めくれた傷口
静かになると、梨羽さんのヘッドホンがもらす、しゃかしゃかという音が際立った。そうでなくても激しいロックを、梨羽さんはいったいどれほどの音量で聴いてるのか。耳が悪くなりそうに大きいのは分かる。
要さんたちと出会ったときは、梨羽さんはすでに音楽と共生していたという。梨羽さんはいつから音楽を聴きっぱなしなのだろう。そんなのを思いつつ、僕はその場──テレビの近くに座りこむ。梨羽さんは落ちこんだまま動かない。
梨羽さんとふたりきり、というこの状況を改めて確認した。初めてだ。梨羽さんと紫苑さんだったら紫苑さんのほうが厳しい、と思っていたものの、紫苑さんは結局、ああして心を開いていることを教えてくれた。
梨羽さんにはそんな影もない。その内閉は、誰かいるとそれに紛れてさほど気にならなくても、ひとりだと異様に肌に存在感を現してくる。どうも、梨羽さんとふたりきりになるのは、予想以上に厳しそうだ。
といって、鈴城家に戻るわけにはいかない。ここのほかに、どこにいればいいのかも分からない。変なことになりたくなければここにいるほうがマシだし、無難だ。
転がる時計に目をやり、十二時をまわっているのを知る。昼ごはんまだだったなと気づいて、焦った。聖樹さんと悠紗が、いつまで話しこむのかは測りかねる。当面朝食が残っていても、ここで空腹になる恐れはある。そうなったらどうしよう。
気分を紛らわしておくしかないのか。話相手はいない。ゲームはできない。雑誌なんて、よく考えたらここにあるのは、ポルノ雑誌だけではないか。いや、紫苑さんがポルノではない雑誌を読んでいた。が、がさごそと探してみる空気ではない。
一応自分の周りを確かめてみて、ポルノも散乱していないのに気づく。代わりにテレビの隣の山が高くなっていて──そうだよなあ、と思う。
ポルノが片づけられているというのは、要さんたちがここにいなくなるのを妙に強く裏づけている。来週の頭には発つ、と言っていた。四人がいなかったらつまらない、とは思わない。聖樹さんも悠紗も、沙霧さんもいる。
とはいえ、どこかがぽっかりしそうなのは事実だ。それに、もう会えないかもしれない。それが怖い。何もかも絶望的になるのも、切断されるみたいに終わるのも、ここにいたのが夢みたいになるのも。すごく怖い。
物音がして振り返ると、梨羽さんが床に横たわろうとしていた。剥き出しの床に軆を預けて、迷彩柄を肩にかぶって、まくらに頭に沈めて、だるそうな半眼になって音楽を聴く。聞き流しでなく、聴いていると思う。梨羽さんはいつも音楽を集中して聴いている。梨羽さんは指先に触れたアルバムケースを取り、ブックレットを引き抜いて広げている。
こちらには一瞥もくれない。なので、紫苑さんのときのように質問したりする切っかけもない。
僕は本当は、梨羽さんにこそ訊きたいことがいっぱいある。始終連れまわす音楽や、梨羽さんにとってのXENONや、何よりどうしてそんなに孤独に固執しているのか。
梨羽さんは眉を寄せて、閉じたブックレットをケースに収めると、ヘッドホンを抑えながらうつぶせになった。僕の視線が嫌だったのか。推察させられると、視線を別にやらざるを得なくなる。
梨羽さんの気配はあっても、それは殻の感触だ。それは、誰もいない部屋にいるより孤独感をかきたてる。ひとりぼっちのときより、ひとりだ。確かに今、僕は、この空間に梨羽さんといる。でも、孤独だ。誰もいないから孤独なのでなく、本当にひとりきりだ。
梨羽さんの殻はさりげなさもなく、くっきりこちらと自分を遊離させている。それはこちらに絶対的な孤独感を押しつけ、僕のような受動体の人間は、あっさり塞ぎこんでくる。
ずっとそうしていた。どうしようもなかった。ただでさえ、近頃僕には思うところが種々ある。四人がいなくなって、ここに来てひと月半近く経っていて、聖樹さんは分かってくれる人が増えて。いつのまにか、僕は考えごとに走っていた。
怖かった。聖樹さんがそういう人だと猜疑しているわけではない。分かってくれる人ができたといって、厄介者だと僕を放り出す人だとは思わない。でも、実際のところ、僕はそう思われても仕方がない。聖樹さんは今までほど、僕を必要としなくなる。
それに、何だか痛いのだ。聖樹さんに、そうして話してみて分かってくれる人がいるというのが。聖樹さんの居場所はここでいいんだな、と思う。
聖樹さんにとってのここは、僕に置き換えると結局はあの街で、家で、学校だ。だが、あそこにはそうした温かい人はいなかった。踏み躙ってくる人ばかりで、話したところで笑い飛ばす人しかいなかった。
聖樹さんの居場所には、きちんと受け入れてくれる人がいる。僕にはいない。踏み出せば分かってくれる人なんていない。僕の居場所はそんなところだ。僕はここが好きだけど、居場所ではなく、居場所であるあそこは地獄だった。
聖樹さんが受け入れられていくのは、もちろん嬉しくても、反面、胸が苦しい。あそこと自分のあいだには、そうはなれない耐えがたいゆがみがあった。その事実を突きつけられる。被害妄想なのは分かっていても、あちらでのどん底の気分がせりあげてくると、傷の疼きに心がもがくのは止められなかった。僕はあそこにいたくないのに、あそこにいなくてはならない。
そんな場所を無理やり離れ、ひと月半が過ぎようとしている。
分かっている。そろそろ限界だ。偶然が過ぎた。ここで僕はそれなりに外をうろついた。夜の街を歩いて、ライヴハウスに出かけて。学校があきらめているのは承知している。怖いのはおとうさんだ。僕はおとうさんの執着を知っている。身を持って。この軆にねじこまれて。誰より知っている。
おとうさんが聞きこみをしていたらどうする? 声をかけられた人が、どこかで僕とすれちがっていたら。人がそんなに他人を見ていないのも知っている。だから僕は、幼い頃、誰にも助けてもらえず、こんなことになった。誰も人のことなんか見ていない。でも、絶対にそうだとも言い切れない。万一、憶えていた人がいたとして、その人が聖樹さんや悠紗、四人も行動を共にしていた僕を憶えていたら。
ひと月半。そろそろ、低い確率が当たってもいい頃だ。
僕は逃げられない。おとうさんに見つかる。学校に行かされる。先生にしかられるのなんか、どうだっていい。僕が怖いのは同級生だ。何で逃げたのかと平然と訊いてくる同級生だ。そして何も変わらず、僕を暗がりを連れこむ同級生たちだ。
四人はいなくなる。帰ってくるのは八月だ。その頃には、確実に僕はそうなっている。みんながここに帰ってくる頃には、僕はきっとあちらで悪夢を見ている。幸運が過ぎた。底をつく寸前だ。僕は向こうに帰らされる。“普通”に組みこまれて、苦しみのはけ口を失くす。
あちらでの信じがたい生活がよぎった。日常に心身を砕き、学校でめちゃくちゃにされて、泣きながらおかあさんを代わりを担い、またそこにおとうさんにおおいかぶさられて。
何で僕は、あんなふうに生きなきゃいけなかったんだろう。どうして、そこにいるのが義務であるように逃げられないのだろう。
死にそうに真っ暗だった。ひとりぼっちだった。ぐったりと泣き疲れるたび、凄涼な無感覚が心を守ろうと生身の軆を傷つけ──
「苦しい?」
びくっと顔を上げた。上げて、いつのまにかうつむいていたのに気がついた。きょろきょろしたら、梨羽さんがいつのまにか起き上がって、僕に目を見開いている。
「え、あ──」
「苦しいの?」
「えっ」
嘘、と思った。何で。しゃべっている。初めて聞いた。歌やうめき以外で、初めて梨羽さんの声を聞いた。
「苦しいの?」
どきまぎするやら考えごとで頭が錯乱していたやらで、とっさに答えられなかった。
苦しい。それは、まあ、苦しいけれど。梨羽さんに察知されてしまったのか。苦しいのか。どうしよう。正直に、苦しい、と答えていいのか。嘘をついても見破られそうだ。
梨羽さんは僕を凝視している。その視線におろおろして返すべき言葉を見つけられずにいると、梨羽さんは急に眉をゆがめて泣きそうになった。ヘッドホンは首に落ちていて、しゃかしゃか、というのがよく聴こえている。
「苦しい?」
「え、あの──」
「苦しいの? 苦しい。……苦しい」
繰り返される言葉は、だんだん僕への問いかけでなく、自分に言い聞かせるうわ言じみた口調になった。挙句、梨羽さんは突如床に伏せって、壊れたように泣き出した。
僕はまごついて身動ぎもできなかった。何が何なのか分からなかった。僕が悪いのか。何かしたつもりはないのだけど。もしかして、悪い考えごとをする空気が、過敏な梨羽さんを刺激したとか。だとしたら、謝ったほうがいいのか。謝って落ち着くだろうか。
そう思ったとき、梨羽さんの声がくぐもって言葉が不明瞭になり、そののち、ほかの言葉が浮き彫りになってきた。
「ごめんなさい」
さらに僕はとまどう。ごめんなさい。何で。僕には、梨羽さんにそんなふうに痛ましく謝られる心当たりはない。梨羽さんこそ苦しげにうめき、しゃくりあげながら、「ごめんなさい」と言い続けている。懺悔みたいに。
「梨羽さん──」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「あ、あの──」
聖樹さんがよぎった。梨羽さんはいつも、聖樹さんの奇妙な言葉で気を楽にさせていた。大丈夫、とか、何ともない、とか──そう、“苦しくない”というのを諭す言葉で。何せ、わけが分からなかった。それを参考するほかなかった。僕は梨羽さんのそばに行き、「大丈夫です」と早口に言っていた。
「何でもないです。苦しくないですよ」
途端、「ごめんなさい」という梨羽さんの連呼がやんだ。やっぱりこれだ、と内心ほっとして、早口は緩めて続ける。
「苦しくないです。梨羽さんが悪いんでもないです。平気ですよ」
梨羽さんは、のろのろと目を上げた。床に押しつけて泣いたせいか、顔はくしゃくしゃになっていた。前髪が濡れて額にはりつき、頬もびしゃびしゃだ。口元は嗚咽に引き攣れ、瞳が子供だった。聖樹さんのそのときの色とは違っても、子供の色だ。
梨羽さんが二十四歳だというのを思い出す。信じられなかった。聖樹さんが幼さに表出されるときは、大人の表面に、子供の内面が滲み出るという感じだった。梨羽さんはそうではない。もはや、子供そのものになっている。うずくまっているせいか、とても小さく、僕より年下の子供のように感じられる。
梨羽さんは、涙を流す濡れた瞳に僕を映していた。僕はそこに大嫌いな自分の顔を見る。悪い気持ちになりそうになったのは振りはらい、梨羽さんのために聖樹さんの代わりに徹する。
【第百十九章へ】
