逆流する麻痺
まぶたを押しあげると、いきなり覗きこんできている瞳があって、びくっとした。
混乱が生じる。目。何で。この部屋には僕ひとりだったはずだ。おとうさんが起きてきたのか──そこまで思い、あれ、と立ち止まる。
違う。おとうさんの目じゃない。こぼれそうに大きく、穏やかな色をしている。そこには懸念が滲みこんでいる。懸念なんて、おとうさんがするわけがない。そもそも、あの人の目はこんなにおっとり澄んでいない。
何だろう。僕はその目を見つめ返す。怖くなかった。
「起きた?」
心配そうな、子供の声だ。子供。何で子供。夢かな、と思ったとき、汗で額にはりついた髪をこわごわとした手が丁寧に剥ぐ。
魚の焼ける匂いがしていた。天井を向く。いつもより遠く、朝陽のそそぎ方も違う。まくらもとに足音が近づいてきた。
「萌梨くん、起きた?」
「うん。でも、しゃべってくれないの」
「さっきうなされてたよね。落ち着いたと思ったけど──」
天井を見ていた視界に人影がかかる。まばたきをした。またあの、心配を浮かべた穏やかな色の瞳が降ってくる。
「萌梨くん」
物柔らかいその声で、ようやく僕は夢と現実の境目に気づいた。聖樹さんだ。そして頭にいるのは悠紗だ。そう、僕は今、あの家じゃなくこのふたりの家にいるのだ。
「大丈夫?」
聖樹さんの気に病んだ声に、うなずいた。咲おうとしたけど、引き攣った咲いになりそうで、逆に心配をかけるかとやめておいた。代わりに、「大丈夫です」とかすれぎみの言葉を返した。
「そう。無理しないでね。さっきすごくうなされてたよ。起こそうとしたら止まっちゃって」
見ていた夢は、憶えていた。おそらくうなされるのが止まったのは、ドアの隙間の目を見つけたときだ。あの麻酔で、僕は束の間死体になった。
あの死の無感覚が、今、軆中に生々しく再現されている。
──あれから、三ヵ月も経っていない。
「きつかったら横になってて。悠、そばについててあげてね」
「うん」
聖樹さんは腰を伸ばそうとして、一考し、僕を覗きこみ直した。僕は聖樹さんを見返す。「ごめんね」と聖樹さんは思い設けない台詞を差し出してくる。
「え……」
「昨日。萌梨くんはまだつらいのに、自分のことに走っちゃって」
ゆっくりまばたきをした。聖樹さんは愧色し、「舞い上がってたかなって」とつけたした。僕は少し咲うと、「平気です」と言った。
「聖樹さんは悪くないです」
そう、夢は僕が──僕の脳が勝手に見ただけだ。聖樹さんは悪くない。夕べの煩悶が影響していたとしても、あれも僕の卑しい邪推で形成されていた。
僕の笑みが自然なものだと認めると、聖樹さんも咲い、姿勢を正してキッチンに行った。
悠紗は僕の髪に指を通している。上目をすると目が合って、悠紗は照れ咲いして手を引いた。髪が汗に湿っている感触はある。「べたべたじゃない?」と心配すると、「平気」と悠紗は笑んだ。
「萌梨くんは?」
「僕」
「ただの怖い夢じゃなかったんでしょ」
悠紗と見つめ合う。そっか、と思った。悠紗は昨日、聖樹さんに心の傷口の刃物を教えられた。つまり、僕が受けてきたことも知ったとなる。
僕が何でうなされたか、察しているのだろう。まさか、相手が父親だとは思いも寄らないとしても。
「大丈夫だよ」
そう言って嘘をついている感覚がないのは、苦痛を越えた無感覚の中にいるせいだ。動悸も息苦しさも涙もない。壊れて、もう壊すものがなくなったあとの、空風の静謐に僕はいる。
「大丈夫」
そう繰り返すと、敏感な悠紗は納得がいかないようでも、否定して荒立てるのも逆効果だと思ったのか、こくんとした。僕は微笑み、心因でなく寝起きの肉体的なだるさが取れたら起き上がりもした。悠紗は腕を取って手伝ってくれる。
「ありがと」と言うと悠紗は首を振り、カーテンを開けに窓辺に行く。僕はふとんをたたんで隅にやる、毎朝の作業をした。
どこかでショックだった。今、僕には「あれ」が効いている。普通にして目立たないようにするための、苦痛を押しこめるあの痺れ、切れたときに途方のない疲労感をよこすあの麻痺が。
向こうでの僕は、これによって毎日をやりすごしていた。今、僕が日常的にしているのは、それが効いているせいだ。あの夢に衝撃が過ぎたのだ。自己防衛が勝手に引き金を引いた。
いまだに僕は、この機能に助けられなければならないのか。無感覚の上に鬱になったら、生死の境界がぼやける。生きてても死んでも同じ、じゃあ死んでしまおうと。反動が大きくならないうちに、この麻痺は追いはらわなければならない。
悠紗が向こうの人たちのように騙されているのかは分からない。気遣う子であると知っているだけに、騙せている自信がない。騙されてくれているのかもしれない。
聖樹さんはなおさらだ。尊重しているのか、気づいていないのか。うなされたのに何も変わらない僕の様子を、ふたりが突っ込んでこないのは確かだった。
今日は月曜日で、悠紗と僕はともかく、聖樹さんはいそがしい。着替えたり荷物を整えたり、家事のほうもゴミ出しがあったりする。話した、とはいっても、それは大切な人に限ったものなので、眼鏡も忘れない。
慌ただしさが重荷になっているふうはなかった。昨日予断したとおり、熟睡で外的な疲れを取れば傷をさらした労力は吹っ切れている。引きずる内的な鬱がないのは、徒労でなかった証拠だ。悔やませるような悪い夢もなかったみたいだし、聖樹さんにはあの告白は大事なものだった。僕のほうがしみじみしてしまう。
こちらが変な夢を見てしまった。昨夜は何時間もぶつぶつと考えこんで眠れなかったけれど、あの夢はその懊悩がすりこまれた産物だろうか。
帰らなきゃいけない。そう思っていた。あの家に。あの磔台に。僕の身分や帰結は、あの地獄だ。
自分の脳にも、自覚を持てと責められたのか。ここにいる資格はない、しょせん死ぬような生活を送るのが定めだと。やっぱり、僕の頭と心は分裂している。そして対立し、いつだって頭が行なう理性的なさいなみが優勢だ。
スーツすがたになった聖樹さんは、「いってきます」と八時前に出勤していった。
残された朝食の最中の悠紗と僕は、何となく顔を合わせる。悠紗はなぜか照れ咲いをして、ししゃもの頭をかじった。
「何?」
「ん、うん。あのね、僕、変じゃない?」
「変」
「普通にできてるかな」
悠紗を見つめる。動揺が現れて浮き足立っていないか、ということか。たとえ悠紗でも、どう対応したらいいのか分かりかねる部分があるようだ。微笑ましさに、「変わらないよ」と僕は咲う。
「ほんと」
「うん」
「よかった。へへ、あのね、おとうさん傷つけないように自分曲げるんじゃないよ。ほんとに分かんないの。僕、今までどうやっておとうさんといたかなって。変だね」
首を振った僕は、やや気になり、僕にもそうなのかを問うてみる。悠紗は上目をして、「少しね」と白状した。「そっか」と僕は箸をししゃもか漬けものかに迷わす。
「悠紗が楽なようにしてくれたらいいよ」
「楽」
「悠紗はきちんと分かってると思うし。気にするほうが変になるよ」
「そっかなあ。んー、そうだね。嘘ついて、それがばれたら、おとうさん哀しいよね」
「うん」
「じゃ、僕でいる」
こくんとした僕は、漬けものとごはんを口にして、悠紗もししゃもを食していく。
「けど、ごめんね。萌梨くんにこういうの言うの慣れちゃったな。萌梨くんは萌梨くんでいっぱいなのに」
「いいよ。そのことばっかり考えてるほうがつらいし。別のことも考えないと」
「そお。じゃ、これからも話聞いてほしくなったら、聞いてね」
「うん」と答えながらも、これから、というのが内心引っかかった。
僕はそろそろ、ここにはいられなくなってきている。これからなんて存在するのだろうか。明日には十二月に突入する。そのひと月後、年が明ける頃にここにいるかどうかだって、保証されていない。
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