息もできない【2】
美由くんも、確かに男だけど。あたしが苦手な男臭さはない。いやらしさも、驕った感じも、かといって女々しさもない。どちらかといえば、マシなタイプだ。
美由くんは、有田さんみたいに教室を遊離しているわけではないし、勇気さえ持てれば話せなくもないのかもしれない。でも、どうしても人目がある。一緒になってイジメられてもいい、とまでは、さすがに思えない。そんな生半可な自分が嫌だけど。普通に接しあっているクラスメイトの目は、美由くんだけにぞっとするほど冷ややかだ。まるで黴菌扱いでなるべく近寄らず、嫌悪を剥き出しにしている。進んであんな態度を取られるようになる度胸は持てない。
美由くんはそういうことにいっさい動じず、露骨なことにも些細なことにも無表情だ。そして、クラスどころか学年随一の優秀な成績を残している。うわさによると、すでにこのあたりでは一番の進学校への受験も決まっているらしい。
そのまま、一学期も夏休みも終わってしまった。あたしは近場の女子高を志望したり、それなりに進学の準備はしていても、卒業で有田さんと完全に別たれることには何もできずにいた。いきなり連絡先訊いても怪しいし、というか話しかける隙がないし、卒業までこの中学にいるのかも分からない。この片想い詰んだ、と思っていた肌寒くなってきた十一月のことだった。
「明日の日直は、美由くんと志井さんです」
帰りのホームルーム、先生の挨拶に移る前に、その日の日直が翌日の日直の名前を点呼する。何があって休むか分からないのに、何だか休むなという脅迫みたいであたしは好きじゃない。が、その日は名前を呼ばれてはっとした。
美由くんと志井さん。美由くんとあたしが日直。
教室にどんよりとあたしへの同情が流れて、それを気まずく感じながら美由くんを見た。美由くんもあたしを見て、つんと無視されるかと思ったら、律儀に小さく会釈された。話……せる? もしかして、話せる? 美由くんと、明日、話せるかもしれない!
翌日、あたしは早めに学校に着いた。教室に踏みこむと、まだクラスメイトもまばらだった。その中にはいつもあたしより先に来ている美由くんのすがたもあって、席にかばんを置いたあと、あたしは迷った挙句、美由くんの席に歩み寄った。
「あ、あの──おはよう」
本を読んでいた美由くんは、あたしに顔を上げた。無表情だけど、美由くんはすごく綺麗な顔をしている。
「おはよう」
声変わりはしている、物柔らかな落ち着いた声が返ってくる。
「今日は、その、日直だよね」
「そうだね」
「あ、あたし……その、抜けてるから、迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね」
美由くんはあたしを見つめて、思いのほかくすりと咲った。
「僕のほうがきっと志井さんに迷惑かけるから」
「そ、そんなことないでしょ。美由くんなら」
「僕とペアなんて、それだけで志井さんまで悪く言われるかもしれない。なるべくふたりにならないように、仕事は僕がひとりでやるから」
それでは話す機会がない。でも、ここで「大丈夫、一緒に頑張ろう」とか言ったら、ただでさえちくちく来ている視線があたしまで飲みこむ。
「志井さん」
「は、はい?」
「気にしてくれてありがとう」
あたしは美由くんを見た。美由くんは本に目を落とした。どんなことをされてもそっけなくて、この人には感情がないんじゃないかとも思っていた。違うのだろうか。本当はすごく傷ついていて、すごい努力で平気な顔を作っているのだろうか。
「美由くん」
美由くんはもう一度顔を上げてくる。周囲からの目を感じる。でも、あたしは──
「ちゃんと、ふたりで仕事しよう」
「え」
「あたしは気にしないから。迷惑とかないし。だから、今日一日よろしくっ」
美由くんがきょとんとした表情を浮かべて、あたしは言うだけ言ったら自分の席に戻った。教室にいる子たちがざわめいている。
あたしは何にもおかしいことは言ってない。いや、たかが日直のペアで大げさだったか。だけど、美由くんならあたしのことを、誰にも言えないあたしのことを、聞いてくれるかもしれない。これ以上、ひとりぼっちで悩んでいたら、思考回路が壊れてしまいそうだ。
朝のホームルーム、日誌、授業の号令、黒板の掃除。一応ふたりでやっていても、なかなか話しこむ機会はなかった。ノートを運ぶとか片づけとか、漫画みたいな日直の仕事があればいいのに、そう都合のいいことは起きない。結局、そのまま放課後になってしまって、「全部書いておいたから」と美由くんは日誌をあたしに渡してきた。
「あ……そっか。ありがとう」
日誌で放課後の教室にふたりになるのが、最後のチャンスだったのに。がっくり息をついていると、美由くんは淡々と言う。
「戸締まりは僕がやっておくよ。志井さんはもう──」
がばっと顔を上げた。
「あたしがやる!」
「え」
「戸締まりやるよ、大丈夫、別にそんな遅くならないでしょ」
「そ、そう……? あ、でも、すぐ暗くなるようになったけど」
「平気、だからっ──」
「あ、鍵は僕が預かってたな。これ」
美由くんは鍵を差し出した。え、と思いながらも反射的に受け取ると、「じゃあ、気をつけて」と美由くんは自分の席に荷物を取りにいって、そのまま教室を出ていった。あたしはぽかんとしていて、はっとしたときには美由くんはとっくに帰ってしまっていた。
あたしは変な声を上げて、残っているクラスメイトに怪訝そうな目で見られた。何。何これ。せっかく、美由くんと話す機会だったのに。あたしのこと、誰かに打ち明けられるかもしれなかったのに。華麗にチャンスは終了してしまった。
思い切れなかった自分にうんざりして、どさっと席に腰をおろした。ため息をついて日誌を見た。そしてはっと目をしばたいた。日誌の表紙に無機質な白いメモ用紙がテープで貼られていた。すぐ剥がせたそれを見て、あたしは席を立った。
『今日はありがとう。
志井さんがよければ、また話せたらいいね。』
まだ、だらだらと残っていそうなクラスメイトに鍵は頼んだ。あたしは教室を出た。階段を降りながらきょろきょろするけど、笑いさざめく制服の中に、美由くんのすがたは見当たらない。靴箱まで来てもあの細身の学ランすがたはなく、やっぱ帰ったか、と首を垂れながら、日誌を持ったままうろつくわけにもいかず、仕方なく職員室に行った。
「失礼しまーす」
そう言って職員室に踏みこみ、担任のすがたを探す。先生たちの中で、何人か生徒もいる。
「桃、今日も家来る?」
すれちがった男子生徒の言葉が聞こえて、職員室で何の話してんだ、と思わず振り返ってしまった。男子生徒と女子生徒が連れ立って教室を出ようとしている。訊かれた女子生徒はうなずきながらも、少し心配そうに答えた。
「私、ほんとに美由くんの邪魔じゃないかな」
え。
「復習できてちょうどいいみたいなこと言ってたぞ」
「だったらいいけど」
「別にあいつのレベルには合わせなくていいんだからな。ちょっとかじればいいんだよ」
「うん。でも、美由くんってほんと頭いい──」
「あ、あのっ」
思わず声を発していたあたしに、職員室のドアを開けていたふたりが振り返ってくる。女子生徒はウェーヴの髪を伸ばしたかわいい子で、男子生徒はほがらかそうな雰囲気だけどわりと筋肉質だ。ふたりは顔を合わせ、もう一度あたしを見た。
【第二十四章へ】
