恋愛と暴力
向こうにいた聖樹さんは、眼鏡をかけていた。僕を認めると、いつもどおり穏やかに微笑む。だが僕はいやらしくも疑ってしまい、瞳を確かめた。
不穏な色はなかった──腫れて赤くはあるけれど。それを認めると僕もやっと咲い返せる。
無意識に聖樹さんの足元に目を落とすと、悠紗はいない。
「悠はね」
顔を上げる。聖樹さんはあやふやに咲った。
「泣き疲れちゃって」
「……そう、ですか」
「みんないるの?」
「え、いえ。梨羽さんと紫苑さんはいますよ」
「じゃあ、挨拶しても無視されるかな。帰ろうか」
「はい」
帰ろうか、という言い方にほっとして廊下に出る。聖樹さんが響かないようそっとドアを閉めた。
廊下にもすでに螢光燈が灯っている。聖樹さんに肩を押され、僕たちは並んでエレベーターホールへと歩き出した。
「要と葉月はいないんだ?」
「お仕事、です。会いましたよ。ふたり揃ってではなくても」
「元気そうだった?」
「ふたりとも、聖樹さんのこと気にしてました」
「はは、そっか。せっかく帰ってきたのに会ってないもんね。前は悠を迎えにいったときに会ってたけど」
「そ、なんですか。ごめんなさい」
「え、何で」
「僕がいるせいで」
「ああ。いや、そういうのじゃないよ。僕が萌梨くんに甘えてるだけだし」
「……はあ。あ、来週の始めにはここ発つって言ってました」
「ほんと?」と聖樹さんは驚いて僕を向く。
「はい。今週いっぱいはいそがしいとも言ってました。発つ前には挨拶しにくるそうです」
「そ、う。そうだよね。もうひと月ぐらい、こっちでのんびりしてたことになるんだし」
ため息をつく聖樹さんに、僕はやや躊躇したものの、きちんと告白しておくことにした。
「……あの」
「ん」
「ごめんなさい、僕、要さんたちならいいのかなって言っちゃったんです」
「え、何を」
「沙霧さんたちに、お話したこと」
聖樹さんは僕を見た。瞳には動揺があった。僕を裏切り者と感じた、というものではないようだ。
エレベーターホールに着いていた。聖樹さんは下のボタンを押し、「何て言ってた?」と不安そうに訊いてくる。
「よかった、って」
「……ほんと?」
「はい。葉月さんは、守ってやらなくてよくなるのかって寂しがってましたよ」
聖樹さんは咲い、安堵した顔になる。「そんなことないって言っておきましたけど」と言うと、聖樹さんもうなずいた。
あの四人には家族にいい想いがないし、聖樹さんとしては興醒めされるかと怯えたようだ。葉月さんが言っていた、家族に分かってもらえると心強いというのも伝えると、聖樹さんは口元をやわらげた。
「そう。よかった。あの四人には、ちょっと何て言えばいいのか分からなかったんだ。ありがとう」
「え、いえ」
お礼になるのか、と思っていると、とエレベーターが来て乗りこんだ。今回も同乗者がいなくて胸を撫でおろす。聖樹さんが二階を指定すると、ドアは閉まって下降の感覚がする。
「萌梨くん」
「はい」
「ほんとに、ありがとね」
「えっ」
「悠のこと」
「あ、──いえ。僕、ほとんどお節介で」
「ぜんぜん。僕自身、悠に話そうとは思ってたんだ」
「あ、そう、なんですか」
「うん。いつか話すって思ってても、そのいつかっていうのが、正直自信がなかった。いざとなったら先延ばしにしそうで。それなら悠が訊くまでって思っても、あの子のことだから、僕を気遣って訊かないんじゃないかなって。一気に話そうと思って」
「……はあ」
「でも、悠を見ると決心が鈍っちゃって。何て切り出せばいいのか分かんなかった。だから、助かったよ。すごく」
「そ、ですか。なら、えと、よかったです」
「うん」
分かってくれたかどうかを訊こうしたときに二階に着いて、その質問の切っかけは失ってしまった。エレベーターを降り、冷えた廊下を抜けて鈴城家に帰る。追い出されなくてよかった、とさしあたっての感懐の中で靴を脱いだ。
カーテンが引かれて明かりがついたリビングに、悠紗はいなかった。尋ねると、寝室で休んでいるそうだ。「寝ちゃったかもね」と聖樹さんは眼鏡をはずす。
「聖樹さんは大丈夫ですか」
「僕」
「昨日から疲れてませんか」
「ああ、まあ。今日、実家で寝坊はしたんだ。夜更けまで話しこんでたんで、一緒か」
「今日は早く休んだほうがいいですね」
「そうさせてくれる?」
「はい」
「ありがと。萌梨くんとも話はしたいんだよね。夕ごはんは食べないといけないし」
「僕が作りましょうか」
「作れるよ。手伝いはお願い」
もちろん、ということで、僕たちは夕食の支度を始める。悠紗は本当に眠っているようだ。声を聞きつけて出てきたりしない。あるいは疲れて、話し声がしても動けないのかもしれない。
悠紗にすれば、よくは分からなくても、衝撃的な告白だっただろう。要さんや葉月さんによって、悠紗は普通の子供より男と女という本能的なかたちを知っている。何がどうなのかはともかく、そこに何やら一種の悦びや愉しさががあるのも。その快楽が存在しない男同士、となると、何かおかしい、とは分かるはずだ。その何かおかしいことを強いられ、聖樹さんが壊れたのだとも。
男同士だから悪い、と認識しなかったかが心配だ。聞いたまま認識が固まったら、悠紗は将来、同性愛嫌悪に傾倒するかもしれない。僕たちが男同士を拒否するのは、沙霧さんも言ってくれた通り、仕方がなくもある。女の人でも、犯されたら男が怖くなったりする。でも、そうした認識はやはり傷による間違った認識なのだから、悠紗はそこには寄り添わなくていい。
しかし、これを説明するのは厄介だ。どこがどう違うのかなんて、ぜんぜん違うものなのにうまく言えない。合意しているか、していないか。別に、同性愛者が同性愛者を性虐待とかではなく強姦することだってある。僕たちは同性愛者じゃないから、と言うと、同性愛が悪趣味のように聞こえる。
悠紗が成長して視野が広がればよくても、その頃には今日書きこまれた認識が不動になっているかもしれない。同性同士というものについて、悠紗はどう思っただろう。
今日の夕食は豚肉の生姜焼きだった。僕は米を研ぎつつ、豚肉をさばく聖樹さんに声をかける。「なあに」と目を向けられ、端的に訊く勇気はなかったので、僕は推理の糧になりそうなことを訊いてみた。
「聖樹さんは、同性愛ってどう思いますか」
「は?」
「同性愛です。その、男同士とか」
聖樹さんは僕を眺め、質問の意味が測れなかったのか、「何で?」と訊いてくる。
「いえ、何か──そういうことされてたなら」
「萌梨くんは?」
「僕、は、自分がされたことは別だと思ってます」
「………、大人だね」
「聖樹さんは、違いますか」
「まあ。簡単に理解はしめせないよ。悪いとは言えなくても、何がいいんだろうって。どうして?」
米を二、三回を研ぎ、「悠紗も」と言った。
「そう思っちゃうのかなって」
「悠」
「僕たちがそう思うのはどうしようもないと思うんです。理性がきかずに、感情で信じられないのは。僕にもそういうところはあります。悠紗にもそうたたきこむのはどうかって思うんです」
僕の言おうとするところをつかむと、聖樹さんは気後れした顔になった。慮外だったようだ。確かに僕も、沙霧さんのことを知らなければこんなのは考えなかった。
「よく言えなくても、別のことだっていうのは教えておいたほうが」
「悠、まだ同性愛の存在を知らないと思うんだけど」
「だからです。知ったときに、今日聞いたことを照らし合わせて、間違って独断しちゃうかもしれないです」
聖樹さんはくすっとして、「かばうんだね」と豚肉を皿に並べる。僕は心持ち頬を熱くさせ、「間違ってることだと思いますから」とぼそぼそと言う。
「僕たちも、何ていうか、同性愛っていうより男同士を嫌悪してるんですよね。別物なのに、気持ちは引っくるめちゃって」
「まあ、そうだね」
「頭が柔らかいうちに、同性愛を教えてもいいと思うんです。悠紗が大きくなるときは、もっと浸透してるでしょうし」
「うん」と聖樹さんはうなずく。
「そうなるといいね。そしたら、僕たちがされたことが同性愛とは別だっていうのがはっきりする。愛じゃなくて無理やりで、だから虐待なのか、って」
「です、ね」
「ふふ、分かった。教えておくよ。僕も勉強になりました」
上目遣いをすると、聖樹さんは悪戯に微笑してきた。決まり悪くなる。僕ひとりで思いついたことではない。沙霧さんによって導かれた考えだ。
それに、聖樹さんと悠紗が沙霧さんと親しくなければ、いちいち厚かましく説諭もしなかった。いつか沙霧さんは、ふたりのどちらかに自分の性質を告白するかもしれない。そのとき、沙霧さんがそういうことで拒絶されたらやりきれない。
しかし、そんな真実は言えず、妥当に照れ咲いをしておいた。
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