ただ当たり障りなく
朝から空が沈みこんでいた次の日には、沙霧さんが部屋にやってきた。昼食が終わった十三時過ぎで、小雨も降り出していた。沙霧さんは私服に着替えていて、通学かばんも連れてない。曰く、一回帰って、つかまる前に素早く出てきたのだそうだ。
湿った上着を脱ぎ捨てると、沙霧さんは僕のそばに腰を下ろす。長い脚を放って濡れた髪を鬱陶しそうにかきあげながら、何だか僕を眺めてくる。「何ですか」と僕が首をかしげると、「気に障ったらごめん」と沙霧さんは前置きする。
「萌梨、昨日寝なかったのか」
「え、何でですか」
「隈が」
「え」と狼狽え、とっさにごまかそうとする。が、どうごまかせばいいかも分からず、つまるところうつむいてしまった。
「あ、ごめん。悪気は」
「いえ、あの、寝なかった、というか。いろいろと」
「いろいろ」
「いろいろ、……です」
上目をすると沙霧さんはくすっとして、「いろいろね」とそんなので納得してくれる。いろいろ──昨日はきちんと眠れたのだけど。おそらく、昨日おとといの陰鬱の名残だ。
ゲームをする悠紗がこちらを振り返ってきて、まだ髪をいじる沙霧さんはそちらを向く。
「それ進んだ?」
「うん。次の大陸行ったよ」
「マジ。大陸変わるのか。どんなとこ」
「来たばっかだもん。行けないとこいっぱい」
「新しい味方出た?」
「出たよ。女の子」
「どんな? 強い?」
「魔法使えるの」
ふたりはテレビを覗きこみ、僕は目を下げて手元の雑誌をぱらぱらとした。意味は噛めなくても、外面の文章は読破してしまった。よければ今度別の雑誌買ってきてもらおうかな、と読んだ記憶のある文字の鎖をぼんやりたどる。
今日の午前中、聖樹さんが出勤したあとに、僕は悠紗に謝った。悠紗はきょとんとして、「何で」とも言ってきた。昨日とおとといに取り繕っていたのを言うと、「あー」とうなずいていた。今日の僕は、昨日聖樹さんに吐き出したせいか麻痺を感じていなかった。
「悠紗を除け者にしたんではないよ」
「分かってるよお。おとうさんにもあるもん。外に出しちゃったら、ばらばらになりそうで怖いんでしょ」
「……うん」
「へへ。僕のほうは寂しくてもね、無理やり引っ張り出してもっと悪くなってもあれだし。僕、出してもらっても片づけてあげられないもん」
「そっか」
「僕が心配なのはね、出さないことじゃなくて、出せないぐらいのものがあるってことのほうだよ。今日萌梨くん、ないね」
「昨日、聖樹さんと話したんだ」
「そっか。うん、おとうさんもそういうことに使ってもらえたら嬉しいと思うよ。よかった」
笑顔になった悠紗に、僕は安堵して咲い返した。「顔の色はちょっと悪いかな」とは、そのときにも言われた。「そうかな」と頬に触ってしまうと、「昨日よりはいいよ」と悠紗はつけたした。
今活字をたどる僕は、隈というのを意識する。どうも鏡を見ない習慣で、自分の顔がどんなものかほとんど把握していない。前日を知らない人には、僕の顔は目に留まる程度に病的な感はあるようだ。だが悪いものに取り憑かれなければ、徐々に回復していくだろう。
悠紗が魔物生息地の密林に踏みこむと、沙霧さんは口出しをやめて手近のゲーム雑誌を取って無造作にめくった。「何か俺も新しいの欲しいな」と言っている。
「買わないの?」
「金ないんだよな。俺バイト代って何に使ってるんだろ。遊んでるうちに気づくと消えている。怖いなー」
「買ったら僕にもやらせてね」
「ブロックゲームでも」
「………、一回」
沙霧さんは笑って、「卒業したら何か買お」とページを物色する。
「沙霧くん、卒業したらどうするの?」
「先公みたいなことを」
「えー。あ、落ちこぼれやるんでしょ」
「意味分かってるか」
「あんまり」
「落ちこぼれ、なあ。また面談あったっけ。そこでも兄貴と較べられんのかな。ちきしょう、行きたいとこないからって適当に同じ高校にするんじゃなかった」
同じなのか。考えれば、較べられるには学校も聖樹さんを知っておかなくてはならない。
「何でいちいち、学校に将来どうするか教えとかなきゃいけないんだよ。関係ないじゃん。やだなあ。あー、やだ」
「やだやだやだ」とくりかえし、沙霧さんは雑誌をめくっている。気後れした悠紗は、僕を振り向いてくる。僕は何とも言えずに咲った。沙霧さんも未来がつかめてないんだっけ、と思うと共感に近いものが流れる。
「悠みたいに、何かなりたいってあったら便利いいよなあ」
「べんり」
「それがしたいって突っ張れるじゃん。俺、そんなんないもん」
「落ちこぼれやるんですって言ったら」
「それが通じたら、こんなじたばたしません」
「ふうん。くーるなのに。あ、後ろ取られた」
悪条件で戦闘が発生したのか、悠紗は画面に見入った。沙霧さんはうめきながら仰向けに床に倒れ、その頭は僕の膝の近くに落ち着く。
「そういや、萌梨って学校行ってないな」
「え、はい」
僕は雑誌を膝に置き、こちらに空目をする沙霧さんを見返す。
「中学どこ」
「え、と……知らないと思いますけど」
「そんな遠く──あ、そうか。何か修学旅行とか言ってたな。んじゃ、遠いんだ」
「新幹線で来ました」
「そっか。ずっと行ってなくて不安じゃない?」
「………、行きたくないのは変わってないですよ。勉強とかは、いいのかなあって思ったりします」
「そっか。勉強なあ、将来的にはいらないと思うよ」
「そう、ですか」
「うん。あ、卒業証書もらいにいくとき帰んなきゃいけないんじゃねえの。どうすんの。嫌だろ」
「まあ──え、ていうか、くれるんですか」
「あー、そりゃくれる。よこせって言ったらよこす。賭けてもいいぜ。出席日数も成績もぼろぼろで、致命的非行にさえ走った俺だってもらえたもん。義務教育様々」
そんなものなのか。いつだか聖樹さんも、せっかく行かなくても資格をもらえる、みたいなことは言っていた。
「学歴なんか持ってたって、実質的にはしゃあないけどな。形式がなくて、学歴は無意味だってはっきりする職業っていいよな。悠はそうなるか。学校行かないんだろ」
「行かないよー」
戦闘を終えた悠紗は、密林を走りまわって経験値を貯めている。
「すぐに梨羽さんたちについてって、本格的に音楽に触れてくんだろうなあ。あ、萌梨もそんなのに進めば、中卒とか関係ないじゃん」
「才能いりそうですよ」
「才能、ない?」
「ないですよ。僕は普通の人になると思います。で、普通の人だったら、資格持っておいたほうが生活しやすいですよ、ね」
「まあ、な。しょせん」
視線を下げ、雑誌のページをつまぐった。「気に障った?」と沙霧さんが寝返りを打って覗きこんでくる。首を振った。
「聖樹さんとも、そういうの話したりします」
「え、ああ。中卒とかの」
「はい。どうなってるのか、自分でも分かんないんですよね。ここにいられたとしても、そのうち自分で食べなきゃいけなくなって、そのとき履歴書に中学の出身も書けないのって」
「きつい、な。あ、でもバイトなら履歴書には中学の出身っていらないんじゃない」
「え、そうなんですか」
「律儀な奴は書いても、普通高校からじゃないか。大企業に入社するんでもないだろ。俺はそうだぜ。文句言われたことないし」
履歴書なんて書いたことがなくて知らなかった。ひとつほっとする。
「高校は中卒持ってなきゃ行けなくても、どうせ行かないだろ」
「でしょう、か。行かなかったら」
「働く。あ、そうか。高校在学中とも書けないんだよなあ」
「………、何ができると思いますか」
沙霧さんと僕は顔を合わせた。しばし黙然として、「肉体労働とか?」と沙霧さんは自信なさそうに言う。肉体労働。この華奢な細腕でできたらすごい。成長すれば多少はがっしりしてくるのだろうか。
でも聖樹さんは二十五でもすらりとしている。工事現場にいるより、つくえでノートPCをたたいているほうが、いかにもだ。聖樹さん以上にほっそりした男の人といえば梨羽さんで、もはや梨羽さんは女の人といっても──考えるほど暗くなりそうでやめた。梨羽さんが細いのは、体質に加えて心身症気味のせいでもあるのだろう。いや、心身症は僕も持つかもしれない。だとしたら、やはり僕はたくましくはなれないのか。
何やら憂鬱になってくる。本当に、将来、僕は何で稼いでいるのだろう。
「どうなる、でしょう」
「深刻ではあるな」
「………、杞憂かもしれないですね。たぶんその前に向こうに帰ってますよ」
沙霧さんは慮外そうに僕を仰ぎ、「ずっといるんじゃないの」と言う。
「いられないですよ。帰りたくなくても、見つかったりしたら」
「見つかる、なあ。それは、学校っつうより──」
「家、です」
「萌梨は家もよくないんだっけ」
「はい」
「よくないのに、探すのか」
「………、まあ」
沙霧さんは僕を窺い、「そっか」となぜ探すかという理由を知るのはさりげなく省いてくれる。
「で、学校もきつい」
「はい」
「じゃ、向こうに見つからないようにもしなきゃいけないのか。どんな仕事だ。こうなったら、履歴書自体偽るとか」
「いや、その、そういうので悩む前に見つかると思うんです」
沙霧さんは床に頬杖をつき、こちらを眺めてくる。僕はそれをひかえめに見つめ返す。「萌梨は帰りたくないんだろ」とその言葉にはうなずくと、「じゃあ帰っちゃダメだよ」と沙霧さんはあっさり言う。
「帰ったってしょうがないじゃん」
「……しょうがない」
「あっちが懐かしくて心細くなったり、する?」
「ないですっ」
「じゃ、萌梨にはそこにいる意味ないんだよ。将来食ってくために気になるのも分かるけどさ、学歴には心ぼろぼろにしても取っておく価値、ないよ」
沙霧さんと見つめ合ったあと、うつむいた。そうなのだろうか。無論、僕だってそんなに学歴学歴と思っているわけではない。当たり障りなく生きるには、当たり障りない学歴も必要だと、そう思ってしまう。
心を傷つけてまで取る価値は、学歴にはない。だとしたら、学歴がなくても心に優しくても、食べていける道はあるのか。心臓を生かすために、心や魂を見殺しにしなくていい、夢みたいな方法もあるのか。
あると保証されないと、僕は地味にやっていくために自虐する呪縛を逃れられそうにない。
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