Koromo Tsukinoha Novels
「私があんたの歳の頃は、もう結婚してて当たり前で、それが幸せってもんだったのにねえ」
二十代でいられるのも今夜まで。そんな二十九歳の夏の夜、仕事から実家に帰宅して、ちょうどできあがったところだった夕食の冷やし中華をすすっていると、テーブルの正面に腰をおろしたかあさんが、そんなことを言った。
私はごまだれが絡みつく麺をもぐもぐとしながら、無言でかあさんに目だけ向けた。かあさんの手元に置かれているのは、麦茶のグラスだけだ。
夕食はまだ帰っていないとうさんと食べるのだろう。別に両親は仲良し夫婦というわけではないけども、昔から食事はなるべく一緒に食べている。
私は錦糸たまごや細切りのきゅうり、ハムもトマトもこんもり盛られた冷やし中華に視線を戻した。
「もう三十になるんだから、一度くらい彼氏を連れてきてほしいわよ。学生ならまだしも、今連れてきたら、おとうさんも反対なんてしないでしょうし」
かあさんはため息をついて、からんと氷が溶けた麦茶を飲む。
「そういう人がいないんなら、おかあさんのクラブの友達に訊いてみてもいいのよ? というか、娘がいるんですって話からどうしても言われるのよ、『じゃあお孫さんも?』って」
黙って冷やし中華の付け合わせの生春巻きを頬張り、野菜とサーモンを噛む。
そんな私にかあさんはむすっとした顔になり、「ねえ」とグラスを置いた。
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
「将来のこと、考えてる?」
「私は仕事があるから、別に結婚しなくても──」
「そんなことも言えなくなるわよ。同期の子のご祝儀だって言われて、いくら貸してあげてると思ってるの」
「それはちょっと続きすぎたから。ちゃんと返すよ」
「返さなくていいから、あんたも旦那になる人を連れてきなさい。おかあさん、それまで気が気じゃないわ」
そんなことを言われても、私はかあさんのために結婚なんてしないし。もっと言えば、かあさんの見栄のためにも結婚なんてしないし。ひとり娘だからって、親に孫を抱かせてやる義務があるとも思わないし。
「昔はもっとちゃんとしてたわよ。娘が三十にもなるなら、周りが世話を焼いて結婚させてくれたものだわ」
「かあさんは、そんなふうに結婚して幸せだったの?」
「そりゃあ、これで子供を生むこともできるし、将来も安定したってほっとしたわよ」
「ほっとするのと幸せなのは違うでしょ」
「安心できるってことは幸せなことよ」
「そうかなあ」
「とにかく、早くいい人を連れてきなさい。明日はもうご馳走なんて用意しませんからね」
「別に祝ってくれてもいいじゃない」
「おかあさんたちが甘やかすから、あんたも焦らないんでしょう」
……家がそうなら、そうでいいけど。いつものお店に行けば、みんながお祝いしてくれると思う。
私はそのあと、何も言わずに夕食を食べ、かあさんはリビングでストレッチ運動を始めた。さっき言っていた“クラブ”もフィットネスクラブのことだ。ご近所づきあいは活発ではないものの、クラブの交友関係ではお茶に行ったりして、楽しそうにはしている。
にしても、かあさんってめんどくさい。三十路前に結婚とか。将来の安定とか。古いって分かんないのかな。そういうのがよかったと言われる時代は、とっくに終わっている。
ただでさえ、私は刹那主義だと思うのだ。過去を懐かしむこともなく、将来には安心も期待もない。肝心なのは今このときだ。明日事故で死ぬかもしれないのに、未来のことなど考えない。そして、過ぎたことはもう手は届かないから気にしない。
学生の頃、すごく好きだった女の子がいたこともどうでもいい。マイノリティはこれから生きやすくなると未来志向にもならない。セクを押し殺して生きている私にとって、一番大切なのは、いつものビアンバーに行けば心が楽になることだ。
翌日は金曜日で、ありがたいことに終電までお店でぐだぐだできた。今日が私の誕生日だと聞いたママは、スタッフの男の子であるロンくんにケーキを買いにいかせた。ロンくんが買ってきたのはナパージュで彩られたフルーツケーキで、「蝋燭立つかしら」とママは苦笑いする。
「どっちみち、三十本も立てたらつぶれちゃいそう」
「そうね。ロン、このまま切り分けてちょうだい」
「はい」とうなずいたロンくんは、器用にケーキを八つ切りにした。ロンくんは同棲している彼氏によく料理を作ってあげるそうだから、包丁の使い方もうまい。
「お誕生日おめでとうございます」
白のスクエアプレートに載ったケーキを、ロンくんはカウンターにいる私の前に置いてくれる。
ママが「今日はこの子の誕生日だから、ドリンクおごってあげてねー」と店内に声をかけると、もちろん特に反応しない客もいるけど、「マジかー!」「おめでとー!」と振り向いてくれる顔見知りの常連もいる。
「いくつになったの?」
「三十になったー」
「二十代終わったかあああ」
「三十代も若いわよ」
ママの言葉に「僕もそう思います」とロンくんが言うと、「二十歳に言われたくねえーっ」と一斉に女の子たちがからから笑う。
「ロンくん二十歳だっけ?」
「はい。こないだやっとパートナーシップ証明書もらえました」
「ロンは中学生のときから今の彼だから、長かったでしょう」
「そうですね。しかも、あいつノンケだから、いつ女にふらつくかって怖かったです」
常連の子たちがわいわい騒いで、私へのドリンク代も入れてくれたあと、しっとりしたお味のケーキを味わう私は、てきぱきと洗い物をこなすロンくんを見る。
「彼くん、ノンケなんだね。よく告ったなあ」
「小六のときにノリでセフレになって、そこからです」
「小学生……。今はそうなのか」
「親とかさっさと感づいちゃって、逆に楽でしたよ」
「怒られなかった?」
「怒りづらいじゃないですか。今日、遊びに来た子のちんこしゃぶってたでしょとか」
「確かに」
「この子はそうなんだなあって、そっと認めてくれたんでありがたかったですよ。あいつの親も、似たような感じで僕を受け入れてくれました」
「いいなあ。うちの親は絶対ダメ。無理。カムなんて無しだわ」
言いながら、私は甘い生クリームをすくって口の中で蕩かす。
「親のことはずっと騙していくんだろうなあ。それはいいんだけど、結婚しろとか子供作れとかはやめてほしい。てか、その相手を男しか前提にしてないからしんどい」
「まあ、カミングアウトすることが、必ずしも正義ってわけじゃないわよ」
そう言ったママが、あらゆるボトルが色鮮やかな棚から一本取り出し、誰かの注文らしきお酒を作りはじめる。
「オープンもクローズも自由。異性も同性も、中性だってあるみたいにね。本人が心地よいことがベストなのよ」
「今はそういう時代だってことくらい、分かってほしいですけどね。三十になるなら結婚してるのが幸せなんだ、自分たちの頃はそうだった、って言われつづけるのはメンタルきつい」
「過去に呪われてるのね。歳を取ると、誰でもかかりやすくなる呪いだわ」
「ママも『昔はよかった』とかあるんですか?」
ロンくんが問うと、「さあ、どうかしらね」とママは咲ってカクテルを仕上げ、ほかの客の話相手に戻った。私とロンくんは顔を見合わせ、「何かありそう」「ありますね」と勝手なことを言って笑う。
昔はよかった。私はまだまだ三十歳。そんなことは言わない。
でも、歳を取ったらそう思うときも来るのかな。男と結婚して、子供を生み育てることはないと思う。それでも、かあさんの口うるさい懐古主義を、少しは理解できるようになるのかもしれない。
今は今しか見ていない。かわいい女の子が顔を覗かせないかな、なんて扉のほうをちらちら見ている。
もし本当に今夜、そういう子と出逢って恋に落ちたら、思うのかな?
あの夜は本当に素敵だったなあ──
……なんて、まあ現実はそうもいかなくて、ひとりでケーキをつついているくらいだから、私が過去に呪われるのはずっと先のことみたいだ。
FIN