「明日もよく晴れるでしょう」【1】
静まり返った競技場で、白線の前で決勝の五人が構える。血管が腫れたように心臓がどきどきする。空砲が響いた瞬間、選手は一気に駆け出した。
百メートル、水瀬くんは吹きつける風のような速さでぐんとほかの選手から飛び出し、周りが特に歓声を上げる。全力を出し切った走りで、水瀬くんは見事一位で新記録まで出した。
「やった!」
「水瀬!!」
同級生や先輩、顧問の先生もそこに駆けつけて水瀬くんを揉みくちゃにする。私も水瀬くんのスポーツドリンクを手にしてそこに駆け寄った。水瀬くんは私に目を止めると、にっと笑顔になる。
「へへ、優勝しちまった」
私も笑って、スポーツドリンクを差し出した。「サンキュ」と汗びっしょりの水瀬くんはそれを飲む。ごくごく、と喉が動くのを見つめていると、先生が声をかけてくる。
「水瀬、表彰式あるぞ」
「あー、はい。ちょっと待ってください」
引っ張られそうになった水瀬くんは、小走りに私の前にやってくる。ペットボトルを受け取りながら、「おめでとう」と改めて言うと、水瀬くんはまばゆいくらいの笑顔を見せた。
「あのさ、マネージャー」
「ん」
「時野だっけ。名前」
「時野桃だよ」
「じゃあ、桃。俺な、マネージャーになってくれたときから、あんたが好きだった」
「へっ?」
「うむ、言えた。じゃあ、表彰式行ってくるわ」
ぽかんと突っ立つと、水瀬くんは本部に走っていって、みんながにやにやと私を見た。私は私でみんなをきょろきょろして、「え?」と声に出して混乱する。
好き……好きって。水瀬くんが? 私を? マネージャーになったときって、春から?
水瀬くんが表彰台に立つのを見つめる。
中学生になった春、「部活ぐらい自由にやっていいのよ」とママは言ってくれた。けれど、やっぱり人見知りの杏を保育園に長居させるのは心配だから、何もしないつもりだった。
桜が踊る昇降口で、「陸上部にやばいのが現れたらしい」といううわさが聞こえた。その日は首をかしげたぐらいで帰った。でも、すぐにその「やばいの」が水瀬授くんという男子生徒で、あっという間に過ぎ去る風のように速く走るという話を聞いた。
ママが杏を迎えにいけると聞かされていた日、私は何の気なしに例の陸上部を覗いてみることにした。そこで、本当に、空気を裂くように速く走る男の子がいて──
「私も、初めて水瀬くんを見たときから、好きだったと思う」
帰りの電車、何だかみんなにふたりきりにされたので、ふたりでシートに並んで座り、私は水瀬くんに伝えた。水瀬くんは私を見て、「そっか」と嬉しそうに咲った。つきあうのかな、とこの場合どうなるのか考えていると、頬に柔らかい感触が触れた。
「……えっ、」
驚いて身を引く。水瀬くんはきょとんと私を見る。頬。頬だけど──
「あ、ダメだった?」
水瀬くんは首をかたむけ、同じ車両だけど少し離れたところにいる部のメンバーもざわつく。私は睫毛をぱちぱちとさせたあと、「ちょっと、早いね」とあやふやに咲う。すると水瀬くんは、「そんなもんか」とやっと照れた様子でシートに寄りかかった。
背後では景色が流れている。
「水瀬くん」
「ん?」
「おつきあい、しましょうか」
水瀬くんは私を見つめた。私は恥ずかしいのをこらえて精一杯咲う。水瀬くんは無邪気に微笑むと、「おつきあいしましょう」と応えてくれた。
『──全国的に、今日はよく晴れるでしょう』
朝六時、ママと杏と私で川の字のふとんを片づけるとリビングのテレビをつける。見たかった天気予報がちょうど流れていて、今日も焦がすような真夏日だと伝えていた。外は蒼みがかって、明るくなりかけている。
授くんは朝のロードワークに出ている頃だろう。
洗面所に行って顔を洗うと、セミロングに櫛を通す。癖のある髪は今日も絡まっていて、スプレーでほぐす。何とか櫛通りが良くなると、ヘアバンドで髪をまとめてキッチンに立つ。
三人ぶんの朝食と、ママと杏のお弁当を作る。おかずが余ると、授くんにも作るときがある。学校は給食があるけれど、授くんの食欲はいつもそれでは収まらない。
洗濯物はママが出勤前に乾燥までかけた洗濯機に任せる。制服に着替えて先に朝食を取って、時刻が七時前になると、ママと杏を起こしにいく。
リビングの奥の和室のカーテンをさあっと開けると、舞いこんだ朝陽に杏はゆっくり身を起こす。けど、ママはまだすやすやと眠っている。
「杏、ママのこと起こしてくれる?」
「ん……うん。ママ、朝だよ。マーマ!」
杏の幼い手に揺すぶられて、ママはうめいて眉間に皺を寄せる。薄目を開けて、「はいはい、起きますよー……」と腕を伸ばして杏を抱きしめる。
「ママ、ちゃんと起きてね。私、もう部活行かなきゃ」
ママは起き上がってボブの髪をはらい、「毎朝続くわね」と伸びをする。杏はちょうどママの膝に座っている。
「もう二年?」
「うん。ママも一回、授くんが走ってるとこ見たらいいのに」
「仕事が休めたらね」
ママは肩を揉んで、「よしっ」と杏をおろして立ち上がった。そして一気に自分のふとんも杏のふとんも片づけて、「桃はもう行きなさい」と腰に手を当てる。
「朝ごはんも冷めないうちにもらうわ」
「食器は、洗う時間なかったら水につけておいてね」
「了解」
ママは笑い、「いってらっしゃい」と杏も私の紺のスカートを引っ張る。私は杏の頭を撫でて、「いってきます!」とふたりに残すとマンションの三階の一室の家を出た。朝食の物音や匂いが穏やかに空気に流れる中、マンションを出て荷物を持ち直すと、通学路を早足に歩き出す。
夏休み、あんなに降りしきっていた蝉の声はもうない。この時間にはすでに空気は熱気を帯びていたのも、九月になってわずかにやわらいだ気がする。でもやっぱり、肌を舐めるようにむっとしていて、まだまだ半袖でいい。今日もお天気って言ってたなあ、と見上げる太陽は直視できないほど白くて、空を真っ青に照らしている。
生徒もそんなに登校していない中学校に着くと、教室には行かずに直接グラウンドに向かう。そこではいくつかの運動部が朝練をしていて、もちろん陸上部も混ざっている。
「おはよー」と言いながら今年のメンバーに駆け寄ると、「おはようございます!」とほとんど後輩である子たちが返事をくれる。
「お、桃、おはよー」
地面に座ってストレッチをしていた授くんも、私の声に顔を上げる。三年生でまだ部活に出ているのなんて、授くんと私ぐらいだ。みんな受験勉強に取りかかりはじめている。いろんな有名校から推薦を受けている授くんはともかく、本当は私も勉強をしなくてはならない。
「おはよう、授くん。調子は?」
「ん、良さげ」
言いながら授くんは上体を折り、私はその肩を軽く押す。授くんの軆は、筋肉はたくましくなっていくのにびっくりするほど柔らかい。後輩たちは私たちのことを理解してくれているから、割りこんだり揶揄ったりせず、自分たちの練習や役割に励む。
一年生で大会で優勝と新記録をおさめた授くんは、その場では先輩たちにも祝福されたけど、その後はけっこう複雑だった。三年生にも二年生にも妬む先輩がいて、露骨な嫌がらせはなかったものの、どうしてもあったのが無視や疎外──
授くん自身は、飄々として気にしていなかったけど、私のことや親御さんのことを悪く言われると、スタートラインで構えたときより鋭い眼つきをするときがあった。
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