ママはお酒に強くないくせに、すぐにお酒を飲んでは、動悸を手で抑えてうずくまる。そして、息苦しさに泣き出してしまいながら、「何であんたなんか生んじゃったんだろう」と涙で赤く腫れた眼で僕を睨む。
「あんたさえいなきゃよかったのに」
「そしたらあたしは幸せだったのに」
「あんたなんか早く死んじゃってよ」
そんな台詞をぶつぶつ言いながら、僕のことを壁に投げたり、まくらで顔面をふさいだり、髪を引っ張って押し入れに閉じこめたりする。
優しかったパパは、僕の服を脱がせて、たくさん写真を撮りながら、軆じゅうに触れてキスをした。ママがおかしくなったのは、それを見た日からだ。パパはなぜか警察の人に連れていかれた。ママはお酒に澱みながら僕を殴り、罵り、僕は気づけば、誰にも愛されなくなっていた。
やがて小学生になった僕は、何だか教室になじめなかった。みんなが笑うタイミングが分からない。協力とかグループとか、集団に混ざれない。そのうち、気まずくとまどっていると、仲間外れにされるようになった。先生はやんちゃな新一年生たちのお世話に手いっぱいで、僕に構っているヒマはないように目をそらした。
僕が教室に行かなくても、ママも先生も、誰も困らない。学校のそばには小さな公園にあって、僕は一日をそこで過ごした。キャラメル色のランドセルを隣に置いて、毎日ベンチにぽつんと座り、泣きたいのに涙が出ない苦しさに沈みこんだ。
昨日もママは、僕を手のひらで引っぱたきながら、「もう死んでよ!」と叫んで泣いていた。パパもずいぶん帰ってこない。もしかして、僕がいなくなれば、パパは戻ってきて、ママを支えてくれるのかな?
僕はふと顔を上げて、とん、と爪先からベンチを降りた。ランドセルを背負って、前から気づいていた公園の奥から聞こえる水音に耳を澄ました。その音のするほうに歩き出して、すると、植木に隠れるように土だらけの石段があるのを見つける。不器用な足取りで降りていく。茂みを抜けると、髪を撫でていく風に藻の匂いが立ちこめる、大きなダムが広がっていた。
水辺の手前には、黄色と黒の縞々の棒がかけられ、近づけないようにされてあった。周りを見まわすと、『魚釣禁止』とか『遊泳禁止』とか書かれた看板がたくさん立っていた。僕には読めない漢字だったけど、黄色と黒の縞々で、立ち入ってはいけないという意味だろうと思った。
水面がさざめく音が、ちゃぷんと潤って響く。ぐっと首を伸ばしてダムを覗くと、水中は濁っていて、深い緑色をしていた。
春だけど、とっくに毎日暑い。けれども、僕が赤ちゃんの頃に世界を襲ったウイルスで、マスクは当たり前につけているから、呼吸が蒸れる。
「危ないよ」
突然かかった声に、びくっと肩を震わせて振り返った。そこにはいつのまにか、アイボリーのワンピースを着た女の子がいた。髪を顎の位置で切り揃え、小学校の高学年くらいに見えた。マスクをしていないから、つい警戒してしまう。
「そのダム、落ちたら藻が絡みついて、絶対に助からないから」
「……死ねる、の?」
「死にたいの?」
僕は口ごもってうつむく。女の子は首をかたむけてから、「かなり苦しいよ」と淡々と述べた。
「私、死ぬの苦しかったもん」
「えっ……?」
「というか、死んでもこんなふうに地縛霊になるんだから、自殺なんてしても何も解決しないよ」
僕は眉を寄せた。何を、言っているのだろう。まさか、自分を幽霊だと?
揶揄ってるのかな。たぶんそうだ。僕がまだ一年生だから、それで怯えて逃げると思っているのだ。
「おねえさんは、死んでるの?」
「どっちだと思う?」
「……僕を、バカにしてると思う」
「そうかもしれないね」
女の子はふふっと咲い、スカートの裾をひるがえして僕の隣に並ぶ。そして、黄色と黒の縞々の棒に手をかけた。
「私はね、立入禁止なんだって。家でも学校でも、ずっとそうだった。だからここに飛び込んだのに、自殺したら天国とか地獄まで立入禁止なんだよ? たまんないよね」
「おねえさんは、何かつらかったの?」
「学校でイジメられて、言い返さない私が悪いって、親も先生も助けてくれなかった」
どんな言葉が返せばいいのか分からず、僕は首を垂らす。
「みんな私のこと受け入れてくれなかったけど、最後のほうは、私もみんなを自分の心から締め出してたな。誰も信じられないし、伝わらないから話したくないの」
するりと抜けていった風に、女の子の黒髪が揺らめく。背後の木々がざわりとささやいた。
「僕も、自分のことをうまく言えない」
僕がつぶやくと、女の子は僕を見下ろし、一度まばたきをした。
「パパ、いなくなっちゃって。それから、ママは僕をたたいて。学校では、みんなに合わせられない」
「……つらいね」
「ママは、僕にいつも『死んじゃえ』って言う。だから……死ねば、僕はいい子になれるのかな」
女の子はダムに顔を向け、瞳をどこかひんやりさせたあと、「じゃあ、これ越えてみる?」とまた僕のほうに首を捻じった。
「えっ」
「立入禁止なんか守らずに、ダムに飛び込んでみるの」
「……いい、のかな」
「お勧めはしないけど」
そう言いながらも、女の子は柔らかそうな手で、黄色と黒の縞々の棒を支えるコーンから外した。それであっさり、『立入禁止』は破られてしまう。
僕は小さく唾を飲みこんで、女の子と目を合わせたあと、そろそろとコンクリの水辺に近づいてみた。
目を凝らすと、確かに水中は藻がひしめいていた。それが深緑の原因でもあるようだ。濃い匂いが、マスク越しにも噎せ返ってくる。藻が絡みついて、絶対に助からない。女の子の言葉を反芻し、苦しいよね、と胸をさすった。
何でだろう。生きることはあんなに息苦しい。なのに、死ぬこともこんなに息苦しい。その矛盾にいらいらする。それはたぶん、勇気が出ない、意気地なしの自分を突きつけられるからだ。
僕には、執着するような命はないのに。どうしようもなく、ダムに向かって踏み出す前に、取りはらったはずの『立入禁止』のバリアをまだ感じる。
「おねえさん、は……」
「うん?」
「死ぬとき、怖くなかった?」
「……誰も哀しんでくれないのが分かってるのは、つらかったかな」
僕の心は、確かに傷んでいる。どくんどくんと、鼓動に合わせて流血している。
とどめを刺すだけ。それだけ。なのに、いさぎよいその一歩を僕は躊躇う。
「自殺、を、したら……」
「うん」
「天国にも地獄にも行けないって、ほんと?」
「行けないっていうか、入れてもらえないの。ひとりぼっちで消えちゃう」
「おねえさん、ここにいて消えてないけど」
「突き返されただけだよ。命をまっとうしなかった私は、ここに縛られて永久にひとりなの。そんなの、存在してないのと同じでしょ」
僕にはちょっと言葉の選び方がむずかしくて、きちんと分からなかったけど、女の子がずうっとひとりぼっちなのは分かった。
生きていてもひとりぼっち。死んだってひとりぼっち。だとしたら、僕はどちらを選ぶほうが正しいのだろう。
しばらく水辺で突っ立っていた。が、藻が巻きついて水中で息ができないまま沈殿する自分を想像して、女の子の隣に引き下がった。「飛び込まないの?」と女の子は言って、「やっぱり、ダメだと思う」と僕は答えた。すると、女の子は微笑んで『立入禁止』の棒をコーンにかけて戻した。
「僕は、生きてていいのかな」
「いいんだよ」
「どこにも、居ていい場所がなくても?」
「君がいたい場所にいていい」
「………、また、おねえさんに会いたいな」
「私?」
「うん」
「そっか」
女の子が嬉しそうに咲ったとき、また水面から木々のほうへ、ざあっと春風が抜けた。水面に緩い波が起きて、その透明な縞模様を見つめる。
ふと隣を見ると、女の子のすがたはなくなっていた。
僕はぼんやり、夢を見ていたのかもしれないと感じながら、公園に引き返してまたぽつんとベンチに座った。
数日後、あのダムに飛び込み、自殺を図った五年生の女の子の水死体が見つかった話が僕の耳にも届いた。絡みついていたはずの藻がなぜかちぎれて、浮かんできたのだという。結局、あのとき女の子が、まだダムに飛びこむ前で生きていたのか、すでにダムに飛びこんで死んでいたのか、僕にははっきり分からなかった。
けれど、僕が会いたいと言ったから、女の子は自分を縛る藻を逃れて浮いてきて、ちゃんと葬ってもらうことができたような気がする。
それからも、やっぱりママは、お酒を飲んでは僕の頬をぶった。だらんと虚脱していた僕は、何とかママを見上げると、「死ねなくてごめんね」とかぼそい声で言った。頬を腫らした僕を映しているママの目が、はっと開かれる。
「でも、いつか死ぬから、そしたら……」
ママはぎゅっと平手をこぶしにすると、色の悪い唇を噛んで、僕を床に突き放した。背中を向けたママの心にも、黄色と黒の縞々があるように感じた。
何となく、もうパパもここには帰ってこない気がした。僕は拒絶や否定に囲まれて、身動きが取れないまま、誰にも手が届かずに生きるのかもしれない。
心が痛む。愛されない。そしていつかは、僕もあの女の子のように、死に立ち入る。
あの女の子に逢えたら、「来たよ」って言って、どんなふうに咲おうかな。
永遠に生きるなんてない。僕もいずれは、立入禁止の向こう側に呼ばれる。死は等しく、あんなに禁じていた先へと、僕たちを連れていく。
そしたら、ほんとにまた会おうね。
おねえさんの魂が、そのときもまだ天国にも地獄にも立ち入りを禁じられて、彷徨っているのがあの水辺だったら、僕は必ず迎えにいくから。
そしてもっと話がしたいと、僕の心臓は確かに、流血でなく呼吸のようにどくどくと脈打っているんだ。
FIN