現実逃避の終わり
僕は傷を守りすぎている、と思う。それはもう傷つきたくない、これ以上えぐられたくないという想いからなのだけど、癒したかったら傷をおおっている手もはずさないといけない。
「とはいっても、僕は誰にでも話せるってほうではないし」
聖樹さんに目を向ける。「わがままだけどね」という聖樹さんに僕は首を横に振る。
「萌梨くんだったら話せるんだ。分かってくれるし、演技しなくていいっていうのも大きいかな。苦しくなって、誰かにいてほしくても、誰かいると僕は泣けなかった。それが萌梨くんだったら泣ける。何がつらいかも話せるし、分かってもらえる。何かね、すごいんだよ。僕にとっての萌梨くんって」
「……はあ」
「つらくなったらそばに来てくれて、この人だったらそばにいてほしいって素直に思える。萌梨くんのことは怖くない。言い方、変かな」
「いえ、分かります」
聖樹さんは咲い、「そういうのがいいんだよね」と言った。僕もつい咲う。
「それに、こないだの夜のも。話して平気?」
「はい」
「あのとき、ひとりじゃないんだって思った。僕が誰かを信じようとしたら、そういうほうが向いてるんだ。暖かいところから手を伸ばされるより、冷たいところに一緒に沈まれるほうが。卑しくても、次の瞬間、突き放されるかもってどこかで思いながら受け止められるより、壊れたもの同士で共感できるほうが、ひとりじゃないって感じる。暖かいほうの人に行くのは、そういう人と、まず誰も信じられないのから治したあとでもいいんじゃないかって」
うなずく。でも、卑しくなんかはない。聖樹さんの傷が深すぎるせいだと思う。安全圏でないと怖いのだ。冒険して下手なことになるには、僕たちはもうぎりぎりにいる。
「あと、分かるな、とも思えた。全部分かるわけじゃないよ。おとうさんのこととかは、僕が分かるって言ったら無神経だよね。でも、何か分かるんだ。初めてだった。今まで、人の気持ちなんか分からなかった。あの頃、みんな何考えてるのか分からなくて、実際そこにひどいことしてくるのを隠し持ってた。それが残ってて、僕は分からない人は怖くて信じられない。萌梨くんは分かる。分かっちゃう。だから、怖くないし、何でも言ったりできる」
見つめてくる僕に、聖樹さんは照れ咲いをした。僕はこれで、聖樹さんの役に立てているのだろうか。
今まではそうだっただろう。僕だけがそうだった。これからは悠紗たちがいる。だったら僕は──。
唇を噛んで押しのけた。煮物の銀杏切りのにんじんと鳥肉を口に入れる。
「まあ、悠とか家族に話したからって救われるとは思ってないよ」
どきっとして聖樹さんを見る。読み透かされたのかと思ったのだが、聖樹さんは視線を食べ物に落としていた。
「贅沢に聞こえても、やっぱりされなきゃ──というか、なくさなきゃ分からないとこもあるしね。悠たちが僕をすくいあげたりすることはできない。結局は自分の問題なんだ。そこ見ると、最終的なとこは萌梨くんにだって何にもしてもらえないし」
小さく煮物を飲みこむ。
「って言ったら、何か暗いか。萌梨くんが、ほかの人より深いところまで僕をすくいあげられるのは確かだよ。悠たちだって、できる限り近づいてはくれる。手助けぐらいなら、してもらえるようになったんだ。葉月の言う通り、心強くはあるよ」
「そうですか」と、僕は豚肉に添えてあるキャベツの千切りを箸にすくった。聖樹さんもうつわを取って煮物を口に運んだ。キャベツは噛みしめると甘い。
僕はふと、ここに来てまもない頃を思った。聖樹さんは連続するようになった。妙な形容だけれど、聖樹さんは、ときおり途切れ、つかみにくくなるときがあった。それがなくなった。空白がなく、つながっている。
いつからだろう。僕と告白しあって以降だろうか。とりあえず、それが悪化ではないのは言い切れる。
聖樹さんはあの頃よりよくなっている。僕と知り合い、堕ちていく速度を緩めるぐらいはできるようになった。誰もいなかったところに僕が来て心を開け、そして僕を心に開けたことで、ほかの人にも目を向けられるようになった。
いいことだ。目を向けてきちんと対象があるのが、僕は私情で苦しいだけだ。僕はたとえ顔を上げたって、誰もいない。聖樹さんにはいて、疎通もした。沙霧さん、両親、悠紗。いっぱいできた。あの四人もいる。
僕は怖かった。僕はどうなるんだろう。どんなに分かると言ったって、僕は聖樹さんを取り巻くべき人間ではない。いらないと思われたら、何も言えない。近頃まといつくこの不安が、しばらく忘れていたあの不安に似ているのに僕は気づいている。
いつまでもここにはいられない。いるべき身分でも、いられる立場でもない。この現実逃避が終わったら、僕は──
現実逃避、という言葉に頭を殴られた感じがした。現実逃避。そう、現実逃避だ。ここにいるのは現実逃避だ。
何だか僕は、ここにいすぎて夢に浸りすぎていたようだ。夢を現実だと錯覚していた。
違うのだ。今ここにいるのは、現実ではない。現実逃避だ。
ひとりぼっちではないのは幻想だ。僕は逃げているだけだ。逃げた先で得たものが、いったいどうなる? 逃げきったりもできないくせに。
僕は逃げられない。いつだってつまずいた。いつか僕はつまずく。この現実逃避でもつまずく。そうなっている。つまずいて、僕は現実に戻って、僕の現実は──
『みやげ?
いらないよ。
お前さえ無事に帰ってこれば──』
夕食が終わると、聖樹さんはバスルームに行って、僕が食器を洗った。少し頭が白濁していて、きんと冷たくなった水に無感覚だった。冷たくて無感覚だったのか、無感覚で冷たくなかったのか。
悠紗のぶんの生姜焼きや煮物は皿に分けてラップをかけ、冷蔵庫に入れておく。悠紗が明日食べなかったら、僕が昼食にでも食べればいい。
聖樹さんが風呂を上がると、今度は僕も風呂をもらう。
服を脱いでタイルに踏みこみ、温熱器をつけてシャワーを出した。最初のしばらくは水なので、シャワーヘッドをよけて待つ。変わらずに、脳内は白かった。思考力が低迷していた。僕は無意識にいつものくせでうつむき、ぶらさがる性器を視界に入れてしまった。
目を開いた。それを見つめた。性器は陰毛の中でしおれていた。
形状はともかく、実質的には未熟な性器だ。勃起しなければ、射精もしない。なのに、僕はこれが勃起した場合、どんなものになるかを知っている。精液がどんな臭いをしているかも知っている。
ここにはいろんなものが触ってきた。僕はこの性器を握りしめられた。口に含まれた。舌を這わせられた。湿った吐息は熱かった──
いきなりだった。喉元から眼前へ、ゆがんだ衝動が繁殖した。触覚がねじれる。脚のあいだに、おぞましい感触が伝う。手。舌。息。呼吸が引き攣れ、目の前がくらついた。
取り除かなきゃ。
そう思った。変な感覚がする。こんなのは嫌だ。切り落としたら消えるだろうか。ダメだ。ここには刃物がない。じゃあ、たたきつぶそう。つぶしたらもぎやすくなる。僕は無意識に拳を作って振りあげた。
その途端、ひどく熱いお湯が腕にかかってびくっとした。後退ると、いつしかシャワーが噴くお湯が湯気を立てている。僕は慌てて温度を下げた。
自分が何をしようとしたのか、はっきり憶えていなかった。ただ視界がゆがみ、お湯みたいに熱い液体が、頬を流れて口元に塩からく流れこむ。
それで、いろんなものが薄れた。何かを吐き出している、という事実が気を楽にした。この涙には悪いものがこめられている。そう思いこんで、僕はすすり泣きながら、弱いシャワーで髪や軆を洗った。
リビングに帰ると、聖樹さんは仕事をしていた。僕はしつこく顔を洗って腫れた目をごまかしていた。「遅かったね」と言われて、曖昧に咲う。
僕が髪を乾かすあいだも、聖樹さんは仕事をしていた。髪に温風を吹きこんで、僕は視線を泳がせていた。
ここにはいられない。ここにいたら真っ当な仕事にもつけない。真っ当ではない仕事をやる気力は僕にはない。やはり子供のうちは、あの耐えがたきに耐え、大人になるのを待つのが正しいのか。
仕事をする聖樹さんを横目に、そんなのをぼんやり考えていた。
聖樹さんは仕事をして僕は読書をして、それは二十二時前にお開きとなった。聖樹さんがノートPCを閉じた音に、僕は顔を上げる。「寝ようか」と言われて、こくんとした。
聖樹さんは歯を磨いたりトイレに行ったりして、僕もふとんを敷くとそうする。昨夜、悠紗が不安がったのでベッドを借りたのを言っておく。聖樹さんは軽くうなずいて気にしなかった。「おやすみ」と明かりが消され、暗闇でひとりふとんにもぐりこむ。
まくらがため息を吸いこむ。どうしよう、と思った。本当は、まだそんなに眠くない。
しきりに寝返りを打って、意識が落ちこみそうな体勢を探した。でもなかなか見つけられず、あきらめて仰向けになった。暗い天井を見つめても、まぶたの重みはない。就寝用に抑えられた暖房の隙間に、肌寒さがする。脳の白濁が澄みわたって、喉元の黒雲が活性化した。
何でこんなに早く寝ているのだろう。とりとめなく考え、聖樹さんが昨日から今日、立て続けに胸を内を明かして疲れていることへの配慮だと思い出す。
そう、聖樹さんは昨日の昼から今日の夕方にかけて、三回も記憶を掘り起こした。わずらわせてはいけない。
悪い気分にはなっていないと思う。みんな受け入れてくれた。つらかったけどその甲斐はあった、と報われた気持ちであるに違いない。聖樹さんの疲れは、肉体的なものだ。今晩ぐっすりすれば、引きずる鬱もないので、心気を良好にできるだろう。
聖樹さんが落ち着いているのは僕もほっとする。する──のだけど、元気になった聖樹さんが僕の存在をどう思うかは心配だ。
変わらないだろうか。切っかけをくれたと感謝するだろうか。依然、うじゃうじゃする僕を囲む悪いものが目障りになったら。
本気で聖樹さんを疑っているわけではなくとも、できあがった格差に焦らなくもない。聖樹さんには余裕ができた。僕は相変わらず極限だ。
怖かった。そこに、最近心を犯している不安も加わる。ひと月半で、そろそろここにいるのは限界ではないか。
聖樹さんには、僕の面倒を見る義務はない。出ていってくれ、と言われたらごく正当であり、逆らえない。聖樹さんには沙霧さんや両親、何よりも悠紗ができた。僕がいてどうする? 誰かにいてほしいからと、ここにいてはいけない人間をいちいち擁する必要は、もうない。
冷静になれば、聖樹さんがそこまで利己的な人ではないのも思い出せる。聖樹さんは、自分がよくなったといって、僕を放り出す人ではない。こんな不安は僕の卑屈な杞憂であり、聖樹さんはきっと僕をここに置いて、守ってくれるだろう。嘘や同情ではなく、そうしたい、と言ってくれると思う。だが、聖樹さんがどんなにいいと言ってくれても、それを盲信して甘えていていいものか。
ここにいれば、僕は落ち着く。安らげるし、楽しい。悪いものに取りつかれるのも少なければ、ひとりぼっちでもない。だが、それらすべてには、僕の居場所ではないという前提がある。
前提が消えたらここへの愛着が冷める、とは思わない。消えたら、それ以上ない幸運だ。僕だってここにいたい。ここが好きだ。しかし、ここは僕の場所ではない。ここでの僕は、部外者の他人だ。
しょせん僕が溶けこまなくてはならないのは、あの壊れた家であり、それが事実である限り、僕がここで暮らしているのは根拠のない現実逃避にすぎない。安らぎも許容も、僕がここでこころよく感じるものには、保証がない。
帰らなくてはならない、という子供であるがゆえに変えがたい根幹は、あの家庭にある。その根から生えるものは学校であり、揺るぎない往復であり、代わりばえのない絶望だ。僕の身分はそんなので、ここにいるべき人間ではない。今この僕の状態は、非望の現実逃避だ。
だいたい、僕がここにいたって時限爆弾だ。聖樹さんがよくなっているのなら、なおさらだ。僕はいなくてもいい。悠紗も沙霧さんもいる。聖樹さんは踏み出せた。かくまってくれた感謝を示したければ、くだらない問題を起こして聖樹さんがまた壊れないうちに、綺麗さっぱり出ていくことではないか。
じゅうぶん、いい夢を見た。ここにいて、生まれてよかったなとさえ思ったりした。あの頃より、死ぬことが虚しくない。今死んでも、何もかもを怨みながらではない。ここで得たものには微笑めるし、少し自分の存在も好きになれている。生まれたことに悔いがない状態で死ねる。行き倒れになっても、空っぽではない。
それが筋だ。僕はいつまでもここにはいられない。聖樹さんには悠紗たちがいる。聖樹さんと悠紗だけには、迷惑をかけたくない。聖樹さんが落ち着いてきているのを壊したくない。
出ていくのは簡単だ。気持ちが落ち着きました、と言えば、それが約束なのだから出ていける。そう、いずれにせよ気持ちが落ち着いたら出ていかなくてはならないのだ。が、そうしたところで僕はひとりで食べていくあてもない。死んで地獄に行くか、見つかって生き地獄に行くか、どちらかだ。必ずつまずいてしまう僕は、のしかかられることをけして逃げられはしない。
僕はここにいたらいけない。出ていかなくてはならない。もちろんそんなことはしたくなくても、僕にここにのさばる権利はない。ここでぬくぬくしたところで、全部夢だ。現実での僕はひとりぼっちだ。夢だけでもいいものを見れたのなら、それで満足すべきだ。早いうちに、僕は現実に帰らないといけない。
現実に。あの家に。学校に。無事だったよ、とおとうさんにきつく抱きすくめられに。
帰らないといけない。
帰って──今度こそ、僕はどうなってしまうだろう。
【第百二十三章へ】
