虚貝-9

朝食と夕食にて

 翌日、僕は朝食を食べずに家を出た。
 昨日の夜、夕食を切っかけに、一時間近く両親に説教された。学校はどうする気だとか、毎日どこをふらついているんだとか、甘ったれるのもいい加減にしろとか。
 僕は黙っていた。学校でされていることは言えなかったし、〈POOL〉に乗りこまれて迷惑をかけるのも嫌だった。何より、金持ちであるのを鼻にかける両親を、弓弦たちに知られたくなかった。
 いたたまれなさに夕べはなかなか寝つけず、結局眠れたのは、感情に疲れてのことだった。そして今朝、朝から嫌な気分になりたくなくて、逃げるように朝食も抜きに家を出てきた。
 必然〈POOL〉に着いたのは早めでも、さいわい店は開いていた。「早いのね」と咲ったミキさんに照れ咲いして、「朝ごはんください」と注文する。ミキさんは奥のドアに何か言う。カウンターに直行しようと弓弦のテーブルの脇を通り抜けかけ、「紗月くん」と呼ばれて足を止めた。
 見ると、テーブルに来夢さんがいた。めずらしい、と目を開いても、考えれば時刻は八時をまわったところだ。来夢さんは“夕食”を取りにきたのだろう。
「おはよ」
「おはよう、ございます」
「今日、平日だよな。ほんとに学校行ってないんだ。半分信じてなかった」
「そ、ですか」
 意外にも来夢さんは悪戯っぽい笑みをして、「弓弦がいなきゃつまんない?」と訊いてくる。
「えっ。いえ、そんなことは。来夢さんは、いいんですか」
「“さん”。ま、いいか。弓弦が許したものは、俺も怖くないよ」
 許す、という語にとまどいつつ、僕はカウンターに行くのをやめて、来夢さんに同席する。正面に来た僕を来夢さんは眺め、また少し咲う。
 来夢さんのくせ毛の髪は、よく見ると湿っている。お客さんと別れたあとなのだろうか。だとすると、その愛想は男娼としての名残なのかもしれない。
「俺のこと、嫌かな」
「え」とうろたえる。慮外だった。そんな顔をしていただろうか。「何でですか」と不安気味に問うと、来夢さんはくすりとする。
「男同士が嫌いなんだろ。弓弦に聞いたよ」
「あ……」
 言われると、そんな気持ちもちらついた。男娼、という仕事の中身が頭に流れる。この人はさっきまで男に抱かれていた。金のためとはいえ、同性と──
「嫌い、というか。歓迎は、あんまり」
「そう」と来夢さんが頬杖をついたとき、ウェイトレスがきのこパスタを持ってくる。来夢さんの注文のようだ。来夢さんは僕に断り、先にそれに手をつける。
 僕は無意識に店内を見まわし、ほかに客はいないのに気づく。
「ホモフォーグって奴?」
「はい?」
「あ、弓弦は気づいてないと思うよ。紗月くんに関しては、めずらしく目先に走ってるんで」
「はあ。え、えと、ホモ──」
「ホモフォーグ」
「……って、何ですか」
「自分がゲイなのを受け入れられなくて、他のゲイにその嫌悪を向ける人」
 来夢さんを見た。来夢さんは肩をすくめた。意味を理解すると、頬がかあっとほてった。来夢さんは僕のその反応は気にせず、「俺は嫌でも分かるんだよ」とパスタをフォークに絡める。
「それが商売だし」
「商、売」
「うん」と来夢さんはパスタを食べて飲みこむ。
「分かってないと、商売になんないよ。特に、趣味は妙なものほど語ってもらえないしね。弓弦様の紹介だし、客は愉しめるって確信に高い金はらってる。オカマ貸しゃいいってもんじゃないよ」
「はあ」と言いつつ、よく分からなかった。プロだな、とは思った。女子高生の援助交際の比ではないのは窺える。「だから」と来夢さんは口の中のものを嚥下する。
「俺は、男と寝ても冷めてるんだ。熱くなって計算飛ばしてたら、淫売失格だよ。俺は愉しんでるんじゃない。そう嫌がらないでよ」
「あ」と僕は声をもらし、首をかたむけ、「嫌じゃないですよ」とは言っておく。
「そう?」
「はい。僕も弓弦の友達なら怖くないです」
「嫉妬は」
「え、な、ないですよ」
「俺、君の弓弦への視線でいろいろ分かったんだけどね」
 頬を熱くさせる。そんなのじゃない。あれは弓弦が覗きこんできたり、頬に触ってきたりして、意識してしまっただけだ。しかし、言っても口達者に返されそうで、流しておく。
「あの、僕、ホモ何とかではないと思いますよ」
「嫌なんじゃないの」
「ほかに向けてるつもりは」
「自覚ないタイプが多い」
「嫌だとは思ってます。そんな、世間に合わせた嫌悪では」
 来夢さんは僕を観察し、「まあそうだね」と言った。まあそうだね。深長だ。まさか僕がそういうことをされていたゲイだとも見抜いたのか。来夢さんは少し視線を下げ、「弓弦は嫌じゃないんだ」と言う。
「え。あ──いや、あの、弓弦は友達です」
「友達でもさ」
「……まあ、はい」
「そっか。そういう子、俺もひとり知ってる」
「え」
「絶望的なのに、なぜかそいつだけ許せるって。昔な」
 昔。来夢さんは過去を嫌っている、という弓弦の話が思い返る。コーヒーをすすった来夢さんは、「そういや」とさっさと話を変えた。
「弓弦と寝てないってほんと?」
「は?」
「弓弦と」
「ね、寝てないですよっ。何で友達で寝るんですか」
「ふうん。変なの」
「変」
「弓弦は、気になった奴とはまず寝るんだよ」
「寝る」と反復すると、「あいつが童貞じゃないのは知ってるよな」と言われる。うなずいたとき、ミキさんがトーストとミルクティーを持ってきてくれた。お礼を言って、弓弦の童貞はこの人がもらったんだっけ、と思う。
「弓弦って、たらし、なんですよね」
 ミキさんがカウンターに戻ってから、僕がそう言うと、フォークを口に入れていた来夢さんは驚いた目をした。「知ってんの?」とフォークを外す。
「ミキさんに」
「ああ。え、じゃあ、もしや弓弦の初めてとかも」
「ミキさん、ですよね」
「うわ、あいつへこむな」
「へこむ」
「紗月くんには、そういう軽薄な面は知られたくないんだと」
「僕、そんな免疫なさそうですか」
「いや、つうか──まあ、けっこう」
「はあ。たらしは、今もしてるんですよね」
「どうだろ。昔ほど、俺らもべったりじゃなくなったし」
「べったり」と僕はトーストをかじる。来夢さんはかすかに咲うと、「恋人同士みたい?」と問うてくる。僕は来夢さんを見、「よく言われるって弓弦が」と返す。
「そっか。俺もよく言われたよ。俺はあいつとはやだよ。客として百億つまれても、あいつとはしたくない。俺、あいつが大事だもん。寝る必要がないのに寝たら、関係壊れちまう」
 僕はうなずく。「仲いいんですね」とトーストを飲みこんでつぶやくと、すかさず「複雑?」と訊かれて、即座に首を振る。来夢さんは追及せず、「うん」とカップを取った。
「あいつの代わりはいないよ。影響受けてきたし、助けてもらった。俺ばっかあいつにしなだれて、申し訳ないときはある」
「え、弓弦も来夢さんに助けられてると思いますよ」
「そうかな」
「心許して、自然と素顔さらせるって、一番大切です」
 来夢さんは僕を見つめ、「そうだね」と咲ってうなずいた。
 僕はミルクティーを喉に流し、わりと普通に話せてるなと思う。こうして話していると、来夢さんを猜疑していたのが恥ずかしくなる。弓弦と来夢さんは親友なんだよな、というのが胸にすとんと落ち、僕はそれを信じた。
 共通の話題がそれしかないので、僕と来夢さんは弓弦の話をした。知ってどうなるものでなくも、僕の中で弓弦が明るくなるのは嬉しかった。弓弦を介していなかったら、来夢さんとは怖くて話せなかっただろう。来夢さんもきっと、弓弦に目をかけられていない僕なんて見向きもしなかった。夕食を終えた来夢さんが〈POOL〉を出ていくまで気まずくならなかったのは、弓弦のおかげだ。
 いつしか店内は朝食を取りにきた客が現れ、カウンターに移動した僕は、特に読みたいわけでもない雑誌を読んだ。
 来夢さんとの話を反芻して、弓弦の家の話はなかったな、と気がつく。知らないのだろうか。まさか。弓弦のプライベートに触れるのだろう。言い換えれば、弓弦の家庭は勝手に話せないものということになる。
 僕は活字を追う目を止め、弓弦を想った。
 来夢さんは、何かあるのかな、と思わなくもなかった。話しているあいだも、ふっと弱く薄くなる瞬間があった。弓弦には、それがない。来夢さんのほうが僕に心を許しているというのはないだろう。来夢さんが知らずに内面をもらしてしまうほど重いのか、弓弦の仮面が完璧すぎるのか。
 おそらく後者だ。弓弦に傷があるなんて、とても感じられない。本当に何もないのならよくても、そう流せない隠微なものもあって、余計心配だ。僕が心配してもお節介だけど、弓弦がそうして必死に心を守るのは哀しかった。
 弓弦の行動は、かえりみるとつながらない。いろんな人と接したいと男女の枠を取り、 さまざまな人と毎夜関係を持ち、なのに、心を閉ざして触れさせず、結局受容しているのは長年親友の来夢さんひとりだ。
 学校には制服を着て行っていたという。来夢さんも、生徒にも教師にも恐れられていたと中学校の話をしていた。だからやはり、弓弦の問題は家なのだ。家に帰らなくなって、学校にも行かなくなったとするのは、あながち外れていないと思う。
 弓弦の屈託のない笑顔がよぎり、僕はその裏に愁えてしまう。
 そんな僕の心をこみいらせるように、でもほどくように、〈POOL〉にやってくる弓弦はあっけらかんとしている。僕が心配な目をしても、自分に向けられているとは思いもせずに、こちらの身を案じる。
 弓弦が僕より強いのは確かだ。それでも、何か抱えていて人に気をまわせるものだろうか。弓弦の態度が、本気なのか、無理なのか、分からない。そんな僕にゆいいつできるのは、「何でもないよ」と咲って杞憂を解いてあげることだけだ。僕が咲うと弓弦も咲うので、僕はみずから笑顔を努めるようになった。
 弓弦は、寝たあとやこれから寝る人を〈POOL〉に連れてくることはしなかった。少なくとも、僕がいる時間帯にはしなかった。ひとりでやってきては、いつものテーブルで僕の相手をする。弓弦が僕とふたりきりで話したいというより、誰かいれば内気な僕がうなだれるのを配慮しているのだろう。
 弓弦といるとき、たらし、というのに気をつけて話しかけてくる人を観察する。すると、何となく寝たことがある人を感知できた。そういう人に対し、弓弦は仮面を補強する。
 弓弦に未練がありそうな人もいた。弓弦に何かほのめかし、弓弦はそれをかわす。そういう人には、僕を睨んでくる人もいた。睨み返せる性格ではないので、自罰的に萎縮する。すると弓弦は、少し強くその人を追いはらい、僕を心遣った。
 髪を撫でられてどきっとしながら、弓弦がこんなふうに優しく甘やかすように接するのは僕ひとりだなと思う。ほかにそうされる人を知らないだけだろうか。きっとそうだ。弓弦は、〈POOL〉にいるとき以外の顔を僕に見せてくれなかった。
 弓弦と寝た匂いのする人は、男も女もごちゃごちゃだった。男が肉体関係を知らせてくると、僕は複雑になって視線を下げた。来夢さんやミキさんに揶揄われた複雑ではなく、学校を思い出す複雑だ。
 弓弦が自分に触れるのにはのんきにどきどきしても、ほかの男相手にそうしたと思うと、悪感情がある。弓弦は彼と寝て愉しかったのか。同性と全裸で絡んで気持ちよかったのか。
 思ったあと、弓弦に対して心苦しくなるのに、どうしても僕はこう思ってしまう。
 ──汚い。

第十章

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