心の極限
「俺の個人的な気持ちでは、俺だけに分かっててもらえばいいっていうの、嬉しかったよ。でも、俺がそれに喜んで、兄貴と親がぎくしゃくしてんのを改善するチャンスをほっとくわけにもいかないだろ。俺だって、家族のひとりだし」
家族にいい感情のない僕にはよく分からない心理でも、うなずく。沙霧さんは紅茶を飲んで息をついている。
僕は沙霧さんを見た。長い前髪が顔を陰らせ、瞳は沈んでいる。ここに来たとのあの愁いだ。僕も睫毛を伏せる。
「萌梨は──」
上目をする。
「萌梨は、いつ聞いたんだ」
「え」
「いや、最初から分かってたのか」
「あ、いえ、沙霧さんが僕にお話しに来てくれた前の日です」
「話──」
「僕を怪しがってたのを、謝る、というか」
「ああ。そっ、か。けっこう前だな。四人も来る前だよな。いや、あの日来たのか」
「です、ね。僕とそうやって話したんで、沙霧さんに僕の話をしにいったって」
「あ、そうなのか。そっか──」
沙霧さんは黙りこむ。僕も紅茶を飲んで、沙霧さんの心の整理につきあう。
聞かされただけ、といってあっさりできるものでもないだろう。聞かされる側は聞かされる側で、傷の一部を預けられたわけで、のしかかるものがある。しかもその人は、その混乱や対応をほかに相談したりすることはできない。吹聴となってしまうからだ。
そういうのも考え、僕たちはますます口を閉ざしてしまう。聖樹さんが沙霧さんに話せたのは、沙霧さんが僕をはけ口にできるからだったのかもしれない。
沙霧さんは紅茶を飲んで、胸をやや強引に落ち着けると、口を開いた。
「ぜんぜん、分かんなかった」
その声は消えそうに細く、情けなさとつらさがこみいっていた。
「兄貴が勤めてる会社近くの公園のベンチに連れていかれたんだ。何だろって思ったよ。兄貴の顔は蒼ざめてるし、仕種とかこわばったり引き攣ったりしてるし。どうだっていい話が続いて、やっと萌梨のこと知ってるかって言われた。最初、意味分かんなかったけど、ここにいる理由って言われて、ああって。知ってるって言った。話してもらったって。兄貴はちょっと黙ってさ。何でここに萌梨を置いてるか分かるかっていうの訊いてきて、俺は萌梨が言った通りのを言った。絡まれたとこを兄貴が助けて、話聞いて、置いてるって。兄貴はまた黙って、『最初はそうだった』って言った。でも、今は違うって。また前置きがあった。その話をしにきたとか、俺には言っておきたいとか、迷惑だったらやめてもいいとか。そんな話が続いて本筋を逃げそうになってきて、何だよって俺は訊いた。迷惑っていうのも、どんな話なのか見当もなかったし。そしたら兄貴は言いよどんだあと、自分もそういうことされてたって言った」
紅茶の水面を見ていた。口語の回想だとそれほどでもなかったように感じられても、聖樹さんの逡巡はこちらが倦みそうなるほどのものだったのだろう。沙霧さんの口調は重く、実感がこもっていて、言葉よりその長い足踏みを物語っている。
「どう、思いましたか」
ゆっくり問うてみると、「そりゃあ」と沙霧さんはやや麻痺したような笑みをもらす。
「わけ分かんなかったよ。びっくりとかより、マジで言ってることが分かんなかった。反射的に受けつけられなかった。嫌悪とかじゃない。まさか、っていう感じ。兄貴は怖がってる目で俺を見て、冗談じゃないのが分かった。分かったら、やっとビビって。いやらしいけど、萌梨のことさらっと流せたのは、どっかで他人事だって思ってたせいだったのが今日のショックで分かった。兄貴が、そんなことされてたなんて、すごくショックだった。信じられなくて、現実感も湧かなかった。嘘だ、って兄貴が言うのを待ったよ。信じたくなかったんだ。けど、兄貴は何にも言わなくて、途切れ途切れに子供の頃のことから今までのことを話し出してさ。小二の七歳からっていうのも、きつかったよ。俺が一歳のときだぜ。俺が生まれた頃から兄貴は苦しんでたんだって思うと、またリアルでさ。ろくに歩けもしなかった赤ん坊が、こんな、働くかどうかの自立直前の男になるあいだ。話には、兄貴が家に連れてきてた同級生も名前もあったし、先公には知ってる奴もいた。兄貴を林間学校で連れ出した奴が、俺が三、四年のときの担任だよ。そいつ、平然と俺に兄貴の話してきたりしてた。おにいさんは素直でおとなしかったのに、君は正反対だって。あれ、どういう意味だったんだろう。たぶん普通の、そんなのちっとも含まない意味だよな。それは、驚くよりも、すごく怖かった」
僕は沙霧さんを見る。沙霧さんの手は、カップを握りしめている。「怖い」と僕がぽつりと言うと、沙霧さんはうなずく。
「変、かな」
「いえ。その、よく分かるなあって。僕も、そういうふうに平然としてくる人は怖いです」
「………、俺にさ、平然とするのは分からなくもないよ。天才的な演技で保身取ってるっていうのもなくはない。兄貴とか、萌梨にもそうするんだよな」
こくんとする。「罪悪感しめしてきた奴いる?」と訊かれ、僕は首を横に振る。
「周りを窺う余裕なんて、ないんですけど。謝ってきた人がいないのは確かです。僕が泣いても、向こうは何で泣くか分からないんです。遊びとしか思ってないんでしょうね」
「ゲイ、ってわけじゃないんだよな。兄貴も言ってた」
「中にはいたと思います。でも、少なかったと思います。男同士なんかあるわけない、って思ってる人がほとんどです」
「ないと思ってるのに、できるのか」
「ないと思ってるから、できるんです。だから僕をどんなに使っても、遊びだって決めつけられるんです。男同士が好きでセックスなんてあるわけない、仮にしたとしたらそれはただのおふざけだ、そう信じてるから、僕が泣くのが分からないんです」
「……分からない、もんかなあ」
「沙霧さん、悠紗とゲームしてて、いきなり悠紗が傷ついたみたいに怯えて泣き出したら、その理由分かりますか」
沙霧さんは僕を見る。僕は自嘲気味に笑って、「飛躍しすぎかもしれないですけど」と言う。
「あの人たちには、そんな感覚なんだと思います。みんな遊んでるみたいに笑ってました。僕を辱めるためって感じじゃないです。自分だけ熱中しておしまいで、僕に何が残るかには興味もないんです。犯してるとかいう言い方も正しくないんですよね。自己満足の道具だから。それが、こっちとしては一番の侮辱なんですけど」
下手に咲って虚しさにうつむき、紅茶を飲む。
沙霧さんは黙っている。うまく伝わっているか、分からなかった。こんな話は聖樹さんとはしない。口にしなくても疎通できる部分であって、名状したらかえって遠のくことでもある。
沙霧さんには理解できないところもあるだろう。沙霧さんが悪いのではない。分からないほうがいいのだ。こんな、ぼろぼろにもがれて荒みきった想いなんて、分かるほうが変だ。
変なのに、僕はいつも、それにさいなまれている。人の心の極限を越え、普通なら行くことさえできない極点でうずくまっている。
「僕の場合は、子供の頃からそうされてきて、男として欠落させられたところがあるんです。それで、男だともあんまり思われてなかったんでしょうね。聖樹さんとか、ほかの人は分からなくても、僕がされたことは、昔のと後のでは根っこが別なのかもしれないです。小さい頃のがあったから、そういうことになったというか。いや、なっても抵抗できなかったというか。小さい頃は、できないっていうより抵抗することなのかが分からなくて」
紅茶に口をつけていた沙霧さんは、カップを離し、「訊いてもいい?」と言った。僕はうなずく。
「萌梨って、いつから」
「……よっつです」
沙霧さんははっきり面食らった。「よっつ」と反復し、「よっつです」と僕も念を押した。
「知らない人でした。公園で声かけられて」
「ついていったのか」
「分からなかったんです」
「分かんないもんなのか」
「………、分からなかったです。優しくて、変なことしてくる雰囲気はちっともなくて」
「誰も助けてくれなかったのか」
「はい」
「親は」
「……僕に無関心でしたから」
沙霧さんは口ごもる。僕は家庭の淵を話すべきなのかに迷った。そして、迷うことに重点を置き、今のところは黙っておくことにした。こうして話していて、気持ちが自然と溶ける方向に流れていたら、話してもいい。
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