カラーサークル-18

ハートのチョコレート【3】

 その夜、ついにあたしもあきらめてしまった。南を口に含んで、体内に射精させた。あたしたちのセックスは、いつも南のやつあたりに過ぎなかったけど、その日からあたしは子作りを意識した。
 南は響をかわいがっていた。父性で彼を紛らわすしかなかった。あたしでは癒せない。司でしか癒えない。でも、司は腑抜けだ。あんな奴には南を任せられない。南を愛しているかと訊かれたら、あたしは違う。それでも、南が司ではいけないことは誰より知っているから、すべてを承知してそばにいることはできる。
 でも、やっぱりその行為は南にはひどいストレスだったようだ。優しく愛撫されるほど、司にそうされた記憶がよみがえる。快感を覚えるほど、司の名前を口走る。司が思い返って、南の心は飢えてつぶれて酒に飲まれた。毎晩泣いて、「死にたい」と吐いて、二十五になる冬の日、あたしが帰宅すると南はアルコール中毒で昏睡状態になっていた。
 響は二歳だった。救急車が来るまでのあいだ、「おとうさん死んだの?」と泣きじゃくって訊いてきた。あたしは響を抱いて、優しくあやしたいのに無性にいらいらして、何も言えなかった。
「あたしに殺されたくなかったら」
 病院からの電話に出た司に対するあたしの声は、本当に殺意で震えていた。
「南に今すぐ会って」
 吐きそうだった。大切な友達で。親友の旦那で。そんな人なのに、憎しみさえ感じているのかもしれない。
『でも、俺……』
 ああ聞きたくない。あたしはがちゃんと電話を切って、響の手前、何とかヒステリーになりそうなのをこらえていた。そんな電話だったから、かえって司は眠れなくなったらしい。病室の前で、吐き気をこらえていた。しばらくして駆け足が近づいてきて、顔を上げると「巴」と呼ばれた。
 司、だった。そのすがたを見た瞬間、あたしは泣き出してしまった。
「ごめん、あの……南は? いや、俺が会っていいか?」
 あたしはただ泣いていた。だから、響が「司のおじちゃん?」と司のコートを引っ張った。
「え、うん──。俺のこと知ってる、んだ」
「おとうさんが、いつも話してくれるから。世界で一番好きな人だって」
「……え」
「ほんとは、おかあさんより好きなんだよって」
 あたしがあんまり泣いているので、看護師さんが駆けつけた。響のことは病室に入る司に任せて、あたしはしばらく仮眠を取るように言われた。吐き気やめまいという症状を訴えると、看護師さんは考えてから、「初めての症状ですか?」と言った。
 初めて。初めて──いや、そういえば、空気そのものを受けつけないような、このむかむかした感覚……
 翌朝、あたしは看護師さんに頼んで検査を受けた。妊娠が陽性だった。理由が分かると、ほっとした。本気で心が黒くなった気がしていた。
 ぼんやりしながら南の病室に行くと、司が南の膝に突っ伏して寝ていて、南は響を抱く腕を伸ばして司の髪を撫でていた。あたしに気づいて咲った南に、彼のそのはにかんだ笑顔を見るのは、何年振りだろうと思った。
 それから、あたしと南は離婚した。司と紫も、揉めたけど離婚した。生まれた子供には、「奏」という名前がついた。その子だけ、まだ乳離れもしていないのであたしが引き取り、ほかの三人の子供たちは同居を始める南と司が引き取った。
 六歳で出逢った司と南は、実に二十年かけて、やっと本当に同じ家庭に結ばれた。
 それからも、あたしの仕事がいそがしいときは南が奏も預かってくれた。南の絵も評価されはじめて、司は変わりなく建築士として働き続けた。今は、時間以外はずいぶんゆとりのある生活を送れている。
 もしあの日、あのバレンタインをすっぽかさなかったら、今のあたしはないのだろうし、もしかすると南と司もなかったのではないかと思う。会ったって、イエスの準備しかしていなかったし、取り繕ってノーを伝えることはできなかった。あの彼にはひどいことをしたと思う。卒業式、ほかの女の子と咲っているのを見かけられただけでもほっとしている。
 バレンタインから数ヶ月経ったとき見つけた、例のハートが混ざったチョコはゴミ箱に捨てた。
「──久賀さんっ。もう上がっちゃうんですか?」
 収録が終わって、挨拶を済ましてからスタジオを出ようとするとりなこちゃんの声がかかった。恵那ちゃんはマネージャーさんと共に、スタッフに挨拶と宣伝をしている。
「うん、今日はチョコの買い出しに行かないと」
「わ、久賀さん、彼氏できたんだ」
「いや、息子に妙な期待をされてるだけね」
「久賀さんと別れちゃうなんて、ほんと旦那さんは欲張りだなあ」
「あれはもともと本命がいたからね。いい友達なんだよ。ちゃんとチョコだって渡すし」
「えーっ、旦那さんに妬いてる人、絶対いるっ」
「はは。いればとっとと告ってほしいわ。じゃあ、恵那ちゃんにもよろしく。あたしからのふたりへのバレンタインはそのアクセと思っておいて」
「え、もらっていいんですか?」
「うん。じゃあ、次の収録でね」
「はあい」とりなこちゃんは両手を振って、あたしは咲ってからスタジオを出た。着信のつくスマホを見ると、二十時半。もうこの近くで買わないと、店は閉まってしまう。
 着信の中に奏からのメールがあった。今日は南と司の家に行っているはずだ。
『我が家のチョコ収穫率が壊滅的。
 授くんが桃ちゃんにもらったくらい?
 あと、司くんが職場から義理チョコもらってきてた。』
 テレビ局の迷路のような廊下を歩きながら、仕事上がれたから今から恵みにいくというメールを打って送る。エレベーターで地下に降りて、車でテレビ局を出たら圏外も消えてメールを受信する。運転中なので見れないけれど、まあ奏だろう。
 どうしようかな、とハンドルを握りながら考える。一番近いデパートでも滑りこむ頃には閉店しているだろうし、コンビニやスーパーは味気ない。今年はケーキあたりで我慢してもらうか、とも思ったけど、バレンタインのデコレーションが目についたカフェがあったので覗いてみた。
 すると、さいわいなことにベタなハートのミルクチョコレートが残っていた。「夕方くらいまでは、デザインもフレーバーも残ってたんですが」と申し訳なさそうに言われても、六つ平等に確保できるほうがありがたい。ケーキだと、奏と授がほとんどを食べてしまうだろう。
「名前を入れられますが」と言われて、南と司は入れてもらうかなあと思ったけど、時間が間に合うか分からない。高速を飛ばして一時間はかかる。それに、子供へのチョコだと言っている六つのチョコに、ふたりだけ書いたら何だかおかしいだろう。笑顔で遠慮しておくと、お金をはらってカフェを出た。
『チョコ確保。
 二十二時過ぎには持っていけるかな。』
 奏にそうメールを送って、車を路上駐車から発進させようとしたときだ。通話着信がついた。奏そんなに待てないか、と思ってスマホを取ったあたしは、表示されている名前に目を開いた。
“紫”
 紫とは──あたしは、友人としてたまに会っている。あたしは奏を通して、紫はあたしを通して、築と授の様子を知っている。司は別に、紫と子供たちが会うのを禁じてはいない。でも、紫は「私は会う資格ないでしょう」と言っている。そんなことを言う理由は、よく知らないけれど。
 スマホを手にして、一度深呼吸してから通話ボタンを押す。あの頃より落ち着いた、でもまだ精彩のない声が聞こえてくる。
 フロントガラス越しにネオンの明るい夜空を見ながら、ひとり身同士、苦笑して話す。脇の歩道では、たくさんの恋人同士が手をつないで歩いている。しかし、男と男、あるいは女と女は、いまだに見かけない。司と南は三十年前からいるのに、まだ偏見されることが多いのを奏に聞いている。その偏見が子供たちにも飛び火しているのも。
 何でかな、と哀しくなる。きっと南は司に手作りのチョコを用意して、司は義理チョコは子供たちにくれてやってそれしか食べない。愛し合っているだけのふたりが、そのふたりの周囲が、なぜこんなにも傷つかなくてはならないのか。
 でも、あたしは──いや、響も奏も。築も授も。そんなふたりが大好きなのだ。あのふたりが、どんな愛より愛おしい。
 あたしはずっと、いつまでも、あのふたりの恋に恋をしている。

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