カラーサークル-13

体温計【1】

 心臓が脈打つ熱が全身に行き渡る。そんなふうに楽しければ、まあ、何だっていい。
 そういうふうに生きてきたけど、学年が上がるほど可能性は自由に広がることなんてことはなく、むしろ縛るように固められていく。俺が初めて感じたその窮屈は、中三のときにやってきた。
 昔から、突っ走っていた気がする。そもそも、俺の脚を鍛えたのはにいちゃんだ。ふたりで順番に遊べと言われてスケボーを買ってもらったのに、にいちゃんはよくそれでひとりで走っていって、俺は自分で走るしかなかった。
「にいちゃんずるいよっ。俺も──」
 そんなことをよく言いながら、にいちゃんを追いかけていた。
 にいちゃんは六歳で、俺は四歳。あの頃、にいちゃんは何か感づいて、でも何も分からなくて、不安そうだった。俺は何も知らずに、家とは居心地が悪いものなのだと思っていた。
 ついに両親が別れたとき、にいちゃんはかあさんについていくと言い張った。
「ごめんね、築」
 かあさんは泣きながら、にいちゃんの目の高さにひざまずいてにいちゃんを抱きしめた。俺はとうさんである司と手をつないでいた。
「おかあさんひとりじゃ、ろくなごはんも用意できないの。おとうさんと暮らしなさい」
「何でだよ、だって、とうさんは男と暮らすって……嫌だよ、そんな頭おかしいの、嫌だ!」
 司が俺の手を握って、その体温が俺の手に流れこんだ。
「そうね、おかあさんもおかしいと思う……だから、こういうことになったんだと思う。おかあさんがおとうさんを理解できないから」
「俺も分かんないよ、だから俺はかあさんと行く。とうさんなんか俺もいらない」
「築──」
「絶対やだ、オカマのとうさんなんかやだ! 普通のかあさんがいい」
 司を見上げた。司は苦しげにうつむいていた。とうさんはいつもそんな怖い顔をしている。そう思っていたから、これから一緒に暮らすという南という男の人と一緒のときは、とても優しく咲っていてびっくりした。
「とうさん」
 俺に呼ばれて、司は俺を見た。かあさんも、にいちゃんも俺を見た。何とかこの場を明るくしたくて、俺はちょっと笑った。
「俺は、とうさんがあの人と咲ってるの好きだよ」
 司は俺に目を開き、そのまま、こらえられないように泣き出した。「ごめん」と何度も言われて、わけが分からなかった。おろおろとかあさんを見ると、かあさんは泣きながらも俺に微笑んだ。
「授は、おかあさんや築と違って、強いね」
「つよい……のかな」
「おとうさんを、そうやって分かってあげてね」
 にいちゃんは、悔しそうに唇を噛んでいた。結局、にいちゃんはかあさんについていけなかった。司と南、そして俺と同い年の響と暮らし始めても、態度はふてくされていたりとげとげしかったりした。よく家出の真似事をしようとするから、俺はやっぱりにいちゃんのあとを追いかけていた。
 でも、徐々に司と南の深さが分かって、にいちゃんは落ち着いてきた。ただし、かなり女をたらすようになった。それは微妙なマザーコンプレックスではないかと思う。とはいえ、丸くなってくれたのはありがたい。
 俺も中学生になって、本格的に走りはじめた。本当に、不安定なにいちゃんにはらはらしていたから、勝手に脚が鍛えられたのだ。
 中学で俺はすぐ桃に出逢って、彼女の隣にいるほうが多くなった。マネージャーとして桃が紹介されるのを見たときから、「あ、俺のものにしたい」と思った。さいわい、桃も特に俺を気にかけてサポートしてくれた。そして約三ヵ月、夏休みが始まった終業式の夕食で俺は家族に宣言した。
「決めた、夏休み中の大会で優勝したらマネージャーに告白する!」
 黙々と食べていたのをやめて突然言ったので、司と南はぽかんとまばたきをした。にいちゃんはため息をついた。響は動ずることなくお茶を飲んでいて、響の弟でみんなの末弟の奏は「おおー」と拍手した。
 そして、気合いで優勝した俺は、桃の気持ちも勝ち取った。けっこう、じゅうぶんな気がしていた。このまま一生平行線でもよかった──が、そうもいかないのが中学三年生で迎える受験だった。
 陸上部の顧問曰く、俺にはかなり推薦が来ているらしい。よく考えずに一学期が過ぎたけど、さすがに志望校を決めろと担任もうるさくなってきた。夏休み明け、桃と相談して俺は顧問に言った。
「桃と同じ高校ってのは外せないですね」
 年配の顧問は俺を見つめ、きりっと言った俺の頭をはたいた。「授くん」と桃が俺の心配をすると、「色ボケはいい加減にしろ」と顧問は息をついた。
「色ボケって」
「私たち、ちゃんと考えたんですよ」
「そうだよ。公立の共学ってのは決まりですな」
「水瀬、お前の走りが色恋で無駄になるのは先生もな、」
「無駄にはしないですっ」
 桃が身を乗り出して、俺のサポートには自分が誰より適任だと主張してくれた。ちょっと感動した。俺の走り、脚、記録は確かに桃が一番把握している。それを聞いているうち、あきれていた顧問の表情も変わってきた。
「確かに、まあ、時野なら水瀬の卒業後を安心して預けられるかもしれないが……」
「俺も桃なら安心ですな」
「私も、授くんを見守れるなら、勉強頑張ります」
 顧問はしばらく考えていた。狭くて汗臭い部室の外では、グラウンドで部活に励む運動部の掛け声がしている。まだ残暑も厳しい頃だった。「分かった」とようやく顧問は顔を上げた。
「じゃあ、時野もふくめて考えてほしいという条件を出せ。確かに、現状だと推薦がありすぎて絞りづらいだろうしな」
 俺と桃は歓声を上げた。一緒の高校に進める。それを喜んだその日、俺と桃は部活動から引退もした。翌日、すでに顧問がおおかた話を担任に伝えてくれていて、苦笑されつつもわりと協力的に条件の話を進めてもらえた。
 表面だけなら、「選手の管理に詳しいマネージャーの同伴」というものだったので、否定的になって取り下げる高校は少なかった。その中で公立で共学の高校もさいわいあり、陸上で有名というより運動部の活性化という理由の、一番近い高校に心を決めた。現段階では運動部中心の高校ではないので、若干学力も必要で桃は懸命に勉強を始めた。
「俺、陸上の推薦受けるよ」
 兄弟は二階に引き上げた夜のダイニングで、俺は司と南にも報告した。すると、司と南は顔を合わせ、「そうだろうな」と司は神妙に言った。
「お前の学力で行けるとこになると、レベルが限りなく低くなる」
「司。──よかった、授は、僕たちから受験のことに口を出していいのかなって迷ってたから」
「何でですか」
「推薦が来てるのは、響から聞いてたから」
「おしゃべりさんが」
「私立か? やっぱり」
「いや、公立。共学。桃と一緒」
「桃ちゃんと一緒なの?」
「待て、お前は陸上の推薦をもらったんだよな?」
 こくりとして、顧問にも担任にも苦笑されつつ納得された事情を話した。そこでやっと司も南も噴き出し、「なるほど」とふたりしてうなずく。
「でも、有名なところじゃないと設備も違ってくるってのはないか? コーチも必要だろ」
「設備は俺が口出していいらしい。コーチは、顧問が陸上部の卒業生の先輩に頼んでるらしいよ」
「すげえなあ」
「いつか授がテレビに映ったりするのかな」
「え、でも、南も本に載ってるじゃん。去年はどこのゲーム誌見ても、キャラデザ担当でインタビューが載ってたよ」
 俺が麦茶のグラスを一気飲みすると、「僕は裏方みたいなものだから」と南は謙遜して咲う。南の仕事は、この家の家事と絵を描くことだ。
「顔が出るわけでもないし。授は、ほんと有名人になるかもね」
「大学も陸上やるのか?」
「知りませんよ。大学とか今言わんでくれよ。やっと高校の進路決まったのに」
「三年なんてすぐだぞ」
「突きつめるかどうかは、大学で決まってくるしね」
「知らんって。その話は三年後にしましょう。とりあえず高校は行くってことな。にいちゃんみたいなナンパ高校には行きませぬ」
 ふたりは顔を合わせ、まあそれがはっきりしたのなら、と気の早い話は謝ってくれた。

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