カラーサークル-21

水面で【3】

「築も授も元気だったよ」
「……そっか」
「築は司そっくりになったね。授のほうが、紫の血が出てるかな」
「そっか。授は、部活頑張ってるんだっけ」
「うん。推薦で高校進学するんだって」
「……すごい」
「ね。築はけっこうだらだら過ごしてるっぽい。あ、女たらしだね」
「まだ彼女決まらないの?」
「あたしも言った。『ろくな女がいない』そうで」
 あんなに私にべったりだった子は、今ではひとりの女の子に定着もできていないらしい。咲いながらも、何かショックだなあ、と思っていると、「授がね」と巴は水を飲んだ。
「築がいなくなってから言ってたけど。『にいちゃんはマザコンなんだと思う』って」
「え」
「築もひとりに落ち着きたいって気持ちはあるみたいなの。でも、女の子の理想が高くて、すぐ相手に幻滅する。それは、紫の影を探してるんじゃないかって」
「……私、そんないい母親じゃなかったよ」
「築にとっては、安心できたんだよ。紫は」
 ウェイトレスがアップルパイを持ってきた。りんごとカスタードがつまったそれをフォークを刺しこみながら、最後の挨拶のときの築を脳裏によみがえらせる。
 泣いていた。私についていくとまだ言い張っていた。
「いつも顰めっ面の父親が、南の前では態度違ったんだもの。幼心にはショックでしょ」
「……授は、きちんと分かってたみたい」
「授は鋭いみたいだしね」
「私は分からなかったし──築もそうなんだよねって、そんな話はした」
 おかあさんには、おとうさんが分からない。だからこういうことになった。
 別れ際、幼い築にそう言い聞かせた。できるなら理解したかった。司との別れに納得して、南くんとの仲を祝福して、築と授の母親としてせめてたまに会いたかった。でも私には、とてもじゃないけど、自分が利用されていたことも、夫が同性を選ぶことも、受け入れられなかった。
「今でも分からない?」
 巴は残り少なくなったカルボナーラをフォークですくう。
「……分かっても、何にもならないから」
「ずっと、築と授に会わないの? 司は無理することないけど。あのことに関して、あいつも悪かったし」
「もし私が告白とかしなかったら、」
「そしたら別の女とバカやってたよ、司は。その点については、紫は確かに利用されたんだと思う」
「……そうなのかな」
「振られたあとにも、強引に迫ってたとかじゃないでしょ」
 こくんとする。そう、卒業間近に司に告白して、振られて。卒業式に連絡先だけ交換して。スマホの番号が変わったというメールから、やりとりが始まって、会っているうちに『やっぱりつきあう?』と──
「紫はさ、悪いことなんてひとつもしてないの。そんなに自分を責めて、塞ぐことないんだよ。築と授に、会う権利だってあるんだから」
 巴は食べ終わったパスタ皿を脇にやる。私はシナモンの香るりんごを口にして、そう言ってもらっているのに自嘲をこぼす。
「築が、私にそんな理想を見てるなら、なおさら会えないよ。授だって、私よりよっぽど立派になってるみたいだし。私、きっとふたりをがっかりさせるよ」
「ふたりとも、紫の絶望感がひどかったのは分かってる歳だよ。もう、紫の中の築と授じゃないの」
 りんごとパイ生地を噛みしめる。また、被害妄想がちらつく。いい加減、巴も中継にされるのに疲れたのかもしれない。
 そうだ。そんなに築と授が気になるなら、「会わせて」と司に伝えるか、司が嫌ならここで巴に言ったっていい。そしたら、たぶんあの子たちに会えるし、巴の時間も煩わせない。
「紫が『女の子を大切にしなさい』って言うのが、築にも効くと思うしね」
「私なんか、いまさらじゃないかな」
「忘れてないよ、ふたりとも。築の行動もそうだし、授だって紫のこと忘れてない」
 動かすフォークを含むと、カスタードのバニラエッセンスが口の中に広がる。
「あたしも子供いるから分かるけどさ。『頑張ってるから、子供に会おう』じゃないの」
 巴を見る。巴は柔らかい笑みを作った。
「『子供に会えるから、頑張ろう』なんだよ。紫は、今のままじゃきっとなかなか変われないと思う。ひとりで変われるほど、強いって思う?」
 首を横に振る。「じゃあ」と巴は水を飲む。からん、と溶けた氷が冷たく響く。
「子供たちに会って、紫はそれから変わっていくんだと思う。そっちのほうが、自然なんだよ。変わってからじゃ、築と授に会いたい気持ちさえ変わってるかもしれない。たぶん、それが一番あの子たちを傷つけるよ」
 傷つける。築と授が傷つく。それだけは嫌だ。だったら、かあさん情けなくなったなと嫌われたほうがまだいい。
 そのとき巴のスマホが鳴った。液晶を見た巴は、「ごめん、出なきゃ」と断って席を立ち、仕事行くのかな、と私も急いでアップルパイを食べる。
 築と授に会う。考えてみても、いいのだろうか。そして巴の言う通り、あの子たちに会えば、私自身も変わっていけるのだろうか。
 別れてくれ。司に言われた日から、私はずっと最悪な気分の水面に浮かんで、自分の足で立つことも忘れた。この期に及んで、私は自分という重みくらい支えられるのだろうか。
 いや、そうならなければならないの分かっている。両親より先に死ぬことがない限り、どのみち私は自立しなくてはならない。あるいは、どうしてもひとりで生きられないというのなら、新しくパートナーを作る。
 巴が戻ってくる。やはり仕事の電話だったそうで、打ち合わせが入ったとのことだった。「悪い、ここおごるね」と巴は私のぶんの伝票まで取って行ってしまった。
 私の今日の仕事は、夕方から夜にかけてだ。やっぱり、クビを切られるんだろうなあと感じている。今は例の新人の子に手順を教えていて、教育係として残れているけれど。あの子が仕事を憶えたら、追い出される気配はしている。
 家で時間余るけどいいか、と会計も済ませてあるのに長居もできずにファミレスを出た。地下だから吹きつける風はなくても、店内が暖房で癒されていたのを思い知る。人が行き交う中に混じって、改札へと早足で向かう。
 この道順は、高校から帰り道と同じだから、空いた電車でシートに腰かけていても、あの頃がよみがえる。
 当時、まだあのチェーンのファミレスはなくて、喫茶店だった。司と南くんと巴と私で、そこでお茶したこともある。南くんの前では司が咲うと、授が驚いて言っていた。築はそんなもの気持ち悪いと言っていて、私も想像ができないと思ったけど──よく考えれば、それは私も知っていた。南くんを優しく見つめるときの司の視線の温もりが好きだった。南くんに向けられているその目に、部外者の私が恋をしてしまった。
 もし、南くんが女の子だったら、私も察して恋なんてしなかったかもしれない。今思い返すと、司の目は明らかに南くんを愛おしんでいた。なのにそれに気づけなかったのは、私が男同士なんて念頭に置けなかったからだろう。
 あのふたり、男と女だったらよかったのに。そしたら誰も傷つかなかったのに。ただそうであれば、私の子供も、巴の子供も、いなかったけれど。代わりに司と南くんのあいだに子供だって生まれていた。そっちのほうが、きっと自然で幸せだった。
 築と授のことは、愛している。でも、あの子たちの存在をそんなふうに不自然だと位置づける私は、母親失格だ。自分の存在も肯定できない。司に愛されなかった自分を愛せない。私が悪かったのではないと巴は言った。確かに、司は南くんを愛していただけだ。私が悪くて、司の愛が冷めたわけではなくても──
 分からない。誰かに愛されるという感覚が、麻痺してしまった。だから、築と授のことも、嫌われる心配ばかりで会ってあげられない。私がぐずぐずしていたら、ふたりはいよいよ「自分は母親に見捨てられた」と傷つく。だとしたら、会ってあげたいけど。
 頭の中がゆらゆらする。はっきりしない濁った水面で、私はただよってただ沖へと流れていく。考えるほど陸は遠ざかっていくのに、波に流されるままいっそ沈んでしまえたらなんて考えて、どうしても次の陸地に踏み出すことができない。

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