風切り羽-116

穏やかな笑み

 僕たちの朝食が終わっても、沙霧さんはぐっすりしていた。僕が食器をキッチンに運ぶあいだ、悠紗は沙霧さんの髪や軆をつついて遊んでいたが、起きないのを認めると、ひとりでゲームを始めた。
 僕は残っていたごはんはおにぎりにまとめて、釜も合わせて食器を洗う。夕べいつまでゲームしてたんだろ、と沙霧さんを思う。昼まで寝ていたら、本当にあの四人と同じだ。梨羽さんたちも今頃寝てるんだろうな、と泡立てた食器を水洗いで仕上げていく。
 それが終わると、悠紗の隣でいつも通りに過ごした。雑誌をめくったり、雑談をしたり、ゲームを眺めたりする。
 悠紗のするゲームには物語の味つけが現れ出して、おもしろくなってきている。遊ぶ悠紗も、RPGの最初のほうはつまらないのが多いと言っていた。このゲームの操作にも慣れたのか、悠紗はだんだん道具の駆使もうまくなっている。悠紗が巧みに困難を越えていくのも、僕にはおもしろかった。
 そんな中で沙霧さんが起きたのは、十時半過ぎだった。「おはよー」と言った悠紗に、くぐもったしゃがれ声は返しても、ほとんどぼうっとしている。沙霧さんは寝起きが悪いほうであるらしい。やっとのろのろ頭をかいたり服を引っ張ったりを始めたのは、三十分もあとだった。
 朝ごはんはいらないのはその様子で察せたので、コーヒーはいるかどうかだけ僕は訊いた。「頼む」と言われ、僕は膝の雑誌を置いて立ち上がる。
「顔洗ってきたら」と悠紗に言われ、沙霧さんはそうしにいった。悠紗はこちらを向いて咲い、僕も咲ってしまう。朝に弱い、というのは何だか沙霧さんっぽい。
 コーヒー、といってもインスタントしかなく、僕はそれを作った。昨日の紅茶では砂糖はひとつだったので、このコーヒーもそうしておく。沙霧さんはだいぶ寝起きの色を剥いで、リビングに戻ってきた。インスタントなのを断って僕は沙霧さんにカップを渡す。沙霧さんは寝ていたあたりに腰を降ろすと、それに口をつけた。まずい、という感じは出なかったのにほっとする。
 息をついた沙霧さんは、顔を洗ったせいか湿った前髪をかきあげている。引っ張って肌を剥がした服をはたはたさせたりして、「シャワー浴びたい」とつぶやいた。「使ってもいいよ」と街にいた悠紗は振り返る。
「………、着替え、ないだろ」
「あ、そっか」
「家帰って浴びるよ。あー、で、兄貴は」
「まだ」
「まだ? 遅いな」
「そう? んー、そうだね」
 時刻は十一時で、僕も同感だった。
「何かあったんじゃないだろうな」
「えー」
「迎えにいったのがいいかな。まあいいか。あー、家帰ったらすぐ浴びよ」
 ぶつぶつしつつ、沙霧さんはコーヒーを飲む。そして、それで頭が覚醒した沙霧さんと悠紗が対戦を始め、眺める僕が、悠紗が勝てる日はいつかを想像していたときだ。
 玄関のほうで音がして、僕たちはいっせいに顔を合わせた。同じ所感が流れた。悠紗が待ちきれずに立ち上がり、「おとうさん」と玄関のほうに走っていく。何か返事があって、悠紗は喜色して玄関に駆けていく。沙霧さんと僕は、再度顔を合わせる。
「兄貴」
「みたいです、ね」
 果たして、足元に悠紗を連れてやってきたのは、眼鏡をかけた聖樹さんだった。沙霧さんと僕を認めると、「ただいま」とちゃんとあの穏やかな笑みがこぼれる。それで、沙霧さんも僕も告白の結果は読めて、おかえりを返しつつ、ほっと息をついてしまった。その反応に聖樹さんは咲うと、見上げてきている悠紗の頭には手を置く。
 悠紗は物言いたげにそわついていた。聖樹さんはそれに不思議そうにはしても、「着替えたいから」と悠紗の肩を僕たちのほうへと軽く押す。聖樹さんの服は、昨日のままだ。悠紗はやや渋ったが、おとなしくこちらに駆けてきた。僕と瞳を見交わして首をかたむける悠紗を、僕は励ますようにこちらに招いた。
 本当に沙霧さんに話した証拠に、聖樹さんは沙霧さんの前でも眼鏡をはずした。沙霧さんは少し面食らって、「いいのか」と聖樹さんを仰ぐ。「実は伊達なんだよね」と聖樹さんが言うと、沙霧さんはきょとんとした。が、伊達眼鏡をかける気持ちは測れたのか、「そっか」と咲う。その笑みには、自分の前ではずしてくれる安堵が混じっていた。
「っと、じゃあ、俺は帰ろうかな」
 コントローラーを置いて立ちあがる沙霧さんに、「ゆっくりしてってもいいよ」と聖樹さんは言う。
「いや、シャワー浴びたいし。ここだと着替えもないだろ」
「あ、そうか。じゃあ、またね」
「うん」と沙霧さんは腰をかがめて脚をのばすと、オーバーを羽織る。上目の悠紗と僕には、「じゃあな」と残し、聖樹さんのそばに行く。
「また来るよ。いいよな」
「もちろん」
「家にもたまに来てやれよ。もう来れるんだろ」
 聖樹さんは複雑な咲いをしたけれど、迷わずにうなずいた。悠紗と僕は秘かに瞳を合わせ、大丈夫だったのだと念を押す。
「沙霧」
「ん」
「何か、ごめんね」
「何が」
 聖樹さんは沙霧さんを見て、くすりとすると、「ありがと」と言い直した。沙霧さんも咲い、「どういたしまして」とその言葉は素直に受け取る。
「かあさんたちがね、沙霧とも話したいって」
「うん」
「話してみて。一応。僕抜きで」
「分かった。報告、する?」
「態度でね」
 沙霧さんは咲い、「何かそれ、キザだな」と聖樹さんの隣をすりぬけた。聖樹さんは着替えの前にそれを追う。見送る悠紗と僕は、ふたりが角に消えると向き合った。
「おとうさん、話せたんだね」
「うん」
「元気そう」
「悠紗、訊いてみたら」
「……ん、うん」
 悠紗はうやむやにうなずき、ゲームを続ける。いざとなると、踏み切る勇気が出ないようだ。かといって、僕が仲介するのも野暮だ。これは聖樹さんと悠紗、親子の問題だ。
 そこで、僕は気がつく。僕がいなければいいのではないか。僕が席をはずせば、状況も手伝って悠紗は聖樹さんに口火を切れるのではないか。考えてみれば、傍観者がいてそういう話をするというのも気まずい。
 聖樹さんはすぐ帰ってきて、シャワーを浴びにいった。悠紗はいじいじとゲームをしている。ここは、僕が消えて切っかけを作ってあげたほうがいい。心を決めると、「悠紗」と声をかけた。
「ん」
「僕、しばらくどっか行くよ」
「えっ」
「僕がいなかったら、聖樹さんに『教えて』って訊けるでしょ」
「え、あ、そうじゃないよ。違うの。いてよ。僕が、自分で言えなくなってるだけだよ」
「僕はいないほうがいいよ」
「いなきゃダメなの」
「悠紗と聖樹さんの話でしょ。僕がそこでぼーっと見てるの、たぶん嫌だよ」
「嫌じゃないよ」
「でも変なの。話が終わったら呼びにきてよ。僕は、ほら、梨羽さんたちのとこに行ってる」
「いなかったら」
「いなかったら、屋上──」
 は、行かない。ひとりでいて悪いものに取りつかれたら、飛び降りかねない。向こうならともかく、ここにいられているうちに死ぬのは嫌だ。
「近くにいる」
「でも、変な人がいたら」
「………、」
「ダメだよ、ここにいないと。萌梨くんがいなくなるの、嫌だもん」
「マンションの中にはいるよ。大丈夫」
「ここに住んでる人に見つかったら」
「聖樹さんの親戚の子とか言えばいいし」
「言えるの?」
「……言う、よ。だって、悠紗がそんなうじうじしてるの嫌だし」
 悠紗は僕を泣きそうに見つめ、僕は微笑んだ。「訊きたいんでしょ」と言うと、悠紗はうつむき、小さくこくんとする。
「じゃあ、訊いたほうがいいよ。梨羽さんのとこも、たぶん梨羽さんか紫苑さんはいる。スタジオは、週末に行ったばっかなんだし」
 ほぼ自分への言い聞かせだったが、悠紗はぎこちなく首肯する。
「あとで迎えにきて」
「ん、………。萌梨くん、いる? いなくならない?」
「僕もここにいたいもん」
「そっ、か。ん、じゃあ、迎えにいくからね。待っててね」
 うなずくと、その場を立ち上がった。悠紗は居心地悪そうにして、「鍵」と一緒に立ち上がる。
「鍵?」
「かけなきゃいけないでしょ」
「あ、そうか」
 そんなわけで、僕と悠紗は玄関に向かう。キッチンを横切り、曲がった廊下を抜ける。
「いきなりいなかったら、聖樹さんびっくりするかな」
「する、よね。おとうさん、待つ?」
「悠紗が説明してよ」
「………、うん」
 玄関に着いた僕は、使わなくて隅っこにある靴を履く。この靴を履くのも、最後に四人の部屋に行った火曜日以来だ。落ち着かない悠紗と向き合うと、悠紗は不安げな瞳をして、僕は心持ち腰をかがめた。
「悠紗」
「……ん」
「悠紗の受け止め方をしたらいいんだよ。一緒に痛くなったら泣いていいし。悠紗には嫌な言葉は浮かばないと思うから、嘘つかなかったら、大丈夫だよ」
 悠紗は僕を見つめ、唇を噛むと、決断するように首を縦に振った。僕は微笑み、「迎えにきてね」とこちらも確認した。
 正直、こちらこそ不安だった。仮にこれが悪い方向に転がったら、僕を呼び戻すのは、そうとう気まずくなる。
 僕のその不安を読み取ったのか、今度は悠紗のほうが、「大丈夫」と言う。僕は悠紗に目をやり、一笑してこくんすると、ドアをすりぬけて鈴城家を出た。

第百十七章へ

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