紫は白に【2】
とうさんは、昨夜、昔からの友達の緊急入院したので駆けつけにいったとのことだった。とうさんに友達なんかいたんだ、と思った。その友達に会わないかとか誘われて、俺は気が進まなかったが、事情をよく理解していない授が「とうさんの友達会いたい」とか言うので仕方なくついていった。なぜかかあさんはついてこなくて、そこで紹介されたのが、南だった。
「初めまして、築くん、授くん」
柔和な雰囲気の南と名乗ったその男は、俺たちの目線にしゃがんで微笑んだ。俺はぼそっと、授はでかい声で、「初めまして」と返した。「授くんは元気だね」と友人野郎は咲って、とうさんはそれに苦笑した。
「南はこいつらに『くん』なんかつけなくていいだろ」
「一応、初対面なわけだし」
「俺はもう響のこと呼び捨てだぜ」
「響、人見知りなのに司には懐いたよね」
俺も授も、ぽかんとそのやりとりを見ていた。嘘だろ、と信じがたさに気分が悪くなるほどだった。とうさんが、あのいつも怒っているようなとうさんが、優しく咲っている。友人へとは思えない愛おしさをこめて、南とかいう奴を見つめている。
「築くんは司の子供の頃によく似てる」
そう言って、南とかいう奴はにっこりとした。頭を撫でられそうになって、俺は思わず後退った。とうさんを見た。
え。何で。
何で、俺にはやっぱりその眼なんだよ……?
「俺は? 俺はとうさんみたいにかっこいい?」
授が無邪気に南に懐いて、俺ははっと我に返った。「うん、授くんもかっこいい」と南とかいう奴はくすりと咲って、「まだ『かわいらしい』だろ」ととうさんは授にはわずかに安堵を溶かしたような目で言った。俺は唇を噛んで、ひどく吐きそうで、早く帰ってかあさんにしがみつきたくなった。
何だよこれ。南って奴じゃないだろ。ここにいるべきなのは、かあさんじゃないか──
そう思いつめる俺を打ちのめすことを、とうさんは帰りの車で言った。
「とうさんな、あの南と暮らしていきたいから、かあさんとは離れて暮らすことにした」
じゃあ、せめて、勝手にひとりで出ていけよ。そう思うのに、話は俺も授もとうさんが引き取り、かあさんはひとりになる方向に進んでいった。
俺は拘束から暴れるように、自分はかあさんと離れない、とうさんにはついていきたくないとわめいた。だいたい男と男で暮らす中に入るなんて気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い──
「築、頼むから、お前は俺たちを分かってくれよ」
司と名前で呼ばされるようになった父親に何度も諭された。
「ごめんね、でも僕は築と仲良くなりたい……」
南にそう言われたら突き飛ばして家を飛び出した。
「司が幸せならいいじゃんか」
授が飄々とそう言ってしまえるのが分からなかった。
「『おにいちゃん』って呼んでいいですか……?」
響という新たな弟の言葉に「ふざけんな」と怒鳴った。
早く家を出たい。こんな家にいたら気が狂う。憎くて憎くて頭がおかしくなる。
かあさんに会いたい。かあさんといたかった。せめて、かあさんと暮らしていけていたら、俺だって……それがとうさんの幸せだと認められたかもしれないのに。
「築、聞いてほしい話があるんだ」
中学生になって、しばらく経った夜だった。司にそう呼び止められて、南は授と響を部屋に行かせた。響の実弟になる奏は、その日は母親との家にいてこちらにいなかった。俺は顰め面でダイニングに残った。南が司の隣に戻ってくると、ふたりは目を交わして、ゆっくり、昔の司のようにいらいらしている俺にも分かるように、これまでのことを話した。
それまで興味も持たなかったから、ふたりの出逢いもよく知らず、漠然と薄汚いゲイバーとかで知り合ったのだと思っていた。でもふたりの出逢いは予想以上に古く、小学校にさかのぼった。
親友だった。親友に対して、おかしい気持ちだと思った。悟られないように殺した。気づかれないように偽った。共通の友人で、響と奏の母親である巴さんの計らいで、やっと気持ちがお互い通じるものだと知った。
だがそれも束の間、現実に押しつぶされた。男同士はありえないかたちだった。気まずく開いた距離のまま、司はかあさんのあいだに俺を儲けて結婚した。それに絶望して壊れた南は、巴さんに介抱されて結婚した。
それからは、司は俺の知っている通りの父親で。南はアル中になって倒れて──それがあの、司が南の元に駆けつけた夜だった。
「築はかあさんを本当に想ってくれてる。それを捨てろとは言わないんだ。でも、憶えてるか? 最後の日、かあさんは俺と南が分からないって言ってたよな。築もそれで仕方ないのかもしれない。かあさんが大切だから、俺たちのことなんか分かりたくないかもしれない。それでも、俺はお前に分かってほしいんだ」
俺は司を見た。いつからだろう、と思った。司はもうあの眼をしなくなった。いつも南を映していて、安らいで、落ち着いて、いまだにかたくなな俺にも力強い瞳を向けてくるようになった。
「……司、は」
「うん」
「かあさんのこと、少しだけでも、好きだったのか?」
司は一瞬言葉につまっても、静かに首を横に振った。
「俺が好きになった人間は、南しかいない」
歯を食い縛って立ち上がろうとした俺に、「でも」と司は俺をその場に抑える声で続けた。
「すごく、感謝してるよ。いろんな、たくさんの人に感謝してる。俺をまた雇ってくれてる会社にも、俺たちを咲ってくれる近所の人にも。授にも、響にも、奏にも。お前にも。巴にも。かあさんにも……紫がいなきゃ、お前が生まれてなかったんだぞ。今の家族がないんだぞ。感謝しきれないに決まってるだろ」
司の声が涙で崩れかけて、「司」と南が心配そうに司を覗きこんだ。それを見つめていて、ゆっくり、力が抜けていくのを感じた。これまで重たくまとわりついていた鎖が、ついにほどけて、音を立てて足元にほどけていくようだった。
だって……何となく、思っていたから。
司はかあさんを愛していなかった。
南と一緒にいたかった。
その夢を絶ったのは、かあさんと関わったせいではなくて。
俺が……生まれた、せいだったのではないかと──
「築」
南の声に俺ははっとそちらを見た。南は初めて会った日から変わらない物柔らかな瞳で微笑んだ。
「僕も、司しか好きになったことないけど。僕たちふたりなら、築のこと、大好きなんだよ」
「……ん」
「僕たちを分かってくれても、くれなくても、大好きだからね」
視界が滲み、すぐ頬にどんどん涙が流れていった。
こんな奴ら、死ねばいいと思った。男と男? 気持ち悪い。頭おかしい。こんなふたり間違ってる──
そう思っていた自分のほうが、人を愛するということについて誤っていたのだと、ようやく思い知った。
「あんたのほうがおかしいよ」ときっぱり、最初に、そしていつも言ったのは雪だった。雪にそう言われて、いつもどこかでは分かっている気がした。でも、ふたりを認めたら、いよいよかあさんが消えてしまうようで怖かった。
違うのだ。かあさんもいたから、このにぎやかな家庭がある──
「じゃあ、また新学期にねー。春休みもメールするっ」
翌朝、割り勘で宿泊したラブホから駅まで歩いて、彼女は俺に抱きついて胸を押しつけてから、逆方向の改札へと走っていった。
三月、朝が来るのが早くなった。腕時計を見ると午前六時だ。ひと晩過ごしてみて分かったが、あの女、意外とぶりっ子だった。色目を使っていたくらいだから、せめてもう少し大人びていると思っていたのに。何で俺は女を見抜けないんだ、と歯軋りしながら、がらがらの電車で地元に戻り、家まで歩いた。
俺は司に似ているとよく言われる。そう言われるのはあまり好きではなかったが、確かにそうなのかもしれない。
このあいだ、授と響が中学を卒業して、奏が司と南の卒業アルバムを見たいと言い出した。そこで司の中学時代の顔を見たが、遺伝子とはこんなに出るものなのかと思うほど俺に似ていた。
女をたらす行動だって、そっくりだ。司は南への気持ちを偽るためにたらしていた。俺は──
【第三十三章へ】
