独りでよかった
不登校になって、三週間経過していた。家は相変わらずで、十三で絶縁した弓弦に羨望を抱くほど、息苦しくなっていた。両親は顔を合わせては僕の素行を探って、なじる。〈POOL〉で弓弦やミキさん、来夢さんと話して軽くなった心を、両親は学校という単語でたやすく突き落とす。
家にいたくなかった。でも、何も言われないために〈POOL〉を捨てて、学校に行くのはもっと嫌だった。
僕だって、二年生になれば学校に行けると思っていた。あの人は学校にいなくなる。卒業してしまう。そうなれば大丈夫だと思っていた。あの人がいなくなった途端、今度は同級生が同じことを始めるなんて、考えもしなかった。
小学生のあいだ、僕は担任教師の支配下に居続けた。卒業するまで、先生は手を緩めなかった。二学期のなかば頃から、写真を撮られまくった。股間に白い閃光を受けるのは、死にそうに耐えがたかった。先生があの写真をどうしたかは分からない。そもそも、先生が僕をどう思っていたかも分からない。どうして、あの人は僕をあんなに辱めたのだろう。
その頃には、自分がゲイだと自覚していた。先生に犯されながら、だんだん自分の感情に自信がなくなった。性器に男の唇が触れ、男根につらぬかれて、混乱した。
本当に僕は嫌なのか。やめてほしいのか。心の底では悦んでいたりしないか。男が好きでも、今の世の中だと相手にしてくれる男はすぐ見つかりそうにない。僕はついているのか。男が好きで、男に抱かれて。何もひずんでいない。僕はこれが楽しい人間だ。なのに、嫌だと思う。わがままなのか。素直に嬉しいと言えない偏屈なのか。僕はこうされて嬉しいのかもしれない。突き放す手が動かせないのは、恐怖のせいでなく、歓喜のせいなのかも──。
思索に捕らわれ、僕は先生の従順なおもちゃになりさがる。はたとしたときには、今まさに挿入しようとしていたり、動かれていたり、すでに終わったりしている。
僕は脱力していた。無力感は無抵抗になり、またも僕を錯雑とさせる。僕は嫌がる気力も剥奪されてしまったのか。嫌がってなどいなくて、受け入れているのか。どっちだろう。答えを出せたことはない。
小学校を卒業し、進学したのは両親が勧めていた私立中学だった。折れたわけでなく、小学校時代の人間と顔を合わせたくなかった。先生は僕を汚辱する写真を撮った。三学期に入った直後、先生がそのひどい写真を廊下に落とした。拾ったのは低学年ぐらいの下級生だった。顔は映っていなくても、名札が映っていたので、その子は僕のところにその写真を持ってきた。立ち尽くす僕に、見慣れぬ下級生の届け物にクラスメイトが集まってきて──あとは思い出したくない。
中学生になれば全部なくなり、忘れてしまえると思っていた。新しい生活に痛みは埋葬し、二度と気にしなければいい。そうすれば、過去になって日常には存在しなくなる。そう思っていた。だが、そうなれなかった成れの果てが、これだ。
先生は僕がゲイだと知らなかったが、その人は知っていた。あの人は敏感に僕がゲイであるのを嗅ぎ取り、弱みとして握った。言い触らすと威し、ヒマさえあればあの部屋に連れこんだ。あの人にひどいことをされていると訴えても、きっと誰も信じず、むしろこちらの立場が悪くなっていただろう。あの人は、その学校の信頼された生徒会長だった。
入学してまもなかった。一年ぐらい前だ。別室授業のために教室移動をしていた。クラスメイトとのつきあい方は、小学校のときと同じで、特別親しい人はおらず、外れもせず、適度に教室に溶けこんでいるという感じだった。移動教室も、誰かに誘われたり、ひとりだったりした。
その日はひとりだった。理科室に向かいたいのに、迷子になりかけて焦っていた。何せ金持ち学校なので、校舎も広い。休み時間には廊下は生徒でぐっちゃりして、新入生の単独行動には酷だった。やっと理科室を直進前方に発見し、安堵でそちらに突っ走った。周りは眼中になかった。結果、ぶつかったのが生徒会長で、それが僕の中学時代を台無しにした。
そのときに何かあったのではない。相手が生徒会長だとも気づかなかった。落とした教科書を拾ってもらい、礼を言って平謝りもして、授業には何とか間に合った。その安堵に、誰かとぶつかったのも大した印象に残っていなかった。
数日後、「先生に怒られなかった?」と食堂でその人に話しかけられて思い出し、きちんと謝罪した。ごく健全な接近だったので、危険を感知することもなく、僕はその人を警戒できなかった。その人は、僕を見かけるごとに話しかけてきた。その中で、三年生の生徒会長だとも知った。なぜそう親しくしてくるのか、僕は首をかしげていた。
疑問は一学期の期末考査のあとに解けた。その人は、よく僕を生徒会室に招き、校則違反のお菓子と紅茶をくれた。私立校の生徒会室は、公立校の校長室くらい立派だ。大きな椅子をかまえたつくえがあって、そこには学校行事の書類が載って、手前に副会長や書記がたむろするテーブルを挟んだソファがある。僕はこのソファに座らされ、よく分からないまま、生徒会長の相手をしていた。
ちなみに男子校だった。小学生だった僕は、その情報にはやや抵抗を覚えたものの、揶揄われるよりマシだと判断した。どうせ僕は、同性愛はやらない。死ぬまで殺す。そのつもりだった。あの人は、なぜか見破った。正面のソファから僕の隣に移動し、ねっとりとささやいてきた。
「僕は、君が何を好きなのか知ってる」
僕は鈍感で、その言葉の意味をとっさに計れなかった。訊いてみようとして、それは、きつく抱きしめられた衝撃に飲みこまれた。小柄な僕は、たったふたつ上でしかないその人の腕にもおさまった。押し返しもできない。
この無力感は何かに似ている。思い当たるまで一分かかった。その時間に、僕はいまだに胸が痛む。埋葬に成功していたのだ。このことがなければ、僕はあのことをさっぱり忘れていた。一分。引っかかる脳と、もやつく心が、貫通した。思い出した。いくら意思を流しても軆を命令下にできないこの緊縛は、先生の──。
脚のあいだに手がもぐりこんでくる。僕は拒むよりすくむ。「男が好きなんだろ?」──そう言われてやっと、この人が僕に何をしようとしているか悟った。
好きじゃない、と言おうとした。喉がからからで声が出なかった。炙られたように乾いて、痛みも発している。おかげで助けを求める悲鳴も出せなかった。もともと、助けを求めるとか頭がまわらなかった。
舌と歯を使った口づけが頬にべったりはりつく。嫌、と思った。しかし、混乱がどんどん引きずり戻ってくる。服越しに性器をつかまれる。無反応だったらよかった。だが、僕は小学校を卒業して以来、自分でも性器に触れてなかった。本能は傷口を裏切った。僕は反応した。満足そうな生徒会長の顔は、今でも忘れられない。「愉しんでいいんだよ」とその人は僕におおいかぶさり、ソファがきしんで、真新しい制服は──
以降、あの担任教師が生徒会長になったほかは、小学校の再現だった。幾度となく犯された。さらされた内腿のあいだをもてあそばれた。壁に手をついて圧迫を受けた。始終引きずる鈍痛に精神をたたきつぶされた。嘔吐したように喉にしたたる精液、寄生したように手のひらに残る脈打ち、耳鳴りのように鼓膜にべたつく呼吸、内臓を引き裂く突き上げ。僕はさまざまな崩壊で、心身を引きちぎられた。
自分の性器の基準が分からなかった。僕は何で反応し、何で仮死を保つのだろう。あの人の口で果てたりもした。家に帰っても、夜になっても、舌が這いまわる感触が消えない。それはすごく気持ち悪い。なめくじが股ぐらに何十匹もまといついているような錯覚がする。今すぐどうにかしないと気が狂いそうだった。
あの頃は、今より自傷行為に意気地がなかった。ぬめぬめを削ぎ取ろうとカミソリでつけたのはかすり傷で、傷つけたのは性器自体でなく内腿で、うっすら浮いた血は指先でひとぬぐいすれば二度と浮いてこなかった。
みじめだった。僕は本当に心の傷を抱いているのだろうか。傷ついていたとしても、こんな唾を吐けば済む程度のものなのではないか。きっとそうだ。僕はかすり傷を致命傷に被害妄想している。僕は傷ついてなどいない。病気になる深さではない。
傷ついて、のんきに性器が反応するわけがない。僕は痛みに酔いたがっているのだ。本当は男に抱かれて嬉しいに違いない。嘲笑に似た肉色の裂けめのそばに、ぽたぽたと雫が飛び散る。
この涙は、心が痛いからじゃない。男が好きなくせに、男に抱かれて傷つくなんて、身勝手だ。
男が好きなんだろ? 生徒会長が使うこの言葉は、僕の自我を破壊する。僕は混乱すると、相手の言うなりになる。陰茎を舐めさせられ、肛門に挿入され、ひたすら自問の回流に溺れる。
もう嫌だ。したくない。されたくない。ほんとに? これが好きなのに。僕はこれが好きなはずだ。でも嫌だ。嫌だったら何でやめないんだろう。どうして身をよじって逃げないんだろう。動けない。悦んでるから。違う。嫌だ。どっち。嫌なの。嬉しいの。僕は何をしている。力が入らない。嬉しいから。死が近いから。どっち。分からない。僕は──
はっきり言って、僕はホモであるせいでめちゃくちゃだ。今こうして学校に行かなくなって、弓弦たちと知り合って、あんなのをされてるのは僕ひとりでもないのかな、と冷静に考えたりする。学校にいた頃は、ほかの人なんて考えもしなかった。しかし、僕以外にも同性に性交渉を強いられる男はいるのかもしれない。
だが、僕にその人の気持ちは分からない。異性愛者であれば、僕の悩みは不可解なものだろう。同性愛者でそうされる人も、世界中で僕ひとりではないと思う。その人たちは、されることについて、自分の性的方向について、どう感じて、どう対処しているのだろう。
少なくとも、僕のこんな受け止めかたは最悪だ。苦痛を肯定できない。傷を受け入れられない。何にもない。空っぽなのだ。信じられるのは嫌悪だ。頭ごなしに嫌悪だ。セックスはいやらしい。男同士は汚い。ホモは狂っている。何もかも嫌悪だ。
僕はすっかり性と、生きる快楽と扞格になってしまった。それならそれでよかった。恋愛もせず、誰とも接さないでいればいいと思っていた。ひとりぼっちでいいと。だけど──。
【第十一章へ】
