ほのかな安堵
「大丈夫?」
「あ、はい。えと、ありがとう、ごさいます」
「いえいえ。一回寝てくれる?」
「えっ」
肩を揺らす僕に、「冗談」とその人はからからとした。慣れない軽い乗りに、僕はデイパックとコンビニのふくろを抱きしめ直す。がさ、というふくろの音に、「昼飯?」とその人は訊いてきて、僕はこくんとした。
「そっか。俺もそこで飯食ってたんだよ」
そこ、としめされたのはファーストフードだ。
「帰るかと店を出たとこでな。っとに、変な人につけこまれるなって言ったそばから」
「……ごめんなさい」
「はは。あいつら、負け犬でよかったな。俺以上の人だったら、あんな首尾よくいかなかったぜ。ま、俺以上の人はぶつかったぐらいならかえって紳士か」
僕はその人を盗視した。僕より、ゆうに頭ひとつ背が高い。そういう社会には詳しくなくても、危険な人ほど紳士なのは聞いたことがある。
ちなみにその人は、Tシャツにジーンズという軽装だ。とはいえ、この街で強いものがあるのは確からしい。さっきのふたりより年下に見えても、格があれば年齢は瑣末な土地ではある。
「しかし、分かったかな。ここには、ああいうのがごろごろしてるんだよ。夜とか奥よりマシでも、バックあるほうが安全なんだ。自分に名前ないなら、強いバックを出さないと」
バック。そんなもの、ない。
僕は無意識にあの人たちにデイパックを出して、命を守ろうとした自分に気づいた。いやらしい。死ねる好機だったのに。
落ちこんでうつむくと、その人はこちらを眺めた。
「待ち合わせ、あきらめたんだな。どういう奴?」
「えっ。あ──いや、別に誰も」
「そうなんだ。ん? じゃあ、ほんとにここのこと知らないのか」
「まあ、はい」
「何だよ、やばいじゃん。待ってる奴がコネありかと思ったら。あいつら以外には何もなかった」
「今日、初めてここに来て」
「初めて」
野暮な告白に頬を染めた。その反応にその人は気を許したような笑みをこぼすと、「中坊だよな」と訊いてくる。
「あ、はい」
「駅前じゃ補導されるか。このへん、うろついてたいのか」
「………、できれば」
「じゃ、『陽桜の弓弦』って出しな」
「え」
「知りあいだって言えば、因縁つける程度のチンピラは今みたくどうにかなるよ。俺よっか怖い人は、謝れば服の乱れもはらってくれる」
知り合いと言えばどうにかなる、と言われても、僕はどうにもできずに死にたいのだけど──言っちゃうだろうな、と「ようおう」と舌に不慣れな単語を転がす。「の弓弦」とその人はゆっくり確認させてくれる。
「弓弦って、俺の名前な。陽桜はこの街の南区で、俺の名前がわりと通ってる。北区は俺に届かないように揉み消されるときあるんで、注意しろよ」
「北区」
「目安としては、派手に髪染めるだのタトゥーだのが増えてきたら、後退ったほうがいい」
ここにもちらちらしていても、目立つほどいない。「きらきらの娼婦地帯は俺の下だと安全だよ」とその人──弓弦さん、は言った。
「つっても、そんなんが出るのは夜か。ま、このへんから向こうに行かなきゃいいんだ」
背後に抜けていく道を顎でしゃくられ、僕は通りをかえりみる。ここの地理も熟知しているようだ。この街で育った人なのかな、と思っていると、「じゃあ」と弓弦さんは一歩引く。
「今度こそ気いつけろよ。俺はもう帰って寝るんで、助けてやれないぜ」
「あ、はい」
これから寝るのか。この街に合わせて生活しようとすれば、そんなものだろうか。「また逢ったらお茶しよ」と残して弓弦さんは歩き出し、まばらになっている人に紛れて気配を消してしまった。
迷った挙句、僕はそのへんの階段に腰かけて昼食を取った。サンドイッチの包装を開き、陽桜の弓弦、と反芻する。何やら重宝そうな名前を初対面の僕なんかに使わせていいのか。
悪用しようなんて魂胆はないし、そんな度胸も知恵もない。だが、まず疑うのがそういう社会である気がする。何だかなあ、と首をかしげてたまごサンドをかじる。
ついてはいるのだろう。僕は死のうとここにやってきた。けれど、それはどこも苦しくいたたまれなかったからだ。あの人の名前があれば、この街で平和にいられる。ならば、ここにいればいいし、ここにいられるなら生きていてもいい。死にたい妄念は捨てきれなくても、しょせん僕に死ぬ勇気はない。そんな憶病者には、生に逃げられるのは幸運なことだ。
無造作に口を動かし、あの人を思い返す。男だよな、と思った。あのことと性質のせいで、僕は男とは距離を取る傾向がある。ときどき自分自身さえ厭わしくなる。
あの人とはわりと普通に話せた。強そうな権力への畏怖はあっても、恐怖はなかった。嫌悪もなかった。あの人のほうも、僕のそんな許容に通じるものを感じ、名前を教えてくれたのかもしれない。また逢ったらお茶しよう。残された台詞を咀嚼し、逢えるのかなと睫毛の角度を下げる。
綺麗な人だった。今まで僕が出逢った人の中で、一番綺麗だった。整った硬派な容姿を裏切る、飄々とした性格もおもしろかった。あんな軽い性格なのだし、寝ようというのは揶揄半分だったのだろう。きっと恋人もいるよな、と息をつく。
ついで、赤面した。何でため息だ。あの人に恋人がいようが、関係ない。
ゲイなのは変えられなくても、男と恋愛するか、女の子にねじまげるか、孤独でいるかは僕が決められる。僕は孤独を選ぶ。次は女の子に演技をする。男との恋愛だけは絶対しない。男同士は陵辱のほかにありえない。その認識を守っておかないと、あの虐待が正当化される。
昼食を終えると、一日、そこでぼうっと過ごした。さいわい言いがかりもつけられず、終業時間が近づくと学校の人とかちあわない時間のうちに立ち上がる。駅のトイレで制服に戻っておいた。親は僕が学校に行っていないことなどとうに知っていても、体裁だ。駅のゴミ箱に昼食のふくろも捨て、僕は電車を乗り継いで、閑静な高級住宅街の一角に帰宅する。
母親は重役の奥様方の会食に出かけていて、僕を出迎えたのはメイドさんだった。三十代前半のこの女の人は、僕たちがこの家に引っ越してきたとき──僕が十歳のときから、住みこみで家事や僕の世話を取りしきっている。僕はこの人にも心は開いていない。「学校からお電話がありましたよ」と言われ、曖昧にうなずくと、二階の部屋に逃げこんだ。
この部屋も、嫌いだ。やたら広くて、大きな出窓がまぶしくて、影にうずくまりたい僕にはひどく虚しい。
デイパックをつくえにおろして着替えると、ベッドに倒れこんだ。取り替えたのか、シーツは新しいにおいがした。やだな、ともやもやと胸が苦しくなる。シーツには血がついていたはずだ。気づかれなかったといい。
先週、僕は記憶と懊悩に衝突され、ここで自傷行為に走った。男にあんなのをされ、そのくせ男に昂ぶって。いつか平然と男に恋をして、よがってしまったらどうしよう。可能性はゼロではない。男を好きになって、抱かれたいと陶酔してしまったら。
吐き気がした。嫌でも恋愛ができないようになればいいと思った。そこで僕は、刃物で性器を傷つけた。性器がなければ性交はできない。僕が性器を傷つけるのは、性の自害の象徴だ。
結果は切り傷が関の山だった。その軽傷は、僕の悩みがくだらないと暗示しているようで、二度つらかった。膿んで痛みを発したら、心もこれぐらい痛いんだと現れているようで、気を楽にできそうなのに。軆は自癒能力にむごいほど満ちていて、傷のまま腐って虚しくなった心は、いつだって置いてきぼりだ。
僕には統覚性が欠如している。心は頭にさいなまれ、肉体は精神を見捨て、感情に勇気はともなわないし、しぶとい性器は辱めと同じ行為に興奮する。何なのだろう。なぜこんなにちぐはぐなのだろう。僕は分裂症なのか。いつも自虐されている。自分に裏切られている。けして逃げられない自分に。
まくらに顔をうずめ、泣きそうな目をつむった。あの人を想った。陽桜の弓弦さんを。ああいう人もいる。傷つけたり怖がらせたり、何も察しない人だけではない。自分を逃げることはできなくても、内界から外界に目を向けるのは可能だ。意識を外界に置けば、ああいう人だっている。
メイドさんが学校からの電話を報告して、夕食時には両親に婉曲になじられた。ひとりっこなので、攻撃は集中的だ。僕はうつむいて食卓を逃げた。両親のうぬぼれが耐えられなかった。打ち明けられるべきだと思い上がっている。
父親は僕をわがままだと言った。でも僕は、自我を抑えたら壊滅する。
シャワーを浴びて歯も磨いて、眠たくなるまでベッドに座って音楽を聴いていた。クラシックだ。学校の授業で聴かされていたのが身についた。僕は関心をしめすというのがなくて、流行のポップスは聴くと疲れる。
家庭を想っていると、息苦しくなった。早くこんな家は出ていってしまいたい。父親と同じ会社に入ったりしない。自分が何で食べていけるか定まったら、こんな家は捨てる。
けれど僕には、何をしたいか、というのがない。無関心につけこまれて、レールに乗せられたらどうしよう。なくはない未来に気持ちがぐったりした。
失望感に満ちた思考が連綿として、音楽を断ち切ると明かりを消して、ベッドにもぐりこんだ。
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