帰らぬ僕は
「そういえば、僕も朝に聞いたよ」
相変わらず、僕には分からない言葉の並ぶ教本をめくっていた悠紗が、はたと顔を上げてくる。
「梨羽くんたち、来週にはいなくなっちゃうんだね」
「ああ。うん。言ってた」
「やだなあ。寂しいね。次八月だし」
「うん」
「会っときたいな。いそがしいんだっけ」
「みたい。行っても誰もいないかも。梨羽さんと紫苑さんも、必要なもの買いにいったりするって」
「そっかあ」と悠紗はため息をつく。四人──もとい紫苑さんがいてだいぶ進められた勉強も、独学に戻れば、必然進みは遅くなるだろう。
「長くいたんで、行ってほしくないのが強いね」
「行っちゃう前に、ここにも挨拶に来るってよ」
「うん。はあ。もうそれでずっと会えないんだよね。寂しいや」
惜しそうな息をつき、悠紗は勉強を続ける。雑誌をめくる僕も、四人がいなくなるというのには気鬱になった。
要さんと葉月さんの軽妙な会話を聞く楽しみがなくなる。紫苑さんが悠紗にギターを教えるのを見るのも微笑ましかったし、梨羽さんにははらはらさせられても妙に共感させられた。
みんないなくなってしまう。そして久々に帰ってきたとき、たぶん僕はここにいない。そうであったとき、四人はどう思うだろう。僕がいたのを憶えていて、「何で」とびっくりしてくれたらさいわいだ。
四人といえば、僕は昨日の梨羽さんを思い出す。突然声を発した挙句、泣きわめき、謎のまま無表情に落ち着いた。あれは何だったのか。聖樹さんに訊けばよかったのだけど、昨日はいろいろあって忘れていた。
『苦しい?』
『ごめんなさい』
梨羽さんの言葉は、まごつきが消えた今でもつながらない。梨羽さんが僕を苦しめたというのなら簡潔でも、梨羽さんは僕に何もしていない。誰かほかの人と錯覚したのか、僕が気づかないところで確かに梨羽さんは何かしたのか。梨羽さんの背景は知らないし、性格もつかめていないので、憶測を立てる糸口も定まらなかった。
暗澹と重たい胸に、昼食は手抜きさせてもらった。悠紗にはゆがくだけのスープパスタを作り、僕は夕べの悠紗の夕食を食べる。「僕がそれでもいいよ」と悠紗は言ったが、「栄養あるほうがいいかもしれないし」と僕は答えた。
僕の顔を眺めた悠紗はうなずき、フォークにパスタを巻きつける。顔を眺められたことに、ひどい顔してるのかな、と胸中で動じつつ、僕も豚肉の生姜焼きと煮物とごはんを胃に収めていった。
午後には悠紗はゲームをした。隣で雑誌をめくる僕は、サイコミミックのページにあたって沙霧さんを思い出す。先週末の金曜日、沙霧さんは追いかけてくる先生からここに逃げてきた。月曜日に行きたくないともわめいていた。今日は登校しただろうか。ここにはまた来るって言ってたか、と一度読んだサイコミミックの記事を深い意味もなく読み返す。
学校、という単語に少し心が錯乱した。学校。登校。先生。ずっと登校していない。勉強はもう追いつけないだろう。僕はまだあのクラスに在席しているのか。つくえもそのままだったりするのか。
でも、みんな空っぽのつくえを気にも留めていないだろう。何か変な人、と思われていた僕は、教室での影も薄かった。僕を辱めた人だって、何であいつ逃げたのかなあ、ぐらいにしか思っていない。
先生はもう、見つからないとあきらめられて、責任を取らされている頃だ。担任は、あの先生だ。何かしら処分を受けていたら、正直、いい気味だと思うところもある。あの先生は、僕を露出狂だと笑い者にした。
今日見た夢は、十月の始め、修学旅行を間近にひかえたときのことだった。僕は抑えつけられる前に写真を撮られた。あのときはいったいどうするんだと思ったものの、あれは数日後、廊下の窓にべたべたと貼られて見せ物にされたわけだ。
今までで一番ショックな晒され方だった。どうしようもなく恥ずかしくて、果てしなく続く光を浴びた陰部の膨大さにやりきれなくて、あのとき、本当に頭の中が崩壊する音が聞こえた。
力なく写真を剥がしながら、もう、私情抜きで自分が可哀想だった。今日見た夢は、あの凌辱の序章でもあったのだ。あの人たちが言った。モデルデビューおめでとう。
あれは、ここに来る直前のことだった。
あの死の夜からちょうど一週間後の週末、修学旅行が来週に迫っていたとき、確かまたおとうさんにのしかかられた。あれが、おとうさんに直接何かされた最後だ。軆に触るとか見つめるとかは毎日でも、寝室に連れこまれたのは、それが今のところ最後だ。
数えるだけ怖いので、僕はおとうさんに何回何をどうされたのかは記憶していない。されたことは焼きついていても、それがいつだとか何度目とかはあやふやになっている。
鳥肌や吐き気、喉を詰めるような拒否反応、もしくはそんなものすら消えた仮死状態は、感情としても光景としても、忘れられていないけれど。それでも、あれが最後だったのだけは憶えている。
あの日はおとうさんは酒を飲んでいたが、「桃恵」とは呼ばずに僕に押し入ってきた。神様なんか信じていないくせに、「萌梨」という名前だけはこぼれないのを必死に願っていた。なかったと思う。たぶん。されていることに真っ白に絶望していて、始終をすみずみ記憶している余裕はなかった。少なくとも、断片的な記憶にはそう呼ばれた痕跡はない。
今、自分がされている状態を把握するたび、耐えがたい拒絶感を覚えていた。できれば、悲鳴を上げて押しのけたかった。だが、そうできないたるんだ重みや裏切る神経に、拒絶感は無力感に取って代わって、僕は泣いた。
僕は父親に抱かれている。そう気づく瞬間が、最も恐ろしかった。肛門に挿入されている。自分を作りだした白濁を自分の軆の中に受けている。想像を絶していた。実際されているのに信じがたかった。
そう、僕は今この人が吐き出した、べっとりしたものによってここにいる。荒い息に混じった絶頂のうめきがすたれていくのが聞こえる。この人のこの行為で、このうめきの中で僕は生まれた。
何でだろう、と空虚な瞳が床を泳ぐ。何で僕はこんな、冒涜みたいなあつかいをひたすらされてるのだろう。僕は自分を発生させたねばつきを受けることが義務なのか。
今受けたこの液体さえなければ、生まれずに済んでいた。僕は僕を痛めつける要因を体内を放出された。卑しく。狂って。僕は僕の種に汚辱された。複雑すぎて、どう言えばいいのか分からない。
ただ、嫌だった。それだけは言い切れる。僕はこれが死ぬほど嫌だった。
あの日があの日のことだったと忘れられていないのは、めずらしく、終わったあとおとうさんが眠らなかったせいでもある。おとうさんは、直腸に受けた不浄の噴射に震える僕を背中から抱きしめた。おとうさんの性器は僕の中に埋まるままだった。酒気が肩にかかり、喉元にすべり落ちていく。
おとうさんは、修学旅行のことを話した。行くのかどうかを訊いてきた。行かなきゃいけないと、僕は平坦でかぼそい声で答えた。行きたくなければ行かなくてもいいとおとうさんは言った。僕は黙っていた。おとうさんは僕を抱きしめ、「代わりにおとうさんとどこかに行こう」と言った。
ぞっとした。その台詞にではない。今こうして全裸で密着している状態で、おとうさん、と自称したことにだ。どこかに行って、どうなるかは透視できた。
僕は首を振り、「行くよ」と言った。おとうさんはしつこく説得しようとした。僕は気弱ながら、かたくなに行くと言った。修学旅行に行っても、楽しくないのは分かっていた。きっとクラスメイトにひどいことをされる。おとうさんよりそちらがマシなんて、天秤をかけることはできなくても、今こうして親子で肌を重ねている状況では、あっちのほうがマシだと目先の情動に走ってしまう。
「おみやげも買ってくるよ」と僕は言う。「みやげ」とおとうさんは言った。僕はうなずき、「何がいい?」と言った。
言いながら情けなかった。何という会話だ。普通の親子ではないか。こんな格好で。
僕の髪を撫で、いらないとおとうさんは言った。
『お前さえ無事に帰ってこれば、おとうさんは幸せだからな』
【第百二十八章へ】
