なだらかになる心
黙って、そうしていた。通りがかる人で、弓弦に挨拶する人もいた。弓弦はそれはなおざりにして、僕を見守る。弓弦になら、理由を訊かれたら話してよかった。だけど、弓弦は何も訊かなかった。誰に何をされたのか、好奇心でなく心配はあるようなので、「あのね」と僕は沈黙を破った。
「ここで何かあったんじゃないよ」
「え」
「外でね」
「外」
「学校の人と、会ったんだ」
弓弦はこちらを見つめ、「そっか」と僕の手を握り直した。もう分かった、という合図だった。詳しく話したところで、弓弦に与えるのは困惑だ。笑殺したり、バカにしたりする人ではない。ただ心配をかけたくなかった。
弓弦の手が僕の手を握っている。肌が触れ合っている。嫌じゃなかった。弓弦の熱が流れこんで僕の体温に溶け、そのせいか微熱にぼうっとしてくる感覚は心地よかった。男というより、こんな人が初めてだ。誰とも距離を取ってきた僕に、弓弦は自然に寄り添ってくれる。
逆撫でられた心も落ち着いていった。あの人たちに遭ってしまったショックはもちろん、嫌悪による混乱も鎮められる。弓弦が男なのに怖くないせいだ。弓弦とこうしていて嫌じゃないのが嬉しい。ちょっとだけ、男は問題外というストレートじゃなくてよかったかもとさえ思う。弓弦と手をつないで、ほっとできる体質でよかった。弓弦は僕のどうにもならなかった自卑をやわらげる。
通りかかる人には、相変わらず弓弦に目を留める人がいる。察して素通りする人も、逆に揶揄ってくる人も、儀礼的に挨拶する人もいる。〈POOL〉にいるときより、弓弦は冷めた態度を取っている。話していた人が去って、僕に見つめられているのに気づくと、「何?」と弓弦はいつもの瞳で照れ咲う。
「何か、いつもと違うね」
「え、いつも」
「お店にいるときと」
「そ、そうか。自分じゃ分かんない」
「冷めてる感じ」
「あー、そっか。俺、仕事には冷めとくのがポリシーなんだ。燃えたとこで信用されなくなるし。俺の仕事は信用第一」
「十三で働き始めたんだよね」
「うん。家、嫌いだったんだ」
僕は弓弦を見、「ものすごい家庭だったわけじゃないよ」と弓弦は咲う。
「いまどきごろごろしてる。でも俺は嫌で、引ったくりとかおねえさんのヒモで生活まかなって、帰らなくなったんだ。帰らないと気分よかったんで、帰らなくていいようにきちんと働くのも決めた。そうだな、十三歳。最初は駄賃つきのパシリみたいなもんだったぜ。ナメられてたんだよな。あの頃は必死だったけど」
「すごいね」
「え、そうか。必死ってださくないか」
「家に帰りたくなかったんでしょ。僕はそんなにできないよ。家に帰るの嫌だけど、帰らなくちゃって思っちゃう」
弓弦は首をかたむけ、「家も嫌なのか」と訊いてくる。
「学校よりマシだよ。部屋に閉じこもっておけばいいし。顔合わせると、学校に行きなさいって言われるんだよね。ついていけないとこもあるし」
「ついていけない」
「僕の家、お金持ちなんだ。お手伝いさんとかいる。僕の両親は、お金があるのが自慢なんだ。僕はそういうの分からない」
弓弦はこちらを見つめ、「金持ち」とつぶやいた。僕は頬を熱くした。成金の息子だと口にするのは恥ずかしい。金がたくさんあるのは悪くない。それを誇示する感覚は嫌いだ。「見えないな」と弓弦は言う。
「紗月が、金持ちの息子って」
「そ、かな」
「俺たちと合ってるじゃん。俺は貧乏人の息子だぜ。来夢の家は小市民。こないだサシで話したんだろ」
「来夢さんも、おうち出てるんだよね。働いてるし」
「あいつは家庭を見切ってるんだ。俺がいればいいんだと。変に取るなよ」
「分かるよ、弓弦がいればいいって。弓弦といると、嫌なこと落ち着いて楽しくなれるもん」
弓弦はなぜか狼狽えた表情になり、何秒か視線をジーンズに落とすと、「紗月も?」と問うてくる。
「え」
「紗月も、俺といると、そう?」
弓弦を見つめ、おもはゆくもうなずいた。「今、落ち着いたでしょ」とつけくわえると、「そっか」と弓弦は笑む。
僕の気持ちはすっきり落ち着いていた。つなぐ手を思い出すと、急に決まり悪くなり、どちらからともなくほどく。弓弦の手に包まれていた手を、一方の手で大切に包んだ。
友達だと言い張っておいて手をつなぎ、弓弦はどう思っただろう。謝ったほうがいいかな、と窺った弓弦に、不愉快そうな色はない。謙遜もやりすぎると感じが悪い。お礼のみ伝えると、「こんなんで落ち着いてくれるなら、いつでもしてやるぜ」と弓弦は咲い、僕ははにかみ咲った。
弓弦がリュックにタオルをしまったあと、僕たちは〈POOL〉に行った。知らない道のりなので、意識して弓弦の隣を離れずにいる。すれちがいざまに話しかけてくる人もいたが、先ほどの通りほどではない。そういえば仕事はいいのかを訊くと、「昼からだよ」と答えられた。
「俺って昼夜反転でさえないんだよな。昨日は夜寝てて、朝飯食いにきたんだ」
「そう、なんだ。ごめん、お腹空いてる?」
「少しぐらい食べなくても平気だよ」
ほっとしつつ、そんなものかな、と思った。僕は空腹に免疫がない。贅沢な家で育ったせいかと思うと、少し自己嫌悪になる。
「お昼までどうしてる?」
「んー、別に。紗月といようかな」
僕がいちいちどきまぎすると、「いないほうがいい?」と揶揄われて、首を振った。一緒にいられるのは嬉しい。弓弦なら素直にそう思える。
〈POOL〉の弓弦のテーブルはいつも通り空いていた。来夢さんを除き、この席に弓弦以外の人間が勝手に座るのを僕は見たことがない。ウェイトレスもこの席に客を案内しない。ここが弓弦の席であるのは、〈POOL〉の暗黙の了解であるようだ。
弓弦は朝食とコーヒーを、僕はミルクティーをミキさんに注文する。カウンターのミキさんに、さっきの“おねえさんのヒモ”のおねえさんとはミキさんなのかな、と思う。頬杖をつく弓弦に確かめてみると、弓弦は不意打ちを食らった顔になった。
「な、何で知ってんだよ」
「ミキさんに」
「ミ──何で」
振り返った弓弦に、ミキさんは気にしない微笑をした。弓弦はばつが悪そうにし、はっと顔を上げ直す。
「じゃあまさか、俺のことも」
「弓弦」
「だから、その──知らない?」
「………、たらし、って」
弓弦は苦しげにうめいてテーブルに伏せった。そんなに知られたくなかったのか。「大丈夫だよ」と僕は弓弦をなだめる。
「びっくり、はしても、偏見するほど子供でもないし」
弓弦は上目遣いをする。「ほんとに」と僕が念を押すと、息をついて軆も起こす。
「いろんな人と接したいって言ってたし。それなんでしょ」
「……まあ」
「弓弦を嫌いになったりもしてないよ」
「ほんと」
「こうやって話してくれたら、僕は弓弦のこと大事だよ。こんなふうに仲良くできる人って、僕にはいないし。そんなので嫌いになるのはもったいないよ」
僕の言葉に、弓弦はどこかほっとする。たらしだと知られると、軽蔑されると思っていたのかもしれない。
「僕、世間知らずだしね。接してくれる弓弦が全部なんだ。たらしとか仕事とか、直面してないとこでの弓弦はよく分かんない。だから、それで弓弦への気持ちを決めたりはしないよ」
弓弦がこくんとしたとき、ミキさんが注文したものを運んできた。さっそく僕はミルクティーに口をつけ、弓弦はスプーンで蕩けそうなオムレツをすくう。
弓弦は昼まで僕につきあってくれた。ミキさんのヒモだったことは、開き直って話してくれた。縛って金をせびるのではなく、お小遣いだとミキさんが勝手に弓弦のジーンズに金をねじこむ関係であったという。時間はあっさり過ぎて、「じゃあな」と弓弦は僕の頭に手を置いて〈POOL〉を出ていった。
ひとりでこのテーブルにいるのは虚しいので、習慣にならってミルクティーとカウンターに移動した。ミキさんは昼食時でいそがしく、僕は雑誌をめくった。ミルクティーをすすり、夏になったら冷たいのがいいなと思う。アイスミルクティーがここにあるのはメニューで知っている。
しかし、肝心な話、夏にもここに通えているだろうか。親がそう甘くない状況だ。まさか、ここに来ることを理解したりはないだろう。この街に踏みこんでいることで蒼白になる。あのふたりには、何も知られたくない。どう問いただされても、ここのことは僕は黙っている。しかし、何も言わなければ学校に引っ張られる。逃げ出さないよう、やがて送迎でも雇うだろう。
両親はレールに乗らないものが大嫌いだ。弓弦のことを知ったら、どんな罵倒をたたきつけてくるか。自分たちのほうが優れていると思いこむ両親が、弓弦を貶すのも見たくない。
空中を泳ぐ目を雑誌に落とし、甘いミルクティーを飲む。やだなあ、と思う。僕は日に日に、最悪の事態ににじりよっている。
学校と比すとマシでも、家庭もけして良くない。ほかに行き先がなかったせいだ。現在、僕は〈POOL〉や弓弦を知った。ひどい学校のために抑えこんでいた窮屈が表面化しつつある。家にいたくない。帰りたくない。僕はあの虚しい家を、自分の居場所だと思いたくない。
お昼時を済ましたミキさんと雑談したりしながら、そんなのを考えていた。居心地がいいここは、時間の感覚を昇華させる。家や学校ではだるいほどににぶい時間が、ここだと軽やかだ。今日も早くも十六時が近くなった。
帰らなきゃなあ、と思う。ミルクティーを飲みほそうとして、今朝のことを思い出した。両親になじられ、公園で演技し、同級生に遭遇した。
最後は泣き出すほどショックだったくせに、さらっと忘れている。弓弦のおかげだ。このまま帰っていたら、弓弦を失うかもしれない。突きつめて、僕が怖いのはそれだ。
このまま家に帰っていたら、杞憂ではなくなる。あの駅前を通りたくもない。また誰かに遭ったらどうする? 逃げられなかったらぼろぼろで、逃げられても向かう先は家だ。
十六時を過ぎてもスツールを立たない僕に、ミキさんは不思議そうにしても、何も言わない。僕の手のひらは、すがりつくようにカップを抱きしめている。
日が落ちてきても、動けなかった。夕方以降には、客の雰囲気が微妙に変わってくる。変な視線からはミキさんが守ってくれた。「紗月くんがいない時間帯は、弓弦の食事はこことは限らないわよ」とミキさんは言う。緘唇したのち、「邪魔ですか?」と訊く。ミキさんは肩をすくめ、「守っておかないと、弓弦が怖いわ」と言った。僕は少し咲い、けれど心臓はぎゅっとすくんでいる。
どうしよう。帰らないつもりか。帰らなくてどうする。行く場所はない。僕の筋肉は硬直し、理性の脳だけばたばたする。
ついに外は暗くなった。帰りたくても、不用意にひとりでは歩けない状況へと街は目覚めていく。弓弦に逢えるか分からない。しょせん、僕なんかおとなしく帰っていたほうがよかったのか。
そう思ったとき、左隣のスツールに誰か座った。
【第十三章へ】
