痣【2】
「響くんは、でっかいね」
「えっ」
「神経質に勉強にかじりついてるわけじゃないんだね。うん、そうなればいいよね。僕は響くんを応援するよ」
「奏……」
「僕はまだ、自分が何ができるようになるのか分からないけど。響くんはそれでいいと思う。すごいよ、めちゃくちゃかっこいい。ただ、ね」
「……うん」
「南くんと司くんを悪く言われてつらい気持ちは、僕も……あるよ。だから、ひとりで抱えこまないでね」
僕は奏を見つめて、奏に柔らかに微笑んでくれた。
「分かんない奴に説明できないのも、悪いことじゃない。悪いのは頭が悪い奴らなんだ。それは南くんも司くんも分かってると思う。だからね、ただ、僕たちは南くんと司くんを大好きでいようね」
「……ん」
「きっと、南くんと司くんにとって、それが一番幸せだよ。響くんがそんなふうに想ってる気持ちが、きっとふたりはどんなうまいこと言われるより嬉しいよ」
にっこりとした奏を見て、僕はほっとしながらうなずいた。僕のほうがよほど子供のようだ。「頑張って」と奏は力強く励ましてくれて、僕は改めて夢を実現させようと思った。
勉強する。あのふたりに「恵まれている」ことを証明する。僕は不器用で、率直に南と司に愛情を表せない。だけど、ちゃんとあのふたりをかけがえなく思っている。それを、夢を叶えることで伝えるのだ。
中学時代、僕は図書館で法学の本も読みながら、成績もトップでいつづけた。それでもやっぱり、周りは僕を認めず、勉強が秀ででも「必死すぎる」とか「機械みたい」と言われた。中学三年生になって、進路を尋ねられたら、この圏ではトップクラスの進学校を迷わず志望した。担任の先生は深く話に乗ってくることもなく、「成績を維持をすれば大丈夫だろう」と言って面談を切り上げた。先生も僕の親に理解がないタイプなのは感じていた。だから余計に、必ず合格するんだと僕は勉強に打ちこんだ。
そんなふうに過ごしていたら、あっという間に晩秋にさしかかっていた。暗くなるのが早くなった。それに、家には授の彼女の時野さんも来ているだろう。授は部活の推薦で高校が決まっている。その同じ高校に時野さんが合格できるよう、僕は一緒に勉強するのを授に頼まれている。
早く帰らなきゃ、と本を選ぶのを切り上げて図書館を出て、横断歩道で信号待ちをしていた。
今日は、ちょっと不思議な日だった。日直だったのだけど、ペアの女の子が朝からいきなり話しかけてきて、「よろしく」と挨拶してきたのだ。僕と組むことになると、みんないつも顔を顰めて目をそらすのに。
何だか、そんなふうに気を遣われると、こちらも淡々とできなかった。みんなの視線の中で、僕に声をかけてくれた。その勇気だけで嬉しかった。だから、なるべく進んで日直の仕事をした。
すると、志井さんという彼女は何度も物言いたげにちらちら視線を投げかけてきた。嫌味を言いたいわけではなさそうなのは、その悩むような目で分かった。僕も志井さんにはお礼は言おうと、帰り際、渡した日誌の表紙にメモを添えておいた。
『今日はありがとう。
志井さんがよければ、また話せたらいいね。』
でも、話す機会なんてないと思っていた。僕から話しかけることはない。気遣ってくれたからこそ、むしろ志井さんは巻きこまないようにしようと思った。本当は、何を僕に言いたかったのか気になったけど。そんなことを思っていたら、ふと車道の向こう側に同じ中学のセーラー服のすがたを見つけた。
駅前のマンションに住んでいる子もいるから、別にめずらしくないのに、その子の顔を見て目を開いた。ヘアピンのささったショートボブの女の子──志井さんだった。信号が変わると、志井さんは僕に駆け寄ってきた。ずいぶん走ってきたみたいで、とまどいながら大丈夫かどうかを訊いた。志井さんはこちらを見上げて、僕と話がしたいと言った。
とりあえず、外では寒くて暗い。まだ閉館していない図書館に引き返し、話ができるフリースペースで並んで座った。志井さんが落ち着くよう、自販機で飲み物くらい買いたかったけど、手持ちがなかった。頭がぼんやりするほどの暖房で指先は溶けていった。
そこで、志井さんは同性である女の子が好きなこと、僕なら偏見しないと思ってくれたことを打ち明けてきた。
志井さんが失恋を決めこんでいるのが、思わず南と司の別れとダブった。確かに、南と司のように実は想い合っているなんて、そんな確率は低いものだけど。無理に忘れることはないと言うと、志井さんはちょっと咲って、たぶん卒業までは好きだと言い直した。
志井さんの好きな人は、去年のクラスメイトで転校生だったらしい。卒業前後に、元の町に帰っていくことも分かっているという。その人には、その以前の町に彼氏もいるということだった。
「美由くんのおとうさんたちは、かっこいいね」
言われてみたかったけど、言われることのなかった言葉を志井さんは言ってくれた。
「好きな人と一緒に暮らして、自分たちの幸せを大切にできて、すごく羨ましいな。これまでに簡単にいかなかったこともあるんだろうなとは思うけど。それでも、結果的には自分たちを信じたから、美由くんたちだっているんだろうし」
志井さんは僕を見て、温かく咲った。志井さんの恋が実らないのは、相手に彼氏もいて仕方ないのかもしれない。でも、その気持ちそのものを恐らく周囲が認めず、もっと仲のいい友達には相談したりはできないのが、僕まで悔しかった。
「あたしもいつか、そんな勇気を持てる人と出逢えるのかな。何言われても負けないくらい好きな人と」
その日、帰宅すると授と時野さんが待っていた。そういえば、僕が図書館にいるのを志井さんに偶然教えたのはこのふたりらしかった。志井さんも心配していたけど、案の定ふたりは僕が告白を受けたと思っているようだ。「少し相談されただけだよ」とだけ言って僕はいったん部屋で制服を着替えて、勉強道具を抱えて部屋を出た。すると、ちょうど階段をのぼってくる築にいさんと鉢合わせた。
「授と女がおもしろくなさそうにしてたぜ」
「おもしろくなくても、ほんとに相談されただけだから」
「お前から、何か相談されるほど、仲がいい奴の話って初めて聞いたな」
「僕もにいさんの何か相談するような親しい友達って、聞いたことがない」
にいさんは舌打ちして、司によく似た野性的な目で僕に眇目をする。僕は肩をすくめた。
「仲がいいかは分からなくても、友達だとかえって言いづらいことみたいだったから」
「ふうん。ま、お前口堅そうだけどな。学校、マシになったってことか」
「相変わらずだよ。楽しくない」
家の中では、にいさんは僕の学校生活に無関心なことになっているけれど、同じ家庭で耳に入らないわけもない。すごく心配するわけではなくとも、気にはかけてくれている。
「まあ、まだ仕方ねえんだろうけどな。今は俺も司たちのこと分かってるつもりだけど、分からない気持ちも知ってる」
「……うん」
「分からないっつうか、分かりたくないんだよな。感染するような気さえしてた。分かんねえって奴は、たぶん、自分を守ってるんだ」
「偏見ではないってこと?」
「まじめに偏見してる奴はバカだろ。意外とそういうバカは少ない。でも、肯定したら自分まで偏見されるって、それが怖い奴はすげえ多い。俺も、ある意味そうだしな」
「ある意味」
「俺は司と南と肯定したら、かあさんを否定しちまうような気がしてた」
「にいさんは、おかあさんと仲良かったんだよね」
「まあな。授はマザコンとか言ってんだろ?」
「知ってるんだ」と僕はつい笑ってしまう。
【第二十七章へ】
