カラーサークル-31

紫は白に【1】

 世界で一番大好きな人は、よく紫の服を着ていた。名前も“紫”といった。ずっとそばにいたかった。だけどそれは叶わず、もう十年くらい会っていないままだ。
 おろしたジッパーから俺を引き出すと、彼女はそのまま口にふくんだ。口でされるほうが好きだ。ベッドサイドの俺はシーツに後ろ手をついて、ピンクの照明を見上げて、脚のあいだでひざまずく彼女の髪を撫でる。熱い舌がまとわりつき、神経がそこに敏感に集まって快感が脈打つ。
「水瀬……気持ちいい?」
 上目遣いで訊かれると、俺は座り直して「もっと口開けろ」と髪をつかむ。彼女は素直に俺をもっと深く飲みこみ、じわじわと快感の糸が見えてくる。あとはそれをたぐって、たぐるまま感じるところをしゃぶらせて──息を荒げながらうめき、彼女の口に最後まで吐き出した。
「私も、いい?」
「ゴムつけろよ」
 彼女は口元にこぼれた白濁を舐めながら、まだ硬さを残す俺にベッドスタンドにあるゴムをかぶせて、またがって腰を沈めてきた。そして俺の首にしがみつき、弱く喘ぎながら愛液と振動でつながりをなじませる。俺も彼女の腰を抱きながら、つかんだ乳房の先端を含んで舌で転がした。動きに合わせて、耳元に甘い啼き声がしたたっていくのがいやらしい。
 昨日、高校二年生が終わった。この彼女は、クラスが変わる前には関係したかった女で、今までもときどき色目は使われていたので、誘ったらすぐにつきあうことになった。
 その三日前に、念のため二週間目だった彼女と別れておいてよかった。俺は女をたらすけど、またぐことはしない。まあ中には未練を持たれたまま次に行くから、面倒が多いのは変わりないけれど。何人の女とこういうことをしたかは、憶えていない。
 事が終わると、彼女はシャワーに行って、俺は服だけ整えてベッドに仰向けになった。まあ、悪くなかったけど。わりと普通だったな、といつもながら思った。
 よかった、なんて心から感じた女には逢ったことがない。逢っていれば俺はその女を手放していないだろう。それが女だとは感じている。変な言い方かもしれないが。女の軆に違和感はないし、最中もその柔らかさをむさぼっている。でも──
 たぶん、あの経験が俺の沸点になっているのだ。何であんなのが、と悔しい。でも、やっぱり、今でもたまにやったとき、そのへんの女の生身より感じる。
 中学二年生の夏休み、初めて友達の部屋でAVを見た。女子高生ものだった。揺れて潤む目、汗ばむふっくらした肌、淫らにあふれる喘ぎ。その場では、やばいとか何とかみんな冷静ぶって意見を述べたりしていたが、あれは全員、帰宅したらまずトイレか部屋にこもっただろう。俺もその通りで、二階のトイレで指が粘つく濃いものが出たので、一階に降りて手を洗った。何か飲もう、とキッチンに行くためリビングを通ると、寝息が聞こえた。
 当時八歳の奏がガキらしくお昼寝中だったのはさておき、そのかたわらで奏に寄り添っていたらしい、幼なじみの雪まで寝ていた。クーラーのついていない蒸したリビングで、キャミソールとホットパンツという、さっきAVを初鑑賞した男にはよからぬすがたをしていた。
「……こんなん女じゃねえし」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいて、麦茶を二杯飲んだ。部屋に戻るため、またリビングを通りかかった。雪はいつも姐御肌で俺の弟たちをかわいがっているが、俺のことになると手厳しい。俺は雪のまくらもとにしゃがみ、伏せられた睫毛や胸のふくらみ、投げられた生足を目でなぞった。
 こいつも今女子高生なんだよな、とか思った。思ってしまうと、どうしてもさっきのAVがちらついた。澄ましたような瞳があんなふうに感じて濡れたら。なめらかな肌が桃に色づいたら。俺をしかりつけてばかりくる声が甘く蕩けたら──
「ん……」
 俺はびくりと雪の顔を見た。目が合った。雪は口を半開きにして、ぼうっとした声で言った。
「築……?」
「なっ……、何でもねえよっ」
 何も訊かれていないのに俺は立ち上がり、雪の顔をもう見れずに部屋に駆け戻った。床でごろごろ漫画を読んでいた同じ部屋である小六の授が、「うおっ」と顔を上げた。
 俺は授を無視してベッドにもぐりこみ、いつもじろりと睨んでくるばかりの雪の、あの無防備な顔を思い出した。どうもその顔は、AV女優の快感に飲まれた惚けた顔にダブった。やばい、ダメだ、と思っても、中二男子の性欲にその生々しさは耐えがたいものだった。
 雪は幼なじみだけど、ぜんぜんご近所じゃない。普段は遠くの町に暮らしていて、盆と正月だけ隣に帰省してくる。雪が帰る日は、俺は何だかおとなしくなる。遠ざかる背中は好きじゃない。紫色のあの人を思い出す。その想いが強くなったとき、俺はよく雪に──
 そう、そんなとき、俺は雪に普通に抱きついたりしていた。手を握ったこともある。何なんだよ、とうめき声がもれる。今までの俺、何なんだよ。「にいちゃん?」という授の声には「るせえっ」とか言いながら──そう、その夏から俺は事実をかきけすように、女をたらすようになったのだ。
 この歳にしては、けっこう女を抱いたと思う。でも、スマホでAV動画を見ながら雪で抜くほうが、……いい。
「……死にてえ」
 そんなことをぼやいていると、さっきまで抱いていた例の元クラスメイトが下着だけ身につけて戻ってきた。彼女は仰向けのままの俺の隣に滑りこみ、軆が重なるように覗きこんでくる。
「へへ、やっと水瀬とこうできて嬉しい」
「そうか」
「水瀬もでしょ? ときどき、視線感じてたもん」
「まあな……」
「それでも、ほかの子とつきあってるときは嫌だったなあ。すぐ別れてくれるからよかったけどさ」
 お前とももう別れたいんですけど。正直そう思いはじめている自分が、自分で面倒臭い。お前はつきあわずに割り切れば効率がいいだろうと友達は口を揃える。が、俺はあくまでもやりたいのでなくつきあいたいのだ。ひと晩だけと約束した女が、実はすごく良かったらどうする? ルール違反は、あんまり好きじゃない。
 だいぶ緩くなったつもりだけれど。司と南。特に南。あんなに許せないと思っていた。死ねと思った。殺すと思ったこともある。大嫌いだった。あのふたりは、俺から誰よりも大切なかあさんを引きちぎった。
 俺の家庭は、初めは至って普通だった。父親がいた。母親がいた。俺がいて、やがて授という弟ができた。父親は厳めしいもので、そのぶん母親が優しい。でも、とうさんのいらいらはだんだん過多になっていき、態度もえらそうなものだった。好きだと思うことはあんまりなく、俺は余計かあさんにかたむいた。
 かあさんはよく俺と手をつないでいてくれた。幼稚園に行くとき。一緒に買い物するとき。夜に眠るとき。そして、とうさんに隠れて泣くときも。「俺はかあさんの味方だから」と俺は何度もかあさんに繰り返した。かあさんはうなずいて、「おとうさんと一緒に頑張る」と言っていた、のに。
 家庭を裏切ったのは、とうさんだった。ある日、起きるとかあさんがリビングに座りこんでいた。この時刻は、いつも朝食を取っているはずのとうさんのすがたはない。
「かあさん」
 かあさんははっと俺を見た。きょとんとしていた俺は、かあさんの真っ青な表情に一気に不安になって、そこに駆け寄った。
「どうしたんだよ。とうさんもう仕事?」
「……ううん」
「まだ寝てんの?」
「………、築は、授と幼稚園行って」
「え? で、でも」
「大丈夫だから。何でもない、何にもないから」
 かあさんは無理やり咲った。そのとき、かあさんはまだ何も知らなかった。でも、すでに何か予感していたのだろう。大丈夫なんかではないと。

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