泊まるんじゃん」
築くんはドアノブに手をかけながら俺を見た。野性的な目がじろじろと見つめてくるので、臆してしまう。
「お前、やっぱ、まだガキだな」
けれど、その言葉の途端むっと言い返す。
「もおっ、何で築くんはそんなことばっか言うんだよっ」
「あー、はいはい。せいぜいそのまま育てよ。お前が休憩と宿泊の区別がつくようになったら、南と司は泣くだろうな」
スマホで検索すれば分かるし、と言わなくても思っていると、「夕飯はいるって南に言っといて」と築くんはドアを開ける。
「言っていけばいいじゃん」
「作業中みたいだから」
「ふうん。煙草吸ってないかな」
「吸うのは下描きのときだけだろ。それくらいいと思うけど」
「築くんが吸うのは勝手だけど、南くんが肺癌になったらみんな困るんだよ」
「俺吸わねえし」と築くんは眉を寄せ、そのまま春の陽射しの中に出ていってしまった。
俺はスマホを取り出し、『休憩と宿泊』を検索しようとした。が、築くんのことだから、何かエロいことなのだろう。気まずくなるのは遠慮しておいた。
リビングに入ると、築くんの弟で今日中学三年生になった授くんがゲームをしていた。「部活は?」と訊いてみると、「今日はなしー」とシューティングゲームでどんどん3D空間を進みながら返ってくる。授くんはめちゃくちゃ走るのが早くて、一年生のときから賞をかっさらっている陸上部のホープだ。
俺はソファに座って、手提げを脇に放った。
「今日はこっち?」
「うん。かあさん撮影」
「そして、南は作業。司も仕事。響はマジで弁護士になるだろうし」
「何」
「あー、俺はどうしようとか考えるわけよ」
「授くんもそんなこと考えるんだ」
「いや、中三って受験あるじゃないですか」
ステージをクリアした授くんが振り返ってくる。授くんの瞳は、野性的というよりやんちゃな感じだ。
「学童はいいぞ。学童のうちなんだぞ」
「学童って言わないでよ。というか、築くんとかは絶対将来のこと考えてないよ」
「あれは女に働いてもらえるからいいんだよ。俺は桃と家族作るから、職につかんとな」
「陸上選手になるんじゃないの?」
「スポーツはそんなに食えるもんじゃない」
「でも、高校は推薦で行けるんじゃない?」
「推薦なあ……」
授くんはコントローラーを置くと、絨毯を這って背中をソファに預ける。
「推薦で入ったら、死ぬほど走らなきゃいけないじゃん」
「死ぬほど走るの好きなんじゃないの?」
「いや、好きだからこそ、それが義務になったとき平気かなあって」
「義務になるの?」
「そりゃ、陸上の成績残すのを条件に受かるわけだしな」
「授くんなら残せるんじゃない」
「残さねばと縛られると残せるか分からん」
「そんなもんかなあ」と首をかしげていると、玄関のほうで物音がした。
授くんとリビングの入口を見ると、「ただいま」と顔を覗かせたのは学ランの響くんだった。「おう」と手を挙げた授くんにはうなずき、俺のすがたには「もう来てたんだ」と少し驚く。
「今日始業式だから、遊ぶ相手まだいなかった」
「そう。五年生になったんだっけ」
「うん」
高学年だよ、と言いそうになって、築くんの言葉がよぎったのでやめておく。俺たちを見まわした授くんは、「よし」と何やら立ち上がった。
「みんな帰ってきたら昼飯って南が言ってた」
「え、築にいさんは?」
「築くんは遊びにいってたよ」
「……相変わらずだね」
「飯食おうぜ、飯」
「支度は? 作業中の南に声かけていいのかな」
「チャーハンと餃子が、レンジであっためるだけにしてあるぞ。餃子は早い者勝ちなっ」
そう言って授くんはキッチンに走り、「着替えてくるよ」と響くんはいったん二階に行ってしまった。俺も手提げを響くんとの部屋に持っていきたいけど、まあ餃子を確保してからでもいいか。
「にいちゃんのぶんは三等分な」
響くんが戻ってきて、三人でダイニングのテーブルに着くと、授くんは四つあった皿のひとつも取り分けてしまう。
「僕のぶんは南に残しておいていいよ」
響くんはそう言って皿を持ち上げ、レンゲでチャーハンをすくう。
「響はもっと食べたほうがいいと思うんだ」
「食べても、そこまで運動するわけじゃないし」
「でも、響くんって体育の成績は悪いってわけじゃないよね。授くんは勉強できないけど」
「にいちゃんみたいに、どっちも最悪ってのよりマシだぞ」
「授くん、そんな築くんでも一応高校行けてるんだから、もしかして推薦じゃなくても高校は何とかなるよ」
「授、推薦受けるの? 陸上?」
「話はあるなー」
「そうなんだ。受けたらいいのに」
「んー、でもなー。期待ばっかされるのは、しんどくないですか?」
「期待されてるなら、応えたほうがいいんじゃないかな」
「そうかねえ」と授くんは唸りながら、チャーハンをかきこむように食べる。
俺は春雨スープをすすりながら隣の響くんを盗み見る。眼鏡の奥で、響くんの目はちょっと哀しい。
「響くん」
昼食が終わって、授くんはまたゲームを始めた。響くんが食器洗いを始めたので、俺はそこに歩み寄って声をかける。手際よく柑橘系の香りを泡立てていた響くんは、俺を振り返る。
「何?」
「ん、いや……新しいクラス、どうだった?」
響くんはくすりと咲った。
「心配してるの?」
「だって、……みんな、心配してるよ。かあさんも」
「そっか。僕はあんまり会うことないから、大丈夫って伝えておいて」
「……うん」
この家のキッチンは陽射しがぽかぽかしている。また襲ってくる眠気にあくびをもらすと、「寝不足?」と響くんは手を動かしながら訊いてくる。
「昨日寝てない。ゲームしてた」
「じゃあ、昼寝ぐらいしたほうがいいね。ふとんじゃなくて僕のベッド使っていいよ」
響くんの横顔を見た。響くんもこちらに一瞥くれて、首をかたむける。俺は大きくため息をついた。
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