風切り羽-128

きっと逃げられない

 僕は帰ってこなかった。おとうさんはどう思っただろう。怖かった。僕は、あの人が血眼になって僕を探している確信がある。
 事実言われた。おかあさんのようにはいかせない、逃げたってつかまえてやると。おとうさんはつかんだ幸せをやすやす手離す人ではない。だから、僕をおかあさんに見立てるなんて離れ業もやってのけた。
 おとうさんは僕を逃がさない。絶対に許さない。もし見つかったら監禁──いや、殺されるだろう。そして僕は、おとうさんの内界の住人に落とされる。
 表面的な時間は、悠紗のゲームを眺めたり雑誌を読んだりでぼんやりとつぶした。すぐに日は落ち、いつもどおり明かりをつけてカーテンを閉める。聖樹さんの帰宅はいつもよりやや遅かったけれど、心配になるほどでもなかった。
 夕食を作って、食べて、時間の運びは変わらない。聖樹さんが悠紗を寝室に寝かしつけにいっているあいだ、ふと恐怖を覚えた。眼前の光景に感触がない。銀幕の平面で漉しているみたいだ。朝のあの麻痺が抜けていないのに気づいた。
 ここにいるのに、揺すぶりが止まっていない。その事実に焦っていると、聖樹さんが戻ってきた。
 僕は振り返り、聖樹さんと顔を合わせる。聖樹さんは僕を見て、どこか寂しそうな色を瞳に落とした。
「萌梨くん」
 聖樹さんは僕はそばに来ると、同じ目の高さにかがみこんだ。僕はきょとんとしていた。
「ひとつ、分かってくれる?」
「はい」
「僕、別に救われたってわけじゃないんだよ」
「えっ」
「差とか壁ができたんじゃない。そんなに、閉じこめて自分を守らなくても」
 聖樹さんを見つめる。「そんなふうに感じて」と聖樹さんは謝った。
「消えたわけじゃないんだよ。何も──死ぬ以外ではあのことを帳消しにはできない。前と同じように聞いてあげられると思う」
「聞く……」
「周りの人が分かってくれるようになったからって、無神経になったりはしない。でも、萌梨くんにしたら、なってるのかな」
 慌てて首を振った。聖樹さんは悪くない。僕が悪いのだ。あの夢や、鬱々とした思索が。
 聖樹さんが信じられなくなったわけではない。置いてきぼりにされた、という感覚はあっても、それがひがみだという自覚も持ち合わせている。聖樹さんは悪くない。
 うまく口にできないのは、おとうさんのことだからだ。こればかりは、聖樹さんに理解してもらえない。痛みは察してもらえても、すくいあげるのには躊躇される。それが筋でもある。
 おとうさんに関しては、聖樹さんでも、分かる、と言われたら癪になりそうだ。そこは聖樹さん自身わきまえているので、言わないと思うけど。
 説明をしなくてはならないのもある。学校のことは形容しなくても感応で通じても、おとうさんのことにはそれはできない。何がどうなのか説かなくてはならない。だが、原理も心理もますます名状できないものだし、口にするだけ薄っぺらくなりそうだ。
 回想に記憶がこじあけられたら、神経は逆撫でされる。ほんとはこんなものじゃない、と思いながら継ぎ足したような言葉で説明するのは、みじめでもどかしそうだった。
 そろそろ連れ戻される。その不安もある。これは、ほかの意味で言えなかった。聖樹さんを信用していないように聞こえる。そのつもりはなくても、そういうことでもある。
 迷惑じゃない、とさんざん言われても、やはり不安だ。連れ戻されても取り返しにいくというのも、それで聖樹さんが悪い人になったらと怖い。聖樹さん自身がいくら厄介と思っていなくても、僕はこの人だけには面倒をかけたくない。
 僕なんかに構って聖樹さんが壊れるのはもったいない。自分にそんな、大切にされる価値があるのか分からない。信用していない、というより、僕には人を信用する自信がないのだ。
 聖樹さんは、僕を瞳に映している。「平気です」と僕は言った。聖樹さんは僕を静かに見つめ、「そう」と無茶に聞き出そうとはしなかった。ただ僕の肩をとんとして、「話したかったらいつでも聞くよ」と言った。それにはこくんとすると、聖樹さんは微笑んで立ち上がった。
 部屋を見まわした聖樹さんは、仰いだ僕に食器を拭いておくのを頼む。承知した僕が膝の雑誌を置いて腰を上げると、聖樹さんはバスルームに行った。僕はすでに風呂はもらっていた。
 食器を拭いては棚にしまいながら、憂慮は止まらない。夢のこと、麻痺のこと、ここにいること、四人が行ってしまうこと。食器が片づくとリビングで雑誌を開き、漠然とした暗雲にぼうっとしつつ聖樹さんを待っていた。
 帰ってきた聖樹さんは、髪を乾かすと仕事を広げた。ノートPCを開く聖樹さんに、「コンピュータ関連のお仕事なんですよね」という。「まあ」と聖樹さんは曖昧に咲った。
「なりたいものなかったしね。理数系も得意だったし」
「沙霧さんが、聖樹さんと較べられて、落ちこぼれあつかいされるのは困るって言ってました」
「はは。梨羽たちといるとき以外は、勉強のほかにすることなかったんで、それで成績も良かったんだ。僕の中では虚しい結果だよ」
 僕はうなずき、「分かります」と言った。
「成績は普通にして目立たなくするっていうのでしたけど、勉強してるほうがマシっていうのはありました」
「そっか。まあ、勉強ができたってね。萌梨くん、こんな会社員にはならないでしょう」
「……なれないと思いますか」
「いや、なりたければ。つまらないし、学校以上に神経削れるよ」
「はあ」
「悠みたいに、表現の道に行ってもいいんじゃない。萌梨くんは内向的だから向いてるよ」
 と言われても、そういうのは向いている向いていない以前に、才能が必要だ。仮に才能があっても、金になるかどうかも別問題だ。梨羽さんによって、僕はそう知った。梨羽さんは歌うのが向いているし、才能もあるのだけど、それで稼ぐことはできない。何か表現ができたとしても、僕もそうであるのはありうる。
 僕との取り留めのない会話のかたわら、聖樹さんは仕事をこなしていった。「寝ようか」となったのは二十三半時前で、ふたりとも寝支度が済み、「おやすみ」と明かりが消えたのは零時だった。
 昨日と違い、眠たかった。開けているとまぶたは痛み、頭もふやけている。ふとんにもぐりこむと、意識が落ちこみそうなうとうとは早くやってきた。
 が、いざ意識がなくなるのには錯雑した心の影が濃くもあった。僕はなかば眠った無意識状態で、意思の絡まらない表層だったり深層だったりする考えごとをした。
 妄執じみて絡みつくのは、やはりここに長くいすぎること、そしておとうさんのことだった。今日一日じゅう僕を責めていたあの光景は、今朝見た夢だった。それを思い出すと、急に眠るのが怖くなる。
 またあんな夢を見たらどうしよう。何にも考えないまま寝たらいいだろうか。それならばと頭を空っぽにしようとすると、かえって心はいろんな悩みで混雑する。
 寝返りをしてうつぶせになると、まくらに顔を伏せる。寝るか考えないかにしてほしいのに、焦れったい微睡みはなかなか途切れない。
 頭の中がぐるぐるした。おとうさん。逃げられない。つかまえられる。ひと月半。そろそろ限界だ。
 必ずおとうさんはやってくる。僕は帰らされる。結局、僕は帰らなくてはならない。あの家に。学校に。そして再び、無邪気や狂気で侮辱を無秩序に受けて──。
 喉が詰まり、まぶたがほてった気がした。でも確かめる前に僕の意識は渦に飲まれ、思考も消えてしまった。

第百二十九章へ

error: