日曜日
日曜日である今日、僕は家事をしていた。午前中に洗濯を終え、午後には掃除をやるつもりだった。続けてやってもよかったのだけど、片づけも含めて洗濯が終わったのが昼前で、存分に寝坊していたおとうさんが起床してきた。
なるべくおとうさんと口をききたくない僕は、家事を中断し、どうこう言われる前に昼食を用意することにした。
ラーメンかうどんかで悩み、寝起きのおとうさんはラーメンだと脂っこいかな、とうどんにした。麺をゆがきながら、ときどき背中におとうさんのねっとりした視線を感じた。怖くて、気づかないふりをして、僕は月見うどんをこしらえる。
頭が覚醒したおとうさんは、金曜日に借りてきた映画を観はじめていた。うどんを持っていったときは、まだ予告編だった。おとうさんは僕の腕をつかみ、隣に座るように命じた。逆らえない僕は、おとなしくそうして、鳥肌に息苦しくなりながらうどんを食べた。
おとうさんは、いろいろと僕に質問をする。午後はどうするとか、どこかに行きたくないかとか。僕はかすかなかぶりを振り、「掃除しなきゃ」と言った。家事はおかあさんがしていたことに当てはまるせいか、おとうさんは文句は言わない。
でも、近頃のおかしいところで、おとうさんはおかあさんへの態度をしながら、“僕”に話しかけてくるときがある。学校はどうとか、今度の修学旅行のこととか。
こういうとき、困惑と混乱のこみいった絶望的な気分になる。おとうさんが僕に強いる背徳的な関係は、今は残暑として風化してきているこの夏で、三年を越えていた。
だんだんおとうさんの中では、僕への意識が変わってきているのかもしれない。初めはひたすらおかあさんで、徐々におかあさんと僕、すなわち幻想と現実が錯綜していき、今やおかあさんに関しては病的な執着だけを残して、おとうさんは僕を“おかあさん”でなく“僕”を見てきている。
つまり、僕が息子だと認識している上で、のしかかってきている。おかあさんを失って崩れた均衡は、僕を使った狂乱を絶した先での安定で建て直され、ついには中毒を起こして僕へ新たな依存を発している。おかあさんを完璧に埋める存在、という価値で、おとうさんは僕を正視することに成功してきているのだ。おぞましい喩えをするならば、やっと昔の恋を吹っ切り、新しい恋に目覚めた、といったところか。
当然、僕には恐ろしいことだ。おとうさんが本物の狂人になったという面は、もうどうでもいい。僕として抱かれる、というのが吐きそうだった。僕、要は子供、男、息子として抱かれるなんて、事実と真実の同化ではないか。
そんなのは嫌だった。おかあさんの代わりにされるのはたまったものではなくも、おかあさんの名前である桃恵でなく、萌梨と呼ばれながらおおいかぶさられるのも同じぐらい考えたくない。いっそう、父親と息子という骨肉が際立つ。おかあさんの代わりでなかったらおとうさんを受け入れられる、なんてことはないのだ。
人格の蹂躙はなくなるとはいえ、代わりに別のものが重く来る。父親と息子で。そんなことがあっていいのか。
予告が終わって始まった映画は、おとうさんの神経を疑う悪趣味な内容だった。兄妹で恋に落ちる物語だ。しかも、肉体関係を持ったことから恋が始まっている。
おとうさんが分かっているのか分かっていないのかは読めずとも、おかあさんがラブストーリーが好きだったのは確かだ。おとうさんと失敗したので、夢想していたのだろう。
僕は目を背け、のろのろとうどんをすすった。
肉親同士で結ばれる物語には吐き気がする。そういうのはだいたい、禁断を越えた切なく純化された愛とされている。これもそうだ。兄と妹でも、父親と娘でも、何だって僕には聞くに耐えない。
何が分かるのだろう。肉親と肌を重ねるのが、どんなに嫌悪を催すことか。近親相姦などありえない。あるとしたら、それは崩壊と同義語だ。きちんとした家庭に、そんなのは起こらない。
近親相姦はゆがんだヒビの象徴だ。そうなるために、どれだけの裂傷を要するかも知らず、交わりだけ見て美しいとさえする人たちが、僕は大嫌いだった。
昼食が終わると、食器を洗った。おとうさんは映画を一時停止にして、ついてきた。僕が洗い終わるのを待って、一緒に観るのだと言う。「掃除しなきゃいけないから」とさっきも言ったのを繰り返すと、おとうさんはしぶしぶひとりでリビングに戻った。
再開された映画には、ときおり喘ぎ声があった。本当に兄妹で嬉々と寝ているのか。しかもそれを丁寧に映像に表現している。誰がそんなのを考えるのだろう。卑猥な声のときには、おとうさんの視線が張りついてきた。心では毒づいてみても、やっぱり真っ先に来るのは恐怖で、僕は手早く食器を洗い終えると、掃除に取りかかった。
リビングと寝室と僕の部屋、キッチン以外の部屋に掃除機をかけおえたのは昼下がりだった。そろそろお風呂掃除もしなきゃいけなかったな、と思い出しつつ掃除機を片づけていたとき、インターホンが鳴った。
当然、出るのは僕だ。心当たりが浮かばないまま、玄関への直線の廊下にあるインターホンに出た僕は、返ってきた声に息を飲んだ。
『朝香? 俺だよ、俺』
聞き憶えがあるような、クラスメイトの声だった。名前を言われたが、僕は誰の名前も顔も認識していない。
一瞬、何なのか測りかねた。測りたくもなかった。約束はしていない。日曜日に。家まで来て。がやがや話し声もしている。
僕はすべてを悟り、眼前を蒼ざめさせた。
『数学の宿題、わけ分かんなくってさあ。お前、勉強できるじゃん。教えてよ。写すでもいいけど』
降りそそいでくるときのそれに酷似した後ろの笑い声は、遠かった。明らかに口実だ。分かっているくせに、僕は何にも感じ取れない鈍感の対応をしていた。受話器を置き、玄関に行ってドアを開けていた。「誰だ?」と訊いてきたおとうさんには、「友達」とすら返した。
全部で四人いた。勉強道具が入っているらしいデイパックや手提げは、一応みんな持っている。僕がどうこう言う前に、「お邪魔しまーす」とみんなぞろぞろ入ってきて、最後の人が律儀に鍵を締めた。
「部屋どこ? あるよな」
先頭の人が言って、案内するほかなかった。おとうさんがいるのはみんな分かっていたようでも、映画を観ているのとカウチに横たわってすがたは見えなかったので、挨拶はしなかった。
みんなが僕の部屋に入っていく。ただでさえ窮屈なこの部屋に、男が五人もつめこまれると暑苦しかった。
こういう人たちの習性みたいなもので、みんな好奇心いっぱいにきょろきょろしたり、勝手に触ったりする。嫌だったけど、何も言えず、黙って見ているしかなかった。つくえの隣の本棚を見ていた人が、「参考書ばっかり」と言う。つくえの上をあさる人も、何の意味があるのか、ふとんをめくる人もいる。
僕の部屋にはやましいものは何もない。生活臭がないと自分でも思う。この部屋は、寝て起きて勉強し、ぐったりと泣き崩れるためだけにある。「漫画ないのかよ」と声がして、僕はそちらを向きながらうなずいた。
「えー」
「テレビもないなあ。雑誌とかCDも」
「何かないの。おもしろいの」
「……ない、けど」
「変わってんなあ」
「つまんなくない?」
単に興味が持てないのだ。そんなものに傾ける情熱があったら、休む気力にする。
ひとりが床に座って教科書を取り出すと、みんな続いた。誰かに腕を引かれて、僕も輪に入れられた。
掃除、と思ったものの、口にできない。別にいいだろ、で済まされるのは分かっている。
僕は宿題を終わらせていたので、教えずに写してもらった。みんなそこはそれで僕を利用しにきたようで、頭をぶつけあってノートを覗きこみ、せっせと写していた。
「朝香ってさ」
ひとりが言ってきて、ぼんやりしていた僕は顔を上げる。
「母親いないんだっけ」
「え、あ、……はあ」
「えー、それ、ほんとだったんだ」
「何で。離婚?」
「俺、知ってる。どっか行っちまったんだろ」
「……はあ」
「ひとりでいなくなったのか」
「それは知らん」
「いついなくなったの」
「九歳、のとき」
「ふうん。ま、親なんかいないほうがいいけどな。小言ばっか」
「そうそう。いたらいたでうざいぜー。飯食わせてるだけで威張りやがってさ」
「俺んとこはべたべたしたがるよ。一緒に出かけようとかさ。恥ずかしいっつうの」
「えー、俺はほとんど口きかねえや。顔合わせんのからきつい」
げらげらと親の悪口を言うみんなに、内心でため息をつく。
みんなそんなものなのか、なんて共感したりしない。みんなの嫌悪と自分の嫌悪は、段違いどころか、まったく別物だ。みんな、どこかで親に安心しているからそう思えるのだ。
僕は違う。何を思おうが向こうは許容してくれるという自負のゆとりはない。両親のことを、そんなふうに笑いながら話せない。悪口など口にできない。悪口で済む感情ではない。
宿題が終わっても、みんな帰らなかった。「家帰りたくない」と漫画や携帯ゲーム機を取り出している。僕の部屋じゃなくてもいいのでは、と思っても言えなかった。
僕は、ベッドスタンドの下で膝を抱えていた。掃除はあきらめていた。ただ、この人たちに早くいなくなってほしかった。なのに、「何か飲み物ない?」とか誰かが言ってくる。
「暑いよ、ここ」
「……麦茶なら」
「あー、もう何でもいい」
「俺もいる」
「俺も」と残りのふたりも続き、僕はのろのろと立ち上がった。
部屋を出ると覗けるリビングを向くと、テレビにはCMが映っていた。僕は左手にキッチンを通り過ぎ、カウチのおとうさんを窺う。
寝ていた。息をついてテレビを消すと、リビングは急にしんとなる。クーラーがきいているので、ふたつ折りにした毛布をおとうさんの腹掛けにしておくと、キッチンに引き返した。
食器棚からよっつのコップをあさりだすと、麦茶をつぎ、それをお盆に載せて部屋に帰る。
うずくまって鈍い時間に耐えていると、今度は「食べ物ない?」と言われた。召使いになった気分で、部屋を再びあとにしようとした。飲み物のときに何もなかったので、無意識に無防備になっていた。ドアノブに手をかけ、みんなに背中をさらした。
はっとしたときには、ぎゅっと肩を抱きすくめられていた。
僕の成長は、幼い心に沿っているのだろうか。少年体質が抜けずに男らしくなく、小柄で身長は二学期の身体測定によると百六十もなかった。みんなは男へと急ぐ変化を声や体格に現している。僕は、この同い年の人の肩幅や腕を、刹那、幼い頃に抱きすくめてきたおじさんのそれと錯覚しそうになった。それに愕然とした。
その人は、僕の背中に体重をかけた。前のめりになって、それで開きかけたドアが閉まった。ドアノブを下ろしていた手が、脱力か冷汗かでだらりと落ちる。その人は、僕の耳元に優しくささやいた。
「分かってるだろ」
そして、いつもの悪夢だった。僕はその人に腕を引っ張られて、部屋の真ん中に連れ戻された。また、あの麻痺に襲われていた。真っ白の頭の隅で、ここは僕の部屋だ、と思う。
泣きそうになった。僕は自分の部屋すら、悪夢の舞台にしてしまうのか。
唐突にズボンと下着をおろされた。そこにケータイが現れ、僕は陰部に閃光を受けた。突拍子のなさにわけが分からなかったのち、かあっと全身で羞恥と恥辱が綯い混ぜになる。
写真を撮られたことは何度もあった。だが、すでに僕の性器はあの小さなものではなくなっている。それでも買う人がいるのか。それとも、自分で取っておくのか。何のために。抵抗できないように後ろ手をつかまれながら、そんなのを茫然と思っていた。
撮った人はケータイをみんなにまわす。みんな笑った。僕にもまわされ、「どう?」と誰かが訊いてくる。何とか顔を背けた。見たくなかったのも、泣きそうなのを知られたくないのもあった。陰ったその場所に、幾度となく凌辱の白い光を向けられた。さらされるたびに、焼きつけられた。唇を噛みしめ、泣きたいのを必死にこらえた。
しかし、ベッドに押し倒されて柔らかい性器をもてあそばれたあと、“遊び”が本格化してくると、耐えられなかった。泣いていた。みんな気づかず、僕の軆を精液や唾液で汚していった。喉に怒張を押しこめ、手で性器を握るのを強要し、うつぶせにされて肛門に唾を吐かれ、膣の代わりに挿入される。
外も中も軆がべとべとになっていくほど、僕の顔も涙にぐちゃぐちゃになっていった。口に涙が流れこんでも、からくはなかった。白濁の苦味のほうが強かった。それにまた心理的な苦痛が被さり、僕はすすり泣く。
すると、その嗚咽に「感じてんじゃねえの」と声がして笑いがはじけた。耳を塞ぎたくとも、指先は精液と陰毛がこびりついてべとべとだった。泣くことさえ屈辱になった僕は、無力な屈辱を胸に堆積させるほかなくなり、圧迫のたびにだるい吐き気でこめかみをひずませた。
再度、仰向けにされた。軆が重くて無感覚で、何をどうされているのか分からなかった。腰を抱え上げられ、相変わらず内臓をえぐる鈍痛は続いていた。
笑い声もしていた。いろんな手が肌を駆けまわり、ときおりまた閃光が飛び散った。顎をつかまれ、口を開かされ、そこに熱くて太い、どくどくしたものが侵入してくる。
髪を優しく梳かれ、「舐めてよ」と聞こえた。そうすることが自分にとって、自分の感情にとって、どんなものか考えられなかった。僕はそうした。まもなく、喉に奔流があふれた。
まぶたさえ虚脱し、だらしなく目が開いていた。口の中の脈打ちが引き抜かれると、支えをなくしたように首がぐにゃりとして喉が反る。
ドアが視界に入った。途端、僕は視覚を取り返し、大きく目を開いた。
なかったはずのドアの隙間に、すさまじい憎しみを燃やす、おとうさんの瞳があった。
【第百二十四章へ】
