親友の存在
街に来ると、うろつかずに〈POOL〉に落ち着くようになった。
最初の日、弓弦がいないときのミキさんの態度を邪推してしまったが、僕が来ると「あら」と微笑んでくれた。女の人に興味がない性分ゆえ、ミキさんがどんなに美人でもどきどきしないけれど、泰然とした雰囲気には人見知りもあって畏まってしまう。
でも、話をするうちに打ち解けて、僕はテーブルを陣取るよりカウンターに座るようになった。内界でなく外界にいるほうが安全だから、弓弦がいないときは、ミキさんに相手をしてもらって助かった。
ここにいれば、昼夜反転の弓弦と日中にしか街にいない僕でも、何回か会えた。弓弦は僕を見つけるとにっとして、決まった席であるらしいカウンターに近いテーブルに連れこむ。立ち入った話はしなくても、弓弦なら男でも接するのが怖くなかった。弓弦も僕に気を遣っているというより、単に世間知らずとの会話がおもしろいようだ。しかし、いそがしい身の弓弦は、食事やコーヒーで一服すると、「またな」とすぐどこかに行ってしまう。
弓弦がいるときにしろ、不在のときにしろ、〈POOL〉には弓弦の顔見知りが頻繁に出入りした。そういう人たちは、本人がいなければ、ミキさんに弓弦の様子を問う。僕はそれを盗み見て、自分をここに連れてきたふたりが、ミキさんを弓弦の知り合いかの基準にしたのに納得する。
弓弦の顔見知りに偏りはなかった。年齢も空気もばらばらで、僕ぐらいの人もいれば、貫禄のある人もいる。軽薄そうだったり従順そうだったり、優しそうだったり冷たそうだったり、騒々しかったり落ち着きはらっていたり──人ってこんなにひとりずつ違うんだなあ、と家と学校だけだった僕は驚く。
弓弦がいるときにかちあえた人は、同席する僕について尋ねる。弓弦は人によって態度をころころ変える。その質問への答えにしたって、「友達だよ」とさらっと流したり、「何でしょうねえ」とにやついたり、「関係ないだろ」とあしらったり、ミキさんの淹れたミルクティーを飲む僕は、唖然としそうになる。
弓弦にメモをもらいながら、「彼から乗り換えたの?」とくすっとしたきらびやらかな女の子がいた。弓弦はその子をはたき、彼女は咲いながら店を出ていく。きょとんとする僕には、「気にするな」と弓弦は言った。
何せ弓弦の顔は広く、少なくともこの〈POOL〉に来る人ならみんなに親しまれていた。
「立場が強いぶんの敵もいるわよ」
弓弦の交際について話していたミキさんは、今も去り際に弓弦の近況を訊いていった男が放った雑誌を取りながら言う。
「でも、あの子は自分を気に入ってこない人間は無視するの。傍迷惑な抗争は起こさないわ。気に入ってきてる人間だって、気に入ってるわけじゃないんだけど」
「え」
「あの子は、相手にどんなに愛されても、返さないのよ。私の知ってる限り、返してるのはひとりね。そのほかの人間は、あの子が本心ではどう思ってるか分からないわ」
「ミキさんは」
「さあ。紗月くんはどう思われてるのかしらね」
どきりとしてしまう。弓弦にどう思われているか。どぎまぎした僕に、ミキさんは悪戯な笑みをする。
「紗月くんは、いつ頃あの子と知り合ったの」
「え、と、先週の初めに」
「あら、ずいぶん最近なのね」
「です、ね」
「寝ようって声かけられたでしょう」
「えっ。な、何で」
「あの子はそうなのよ。もともと、あの子はたらし男だったから」
「たらし、おとこ」
「仕事を始めて、回数は減っても、今もそうよ。ヒマを見つけては、いろんな人と寝てるわ」
何とも言えなくなる。たらし。弓弦が。弓弦の容姿なら、男女問わずになびかすのは簡単だろう。性を遠ざけた生活を送る感もない。
けれど、弓弦が誰かと寝るなんて生々しく考えなかったので、とまどってしまう。昨日やおととい、僕があの虚しい部屋でひとりでぼうっとしていたとき、弓弦は誰かと軆を重ねていたのか──
「複雑?」
「えっ」
「そんな顔」
赤面する。複雑、だった。たらしというのは置いておき、弓弦が当たり前に誰かと寝るというのが複雑だ。よく分からなくても、なぜか、哀しい。
「昔はすごかったわよ。毎晩ごとに違う人と寝て。その頃は、私がお小遣いをあげてたのよね」
「おこづかい」
「一生つばめでいるのは願い下げで、あの子は私を離れるためにも仕事を始めたの。十三歳だったわ」
十三。家は、と思っても、そこは弓弦の私事なので触れない。
「つばめって」
「恋人同士だったわけではないわよ。まあ、あの子の童貞をもらったのは私ね」
「えっ」
「その頃、私は娼婦をしてたのよ。縛ってくるバカな男と切れて、こんな真っ当な仕事につけたの。二十五だったから、あの子は十五ね。もう自立してて、いろいろ助けてもらったわ。そのごたごたであの子のひとり立ちがはっきりして、肉体関係が消えた姉と弟みたいになったの。今は寝ないわ」
ほっとした。今も寝ていたら、複雑がさらに複雑化しそうだった。
しかし、この人はこの人で壮絶な軌道があったらしい。弓弦はそれを助けた。
「じゃあ、弓弦はミキさんを大切に想ってるんじゃ」
「どうかしら。あの子は、自分が気を許してるのは彼ひとりだって言うし」
「彼」
「あの子の親友。私があの子と知り合ったときは、もう隣にいたわ」
「どんな人ですか」
「気になる?」
口ごもって、発熱にうつむいた。「ここにいれば会えるわよ」とミキさんは笑う。
「来てはいるのよ。夜にね」
「はあ」と返しつつ、羞恥の中で“気になる”ことにまといつかれていた。弓弦に許してもらえている。どんな人なのだろう。弓弦が僕といるのを見た人は、「かわいがってる」とか、「めずらしい」とか言う。だが、弓弦にとって僕はその人より断然下なのだろう。変なもやもやがあふれ、焦って打ち消す。
弓弦が誰と仲良くしたっていい。僕は僕で構ってもらえている。こんなにじりじりしたら、まるで恋愛だ。そんなのじゃない。弓弦は友達だ。友達止まりだ。僕は必要以上に男と親しくなりたくない。男同士は狂った病気だ。そう思っておかないと、精神がばらばらになる。
さんざん頭に言い聞かせた翌日、弓弦が〈POOL〉にやってきて、変に意識してしまった。たらしのことも思い出し、昨日もしてたのかな、といっそうぎこちなくなる。
弓弦は僕の態度に、おもしろがるより不安そうにした。「何かあったのか」とテーブル越しに顔を覗きこまれ、心臓が跳ねる。跳ねて、またその反応に焦った。いや、これは、意識していたのを突かれて驚いたせいだ。「何でもないよ」とだいぶ砕けてきた口調で言うと、弓弦は納得いかないふうであれ、身を引く。
「何かあったなら、俺が何とかしてやるぜ」
「え、ううん。何にも」
「………、俺に何かあるんだもんな」
ぎくりとはしても、弓弦を落ちこませたくなくて即座に首を振る。眉を寄せる弓弦に、「弓弦は悪くないよ」とつけたす。
「大丈夫だよ。ごめんね」
「謝らなくても。俺といるのが嫌、なんじゃないよな」
こくんとすると、「よかった」と弓弦は笑んだ。よかった、とはそれは──いや、考えないでおこう。「そういや」と弓弦は口をつけていたカップを置く。
「今日はリュックがないな」
「あ、学校休みで」
「休みでも来たんだ」
「……ダメ、かな」
「まさか」
ほっとして「家よりここのほうがよくて」と言うと、弓弦は僕を見つめ、「そっか」と微笑んだ。
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