三十歳を過ぎて童貞でも、妖精にも魔法使いにもなれなかった。
結婚しないのか、といらだっていた両親は、彼女でも作ってくれと、もはや泣きついてくるようになった。とっくに結婚して、娘もいる弟は、「兄貴、もしかしてあっち?」と耳打ちで心配してくる。
別にそういうわけではない。巨乳が好きだし。
正直、AVを観て、自分で抜いておくくらいがちょうどいいのだ。好きなジャンルは、幼なじみモノや新婚モノ。だから、かわいい巨乳の女優といちゃあまするところを眺めて、ティッシュを消費している。俺としては、女なんてその程度でいい。
──からの、世界中を襲ったパンデミック。仕事はリモートになり、少し買い物に行くだけにも不安がともなう。何より、両親も弟一家もずっと同じ屋根の下だ。死ぬほど息が詰まる。
おちおちAVも見ていられない時間は、結婚ねえ、とふとまじめに考えてみて、婚活アプリに登録したことで変わった。
男を探している女って、こんなにいるもんなのか。肉食で怖いなとビビりつつ、何人かの女とメールのやりとりをした。男はメール送信に限度数があり、それ以上は課金になるので、必然的にメッセアプリに移動してもらう。本当は、あまり軽々しく連絡先は教えたくなかったのだけど。
まあ、だいたいは何が悪いのかよく分からないまま、あっさり返事が途絶えたり、ブロックされたりする。軽くへこむ。しかし、いちいちそれを家族に愚痴るのも恥ずかしいし、SNSをほぼ同時に始めてそこで愚痴った。
別にフォロワーを作ろうともしなかったが、同様に婚活や恋活をしている奴が勝手にフォローしてきたので、一応フォロバしておいた。リプはめったに来なかったが、それでも、いいねがつくだけで共感してくれたのかなと嬉しくなれた。
そんな中、婚活アプリのほうで知り合って、初めてきちんとメッセが続く優香梨という女が現れた。二十九歳。歳が近いせいだろうか、通話までする仲になっていった。
『落ち着いたら、会ってみたいね』
自然とそう言い交わすようになっていたから、少しパンデミックが静かになった晩秋、冬には新たな変異株も出るんじゃないかとうわさもあったし、「またいつ危なくなるか分からないから」と俺は優香梨と会うことになった。
優香梨は隣県に住んでいて、俺が車を出して会いにいった。待ち合わせの駅近くのパーキングに車を預け、迷わないようにスマホのナビを見て、指定されていた南口にたどりつく。
今年はずいぶん残暑が長かった。十一月に入っても、日射しがぎらついていた。十一月の中旬に入り、ようやく日中にも長袖を着るようになっている。
こっちは人出多いな、と感じながらざわめきを見まわしていると、スマホの通話が鳴る。画面には優香梨の名前があった。慌ててスマホを耳に当てると、『あ、やっぱり』と聞こえて、肩をたたかれる。
そこには、眼鏡をかけて髪を後ろでお団子にまとめた、どこか澄ました印象の女がいた。何というか、お局っぽい。もちろんそれは言わずに、「初めまして」と俺は頭を下げた。「こちらこそ」と彼女は意外とほがらかに咲い、お辞儀を返してくれる。
それが、優香梨との出逢いだった。
クリスマス、正月、バレンタイン、俺と優香梨は冬の行事をひと通り一緒に過ごし、俺がホワイトデーを返したことでつきあいはじめた。
「何か……彼女できたっぽい」
桜が咲きはじめた頃の食卓で、俺は唐突に家族にそう報告した。みんな驚いていたけど、祝福してくれた。特に「ちゃんと考えてくれてたんだね」とお袋が涙ぐんでいたので、まあよかったのかな、と感じて「そのうち紹介する」と言っておいた。
本格的に春が来て、パンデミックもついに沈静化かという空気が流れはじめた。ゴールデンウイークも無事過ぎ去り、マスクの義務が解除された。俺と優香梨のデートの回数も増え、やがて夏になった。
七月になり、蝉時雨が降る中で会ったその日の優香梨は、なぜか不機嫌な様子だった。「何かあった?」と運転しながら問うと、助手席の優香梨は「そっちこそ、言いたいことないの?」と問い返してくる。
言いたいこと。「いや、別に……」と口ごもると、優香梨はため息をついて、眉間に皺を寄せて押し黙ってしまった。
「私たち、先月、何だったと思う?」
山頂にあるレストランで昼食を取りながら、優香梨はやっと口を開いた。山菜の天丼を食べていた俺は、正面の優香梨を見てから、口の中を飲みこんだ。
「先月……」
「分からないの?」
「優香梨の誕生日は九月だったと思うけど」
「それじゃ遅いでしょ」
「遅い、って」
「九月には、私は三十になるんだよ」
優香梨を見つめた。とげとげしく感じるその態度に、職場では後輩たちにはそう接しているのだろうかなんて、第一印象を引きずって考える。
「三ヶ月」
「は?」
「つきあいはじめて、三ヶ月だったの」
「……あー」
俺の返答が間抜けだったせいか、いっそう優香梨はかちんとした様子で、きのこの醤油パスタを巻きつけていたフォークを置いた。
「私たち、何のためにつきあってると思ってるの?」
「何の……ためって、」
「婚活アプリで知り合ったんだよ。分かるでしょ。私は早く結婚したいの。三十になる前には」
俺のほうは、まったくそんなことはイメージしていなかったので、まじろいでしまった。いや、いずれはそういうことも考えたくて、優香梨とつきあっているのは分かる。しかし、つきあって三ヶ月、実際に会ってからも半年ぐらいの彼女に、そんな意識はできない。
「六月中にプロポーズしてくれるのが、当然の流れだったのに……私、職場でどれだけ周りに嗤われてると思ってるの?」
「……結婚は、周りのためにするものじゃないだろ」
「男はそう言えるかもしれないけど、女は違うの。ねえ、今ならまだ遅くないから」
「え……っと、」
「私にプロポーズしてくれるよね?」
そこまで言うなら、優香梨から俺にプロポーズすればいいのに。まあ、俺はそれを断るだろうが。
彼女に会ったとき、びりっと運命を感じたわけでもない。伴侶にする要素なんて、そこまで見つけられていない。悪い人ではない、まだそのくらいしか……
「してくれないなら、私たち、ここで別れましょう」
「優香梨……」
「それは困るでしょ? だから、」
「……いや。そんなに言うなら、たぶん別れたほうが──」
瞬間、顔面にびしゃっと氷水が飛び散った。思わず目をつぶったあと、お冷やをぶっかけられたという、しょうもないドラマみたいな事実に唖然とする。
びっしょり濡れた前髪や頬に触れたあと、まぶたを上げると、優香梨は目元を引き攣らせていた。もし彼女が、そんな面で職場でしょっちゅう切れているなら、それは周りも悪く言いはじめるだろうななんて思った。
優香梨は、帰りの車も俺と一緒は嫌だ、詫びとしてタクシー代をよこせと言った。俺はおとなしく彼女に金を渡し、ひとりでレストランを出た。車に乗りこみ、ハンドタオルで水分は吸ったものの、湿って肌にべたつくシャツに舌打ちする。
何となくスマホを取り出すと、SNSに一連を愚痴って、破局を報告した。めずらしくリプがちらほら来て、いいねをよくくれる奴の中にはDMもよこす奴もいた。
『災難だったね~憂さ晴らしの飲みくらい、つきあえたらいいんだけど』
その恋活女子大生のDMを読んだ俺は、『どこ住みだっけ?』と返した。すぐに返事が来る。俺は車だし、じゅうぶん日帰りできる距離の場所だった。
『そっち行ったら、マジで飲める?』
『来るの?』
『家帰りたくない』
『まー、そうか。来てくれるなら会えるよ』
『じゃあ行くわ』
『分かった。じゃあ、今夜は飲もう!』
そんなわけで、俺は恋人と別れたその足で、もっと素性の知れない女の子に会うことになった。
高速を飛ばし、次第に優香梨に対していらだちが際立ってくる。あんな女、結婚しなくてよかったんだ。そう苦々しく顔を顰めながら、俺は例の女子大生と落ち合った。
車はパーキングに預け、歓楽街の居酒屋でつぶれるぐらい飲んだ。千佳と名乗った彼女に、優香梨のことをひたすら愚痴った。
千佳はうなずきながら、タイミングのいい相槌で話を聞いてくれる。キャバ経験あるのかも、と感じていたとき、不意に顔を寄せてきた千佳は、「お金くれるなら、なぐさめてあげるよ?」とほてった吐息とささやいてきた。
俺は千佳のTシャツ越しの柔らかそうな巨乳を見て、どうにでもなれと思った。
近くのラブホに入ると、一緒にシャワーを浴びた。ベッドに移ると、千佳は俺のものを口にふくんだあと、ふわとろの大きな胸に包んでくれた。俺はそれであっさり射精してしまったので、本番行為はしなかった。
ベッドサイドに腰かけた千佳は、Tシャツだけ着て煙草を吸いはじめ、「おじさん、あんま騙されないようにねー」と俺から受け取った万札を数えながらくすくすと笑った。
「あたしは今、普通に金欠だから利用したんだけど」
「いつもやってるんじゃないの?」
「してないよ。でも、ガチで巻き上げる子もいるし、何ならゆすってくる子もいるから」
「……そうだね。気をつけるよ」
「パパ活やってる子なんて、男をATMとしか思ってないからねー」
全裸の俺は、ほとんど乱れていない白いシーツにうつぶせになり、まくらに頬を当てた。
ATM。確かに。金を自動で吐いてくれる機械。
同じATMになるなら、推しのAV女優の動画や円盤に貢ぐほうが、ずっといいな。
「俺、婚活もSNSもやめるわ」
「うん」
「我が家は、姪がいい男を捕まえてきて、存続はするだろうし」
「はは。ま、おじさんにも出逢いはあるかもしれないよ」
「ないよ。あっても、うまくいかない気がする」
千佳は笑って否定せず、ゆっくりと煙草を燻らせた。しばらくその紫煙を目で追っていたけど、俺は床に散らかったスラックスを手繰り寄せ、スマホを取り出した。
優香梨からの着信があったから、俺はあきれるより噴き出して、それを千佳に見せたあとにブロックした。婚活記録のSNSのアカウントも削除して、婚活アプリからも退会した。
いいだろ、別に。結婚しなくても。彼女がいなくても。右手が恋人でも。
そういうのはめんどくさい。俺には合わない。だから、ずっと、特に焦ることもなく童貞だったんだし。
これからもそれでいいじゃないか。世界はきっとパンデミックから立ち直っていく。俺の毎日も淡々としたものに収束していく。
かわいい巨乳AV女優の動画にでも課金して、画面越しに幸せに過ごす。隣には誰もいなくても、俺はそれでいいや。
FIN