痣【1】
「ホモに育てられてる奴なんか、どうせ負け犬にしかなれないんだよ」
昔から、周囲の視線の感触が肌に合わないとは感じていた。まるで異臭を感じたように眉を顰め、避けて、ひそひそと話しながらすれちがっていく。どうしたのと訊こうとしたら、邪慳に触れはらわれたり、強く押しのけられたりする。
いつしか孤立していた自分にとまどって、教室で泣き出してしまったことがある。すると、「ほらやっぱり」という声がして、そんな言葉が続いた。
「だよなー。男が泣くとかオカマじゃん」
「人間のクズにしかなれないんだよ」
「ホモになる前に死ねばいいのに」
涙を飲むのも忘れて顔を上げた。喉で呼吸が震えていた。クラスメイトたちの視線が集中していて、いくら見まわしても同じ眼しかなかった。
『こいつはろくな人間にならない』
何……? 何で。ホモに育てられる。南と司? どうして。僕はあんなに寄り添いあって幸せそうなふたりを知らない。あのふたりに育てられているのは、僕の自慢なのに。あのふたりが愛しあっているのは、僕の誇りなのに。
負け犬。人間のクズ。死ねばいい。
そんなの──お前たちのほうじゃないか。
それから、勉強に身を入れて、成績をどんどん上げた。テレビを見るより、本を読んで知識を積んだ。泣かないために咲わなくなった。僕は人間のクズにはならない。だらしなく育ったら、あいつらが正しくなってしまう。僕は立派な人間になって、南と司の絆が生む優しさを証明する。
「俺と南は、もともとはすごく仲のいい親友だったんだ」
中学校に上がってすぐ、夕食後に食卓に残された。司の次男である授も一緒だった。「そろそろ話しておいたほうがいいと思って」と南が前置きして、司がそう切り出した。
「お前たちには、いまいち釈然としないだろ。俺と南に、女とのあいだに子供がいるのとか」
僕と授は目を交わし、「まあそうですね」と授が言った。
「でも、今幸せならいんじゃない」
「僕もそう思う」
南と司は目を交わし、おかしそうに笑う。
「話終わっちゃったね」
「築のときは、そう簡単に分かってもらえなかったな」
「にいちゃんは知ってんの?」
「築、だいぶ柔らかくなったでしょ。全部話してからが切っかけなんだよね」
「奏は知らないの?」
僕が訊くと、「うん」と南がうなずく。
「あの子も中学生になったらね」
「十三歳未満お断りか」
「それ、いやらしく聞こえるだろうが」
「んー、まあ聞いといたほうがいいなら聞きますよ」
「親友ってことは、同性愛者として知り合ったわけではないってこと?」
僕のその質問から、ふたりはゆっくりと今までのことを語ってくれた。小学校で知り合って、とても仲がよかったこと。お互いがお互いを意識しているなんて考えもしなかったこと。司が逃げるように女の子とつきあったこと。やっと気持ちが通じて、高校時代を過ごしたこと。大学で言えない仲に微妙によそよそしくなっていったこと。司が築にいさんと授のおかあさんとつきあいを持ったことで、関係が壊れたこと。数年会うことすらなく過ごしたこと。南が倒れたことで病院で再会して──
「このへんからは、お前たち自身にも記憶あるか?」
「南が倒れたとか知らん」
「僕は、憶えてる。そのとき初めて司に会ったよね」
「そう」と司はちょっと笑った。
「『司のおじちゃん』って呼ばれたなー」
授が噴き出して、「初対面だったし」と僕は気まずく頬を染める。
「俺は嬉しかったぜ、あのとき響が言ってくれたこと。『おとうさんは、おかあさんより司のおじちゃんが好きなんだ』って」
「今思うと、かあさんにひどかったかもしれない」
「大丈夫だよ。巴は気にしてない」
「響がそう言ってくれたから、俺も病室に入る勇気を持てたんだ。で、そう、響と病室入ったんだよな」
「でも、南はまだ眠ってた気がする。そのあいだに僕も寝たから、どうやって仲直りしたのかは知らない」
「その場であれな感じですか」
「あれって何だよ。俺はとにかく謝ってて、南は泣いてたな」
「司も泣いてたよ。『もうどう見られても守るから、そばにいてくれ』って言ってくれた」
南が司に微笑み、司は照れながらも咲い返す。そして、僕たちを見て「全部俺が悪かったんだ」とゆっくり吐き出した。
「偏見されるのが怖かった。南を守れなかった。巴には引っぱたかれた。築と授のかあさんもな、俺に振りまわされただけで何も悪くないんだ」
「かあさんが司に強引に迫ったのかなとかは考えた」
「いや、そんなことなかったよ。俺が逃げただけだ。ひどかったと思ってる」
「何でかあさんだったの? 適当?」
「一度告白されてたのは切っかけかもな。でも、きっと俺はその告白がなくても、南から誰かに逃げてたと思う」
「今以上に、同性となんて理解がなかったからね。僕も強引に司を責めにいくことができなかった」
「南は司と離れて、少しかあさんを好きになったりしたの?」
「いや、巴は全部友情で僕につきあってくれた。巴も僕に気持ちはなかったと思うよ。僕も巴にずいぶんひどいことをしたね」
「巴のおかげだよな。今、こうやって落ち着いて暮らせてるのも。巴は誰より俺たちが一緒にいることを望んでくれた」
「うん。一度は女の人と子供まで設けたのに、同性を選んだ。親にも僕たちは突き放されてる。それでも、巴は僕と司を支えてくれるんだ」
「巴さん惚れるなー」と授はひとりうなずき、僕はかなり幼い頃に会ったきりの祖父母を思い出した。父方は、南の言う通りこの家庭を拒絶している。母方も、離婚後はいい顔をしないまま会わなくなった。そう、みんな、あの眼をしていたのを憶えている。クラスメイトが次第に強く覚えていくあの嫌悪の滲んだ眼だ。
もし、南と司みたいな人たちがいるのなら。僕はあの眼をしない人間になりたい。かあさんのように、そのふたりの絆を支えられる人間になりたい。
そんな想いから、同性パートナーと暮らし、生きていくのを法的に認める力になるために弁護士になりたいと思うようになった。弟の奏にそっとその夢を打ち明けてみると、「かっこいいと思う!」と笑顔で言ってくれた。
「響くん、もっとクールだと思ってたな」
「え」
「別に偏見しないけど、特に応援しないような感じ」
「そう、かな」
「あ、悪く聞こえたらごめんね。南くんと司くんを理解してるのは分かってるよ、そんなふうに行動にしたいと思うとは思わなかった」
奏が泊まっている夜で、僕はベッドサイドに座り、奏は床に引いたふとんをごろごろしていた。
「奏は……」
「ん」
「奏は、……大丈夫?」
「え。何が」
「………、奏は大丈夫だよね。僕は何もできないから」
奏は僕を見上げて首をかしげた。僕は力なくかすかに咲った。
「何もできないから、何かできるようになりたいんだ。みんなが、南と司を悪く言って、それを上手に否定して理解してもらうようにすることができない」
「悪く、って……え、響くん何か言われてるの?」
僕はうつむいた。奏は起き上がり、心配そうに僕を覗きこんでくる。
「南くんと司くんのこと──」
「ホモに育てられてるから、どうせ人間のクズになるって」
「何それっ、そんなん言い返していいよっ」
「言い返したいけど。それが、僕はうまくできなくて。怖いわけじゃないけど、きっと、いくら言っても分かってもらえないから」
「………、まあ、バカだろうからね」
「南と司に申し訳なくて。ふたりを認めさせたいのに、どうしたらいいのか分からない。でも、だから僕は勉強するんだ。絶対、人間のクズになったりしない。南と司に育てられて、僕は一人前の大人になるんだ。それでふたりを証明したい」
「響くん……」
「そして、弁護士になって、もっとたくさんの“ふたり”を増やして、南と司が普通になるくらい、同性パートナーを当たり前にしたいんだ。誰にも南と司を悪く言われたくない。だって、あんなに……想い合ってるのに」
声が涙で震えかけた。奏は立ち上がって、僕の隣に腰掛けた。
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