安らかな眠り
「紗月」
弓弦に顔を上げる。弓弦は真剣な瞳をしている。
「向こうの心情は、思いやることないんだぜ。紗月の親は、汚辱的に社会から抹殺されて生きるか死ぬかになっても、息子を取り返そうとするか」
息をつめた。弓弦の瞳は見定めるようにまっすぐだ。
「仮に取り返したとして、後悔しない奴らか。あとから恩着せたりしないか」
考えようとしたけど、考えるまでもなかった。僕の両親は、僕を怨む。仕事に打ちこんで、パーティに明け暮れて。僕を奪還したことで、それらを失ったら──
弓弦は、僕を理解してくれる。どこまで踏みこんで確認していいのか、どこからそっと察知に留めるのか。
「弓弦なら、ね」
「うん」
「そういうときでも、僕を選んでくれると思うんだけど」
「え」と弓弦は瞳を狼狽えさせ、けれどすぐに、「外れ」とにっとする。
「俺はもともと、そんな選択に追いこまれるほど紗月を放ったりしない」
僕は一瞬きょとんとし、もっともな意見に咲った。弓弦は手を皿の上ではらうと、「ここにいろよ」と結論をはじきだす。
「学校も行かなくていいし。紗月が嫌なのは、家じゃなくて学校なんだよな」
「え。あ、……うん」
「ごめん、家が一番苦しいみたいに話して。俺が個人的に家が癪だったんで」
弓弦を見る。弓弦の瞳に何か底知れない、ただ暗いものがちらついた。でもすぐに消えて、僕は言うべき言葉を紡ぎ損ねる。
「ま、学校行かなくていいよ。行っちゃダメなんだ。そんなのも分かんねえ家なんかも、帰んなくていい」
「うん」
「無駄に苦しんでも意味ないんだ。何でも経験とか言う奴は、幸せなんだよ。経験しなけりゃ失わずにすんだって場合もあるし、受けないほうがいいこともある。失くしたせいで何が大切か分かるとか言っても、一回もがれりゃ理解にはじゅうぶんだろ。同じことをされつづけんのは、空っぽになるだけで、やっぱ意味ないよ」
「……うん」
「もういいよ。取っとけよ。な」
こくりとすると、弓弦は微笑んで僕の頭をぽんぽんとした。
弓弦の言う通り、僕には学校でのあの経験は必要なかった。あれがなければ、同性愛者であるのを過剰に嫌悪することもなかったし、性を押し殺すこともなかった。いかに性が精神に根をおろしているか、それを引き抜かれたらどれほど心がぐらつくか、その苦しみを痛切に理解しただけだ。でも、普通なら、そんなのは意識せずに恋愛をする。あのことのせいで、僕は性本能を罰して自害させるようになってしまった。
僕はあのことで、人の痛みが分かるとか寛大になれないし、傷つけられた心による価値観なんて持つ余裕もない。自分がちっとも好きじゃない。バカバカしくてみじめだ。男に性虐待されるホモ。皮肉で情けない。僕はいつだって、心のまま消えて、死んでしまいたかった。
悲惨なことだらけだったあのことに、ようやく現れた救いが弓弦だ。絶望して死のうと思わなければ、僕はこの街に来なかった。つまり弓弦に逢えなかった。弓弦は僕の瀕死にひかえていたのだ。僕は幸運だ。そんな相手はいない人もいる。
僕の視線に気づくと、弓弦ははにかむように咲った。僕は咲い返して、いつから咲えるようになったんだっけ、と気がついたりする。
満腹になると、眠たくなってきた。時計は二時をまわっている。パジャマがないので、弓弦の服を借りた。弓弦には服でも、僕にはゆったりしているので、パジャマにちょうどいい。
「紗月のいろいろ買ってこないとな」と言われ、「いいの?」とそうするほかないくせに遠慮すると、「俺と共有する?」と弓弦は笑う。僕がまごつくと弓弦は笑って、「今度、一緒に買いにいこう」と約束してくれた。歯を磨いたりトイレに行ったりして、僕はあくびを噛みながらリビングに帰る。
食べ物の処理は終わったのか、弓弦はベッドの足先に腰かけていた。膝に頬杖をつき、一方の手の中で何かいじっている。僕に気づくと、「済んだか」と顔をあげる。こっくりとした僕は、「それ何?」と訊いた。弓弦が見せたものは携帯電話だった。
「携、帯」
「うん」
「持ってたんだ」
「ビジネス専用な。相手にしろ俺にしろ、面割りたくない仕事とかに必要なんだ。あと、今日みたく急用もつきものだし」
急用になるのか。どうとも言えずに、僕は尻に届いている服の裾をつまぐる。弓弦は携帯をリュックに放ると、「よし」とベッドを立ち上がる。
「じゃあ、俺のベッドでいいよな」
「弓弦は、僕が寝てもいいの」
「いいよ。紗月が寝てるときは寝椅子使うし。添い寝は嫌だろ」
「え。あ、うん」
そうだよな、と思って、その感想を自分で不可解がってしまう。「してもいい?」と悪戯に言われて僕はとまどい、「嘘だよ」と弓弦は笑って僕をベッドにうながす。
「俺、このあと出かけないと」
「え、そうなの」
「うん。今のメールも注意。ほら、その──恋人迎えにいったことになってるだろ。いちゃつきすぎないようにって」
僕はあやふやにうなずく。恋人。僕はこのままそう定着するのだろうか。僕は形式だけ見れば助かっても、弓弦は名実ともに迷惑だろう。否定しないのだろうか。
「俺の影がないと信用ならないって奴もいてさ。行かないといけないんだ」
「そっ、か」
弓弦は僕を窺い、「いたほうがいい?」と訊いてくる。僕は軽く首を振った。もちろん弓弦がいたほうが心強いけれど、わがままを言える身分でもない。「来夢さんに会えたら、お礼言ってね」と言うと弓弦はうなずき、僕はベッドに入った。
ベッドは弓弦の匂いがした。服にはもっと弓弦の匂いがする。何だか弓弦に包まれているようで、つい錯乱しそうになった。悪い錯乱ではなく、息苦しく喉がほてる感じだ。弓弦の匂いに囲まれると、弓弦に緩く抱かれているようで、それはかえって落ち着かないほどの安堵をもたらす。まくらもシーツもふとんも、僕の心に柔らかかった。
僕がふとんに包まると、弓弦はベッドサイドに腰かける。「出かけないの」と心配すると、「すぐってわけじゃないよ」と返される。
「三時間もらったんだ」
「三時間」
「零時から三時間。つっても向こうに帰るのも頭に入れてないとな。あと十分ぐらい」
十分では熟睡に入れないだろう。僕は時間を惜しむほうを取り、弓弦の手に触れた。弓弦はそちらに目を落とし、握り返してくれる。弓弦となら触れあっても怖くない。それが嬉しかった。恥ずかしいほど初段階の行為でも、自分は男とこうするのがいいと、初めて素直に胸が透く。瞳をそそいでくる弓弦に、「次はいつ帰ってくるの」と尋ねてみる。
「昼かな。ミキさんとこ行くなら、そこに合鍵置いとくよ」
そこ、と弓弦が目をやったのはベッドスタンドだ。
「休んでるなら休んでてもいいし」
「うん」
「ごめんな、時間合わせてやれなくて。いつか取るよ」
「無理しなくていいよ。そうして問題起こったら、逆に厄介でしょ」
「ん、まあ」
「ヒマなときでいいよ。僕はもう、ここにいさせてもらうんだし」
弓弦は前髪の奥から僕を見つめ、手を握り直すとうなずいた。僕は微笑み、弓弦の体温を指先から心に、そして全身に流しこむ。
微睡みはまもなくやってきた。それでも僕は、弓弦と言葉を交わしたり、視線を合わせたりするほうを選ぶ。弓弦が腕時計を覗き、ため息をついたのが合図だった。「じゃあ」と手が離れて、弓弦はベッドサイドを立ちあがる。
「ここ静かだし。夜更かしのぶん、寝坊でもしてろよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」と僕が返すと弓弦は微笑し、一度僕の額をさすると明かりを消した。暗闇の中、弓弦がリュックを背負って部屋を出ていくのが聞こえる。外には非常燈がついているのか、ドアが開いたとき、白くほの暗い明かりが部屋に映った。ドアが閉まると部屋は再び暗くなり、鍵が締まり、僕はひとりになる。
弓弦のいない弓弦の部屋は、思っていた通り、寂しかった。僕はまぶたをおろし、弓弦とつないでいた手を大切に胸元に持ってくる。さいわい、僕はかなりうとうとしていて、おとなしく睡魔に身を任せていればよかった。弓弦の匂いが煩悶も寄せつけず、僕はほどなく、ぐっすりと眠りに落ちていた。
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