やすらぐ存在
「弓弦にゲイだって話した?」
「ない、です」
「じゃ、それかな。男は嫌だって言ったんだろ。あれ、でも何でそんな話」
「初めて逢ったときは、いきなり寝ようって言われたんです。ふざけ半分ですよ。それで、その、つい、というか」
「ふうん。じゃ、紗月くんを思いやってんのかな」
来夢さんは髪をいじっていた手をおろす。思いやる。男が嫌な僕を思いやる。それは──
「はは、ごめんね」
「えっ」
「俺の立ち入ることじゃないね。俺は、弓弦と紗月くんには仲よくなってほしいんだ」
「仲よく」
「弓弦はずっとひとりだったし、そろそろ誰かに甘えていいんじゃないかって」
「来夢さんは」
「俺とあいつは友達」
「友達じゃ、いることにならないんですか」
「んー、俺はあいつに抱きしめられたり、手え握らせたりできないし。あいつにも、やすらげるものがあればいいなって思うんだ」
「来夢さんには、あるんですか」
「え」
「『あいつにも』、って──」
来夢さんは頬を硬くさせた。が、すぐに吐息で硬直は解いた。背凭れに体重を預け、「弓弦では埋まんないとこもある」と半眼になる。
「それで俺も、あいつの全部は埋めてやれねえって分かるんだし」
「そう、ですか」
「………、やすらげる場所はね、あったよ」
「え」
「なくなっちゃったんだ」
僕は来夢さんを見た。来夢さんは長い睫毛を伏せていた。僕は思わず動けなくなる。その睫毛は、かすかだけど、震えていた。
「あったんだよ。今思うと、夢だったみたいだけど。現実感なくて、だから、いいのかな。生々しかったら、生きてらんない」
黙りこむ僕に、来夢さんは顔をあげて微笑む。何だか弱かった。
「弓弦が紗月くんを特別に想ってるのは確かだよ。恋人でも友達でも。あいつは、どうでもいい奴と同居したりする奴じゃない」
「そう、でしょうか」
「うん。あいつのそばにいてやってよ。弓弦が俺みたくなるのは嫌なんだ。あいつには、いつも調子いい奴でいてほしい」
即座には答えられなかった。僕は弓弦といたい。でも、弓弦は分からない。弓弦が僕といたいと思っている限り、僕は弓弦といる。「弓弦が僕を離さなかったらいます」と言うと、来夢さんは僕を見て咲った。
僕は膝に乗った皿の目玉焼きをかじり、来夢さんの震えた睫毛を想う。夢みたいに現実感がなく、生々しくないから生きている。弓弦も家庭で何かあったようだ。けっこうみんな、ぎりぎりで生きている。死にたいのは僕ひとりではないのだ。
そのあと来夢さんは、「週末の体力溜める」と僕が寝ていたベッドにもぐりこんだ。食器を洗った僕はガラス戸に立って、小雨が続いているのを確かめる。今日は〈POOL〉に行くのはよそう。風邪を引くと厄介だ。漫画数冊を連れてカウチに座ると、来夢さんの寝息と雨音を遠い音色に本にふける。
昼食を終えた昼下がり、満腹感にカウチでひと息つこうとしていると、弓弦が帰宅した。僕が暮らしはじめて、弓弦はこまめに帰ってくるようになった。カウチを立ちあがってそちらに駆け寄り、「おかえり」と出迎えると「ただいま」と弓弦は笑みを作る。
「いたんだ」
「うん。雨降ってるし」
「そっか。雨強くなってきたぜ」
弓弦は湿った髪をかきあげ、服の水滴をはらう。来夢さんには何ともなかったのに、弓弦が雫を落としているとどきどきする。
「タオル、持ってこようか」
「ああ。頼む」
僕は急いで洗面所からタオルを持ってきて、「サンキュ」と受け取った弓弦はそれで髪や服の水滴を軽くたたく。
「あいつ、来てんだよな」
「あ、うん。寝てるよ」
「薄情な。って、俺も寝るか。すげえ眠い」
「一緒に寝るの」
「ご冗談を。カウチで。紗月にはクッション貸してやるよ。床で我慢してくれる?」
こくんとすると、「よしよし」と弓弦は僕の頭に手を置き、スニーカーを脱いで部屋に上がった。僕は弓弦の隣を追いかける。弓弦はあくびを噛みつつ、来夢さんのいるベッドを覗きこむ。
「寝てるかな、ちゃんと」
「さっき寝息が」
「っそ。よかった」
「よかった」
「こないだまでこいつ、寝たくても寝れない状態だったし」
来夢さんを見下ろす。色素の薄い、柔らかそうな髪の後頭部が覗ける。
寝たくても寝れない。眠りの糸口をつかめないのは僕もままあるので、可能性は何でも思いついた。そしてそれは、来夢さんが傷口を持つのを意味する。
弓弦は特にパジャマとも呼べない服装でカウチに横たわった。弓弦は身長があるので、どうしても長い脚がはみだしている。僕は弓弦のまくらもとに座る。
「同じ部屋にふたりの人間が寝てるって、何かやだな」と苦笑した弓弦に、「休めるときに休んだほうがいいよ」と僕は返す。うなずいた弓弦は、「おやすみって言ってよ」と甘えてくる。僕は弓弦を見つめ、「おやすみ」とはにかんで言った。弓弦は満足そうに笑むと、「おやすみ」とまぶたをおろして眠ってしまった。
しばらく、その無防備な寝顔に瞳をそそいでいた。弓弦は家庭に何かあった。家を捨ててようやく、そうした安眠をむさぼれるようになったのかもしれない。だとしたら切ない。十三歳の自立なんて、弓弦の心には遅すぎたのだろうか。弓弦がそういうふうに眠れるようになって、本当によかった。
雨がやんできた夕方過ぎ、先に目覚めたのは来夢さんだった。天気のせいか肌寒く、僕は熱いココアを飲んでいた。弓弦はまだすやすやとしている。きしめきでベッドを見ると、身を守るようにうつぶせに寝ていた来夢さんが、肢体を伸ばして仰向けになっていた。
髪をかきあげ、ぼうっと天井にやる目をこすり、息をついて、視線を感じたのかこちらを向き、「あー」と不明瞭な声をもらす。何と返せばいいのか、ひとまず来夢さんの感覚に合わせ、「おはようございます」と言った。
「ん、おはよー……。はあ。寝たな。久しぶり」
来夢さんはベッドの上をごろごろする。僕は残り少ないココアをひと口飲み、「コーヒーでも作りましょうか」と来夢さんに言う。来夢さんはこちらを向き、「弓弦が怖い」と答えた。
「弓弦、ですか」
「紗月くんを使うと」
「………、僕が言ったんですし」
「そお。じゃあ、頼もうかな」
僕はココアを飲みほし、ついでにそのカップを持っていった。コーヒーを作るといっても、インスタントだ。それを断るのと一緒に、砂糖の数を訊く。「ふたつ」と言われてそうしたコーヒーを、起き上がった来夢さんに持っていく。「ありがと」と来夢さんは受け取り、口をつけた。
弓弦のそばに戻るか否かに迷い、ベッドサイドに座った僕に、「弓弦はあっちだよ」と来夢さんは首をかたむける。
「え、あ、邪魔ですか」
「俺はいいけど」
「じゃあ、弓弦、眠ってますから」
「そ。あいつ、いつ帰ってきたの」
「お昼過ぎです」
「よく働くよなあ。俺の倍は稼いでるくせに。俺はたまに休まないと心身持たないよ」
「来夢さんの仕事って、普通より疲れますよね」
「まあね。絞り取られるし。ま、俺は絞りカスになっても問題ないんで、どうでもいいんだけどね」
来夢さんはコーヒーを飲む。まずい、とかはないようなのでほっとする。絞りカスになっても問題ない。その意味を訊くに訊けずにいると、「俺はプライベートではやらないんだ」と来夢さんは僕をすくいとる。
「売るときにしかやらない。男とな。女とはしないんだ」
「女の人が、好きなんですよね」
「うん」
「しなくて、いいんですか」
「ある女に義理立てしてんの。どうせ、そいつとしかダメだし」
ある女。いつだかミキさんがしていた、来夢さんには別れた恋人がいるという話が思い返る。
「女だといろいろ厄介じゃん」
「厄介」
「子供とかさ。俺、子供は絶対欲しくないんだ」
それは分からなくもない。子育ては半端でなく大変そうだ。才能がいる。たとえば僕の親は、いつまでも育児に素人だった。
「からからになっていいんだ。精力を仕事で使い果たせる。残ったってどうせ使わない。向いてると思うよ。弓弦にも言われたし」
「弓弦に」
「俺が男娼始めたのって、弓弦の勧めなんだ。その前は自分が男娼になるとは思ってもなかった。つっても、弓弦みたく冷静に頭使うのもダメだろうなって。将来何して生きててんのか分かんなくて、不安もあった。男娼も年食ったらできないんだけど、そのときは売春関連の仕事に移ると思う。稼げるときに稼いで、余生を保障してもいいし」
将来何をしているか、というくだりに、僕は自己投影で考えこむ。それは僕にも言える。まさか弓弦が一生面倒を見てくれるわけでもないし、僕は将来、どうやって食べているのだろう。
「弓弦が友達だったんで、安全に男娼になれたんだ。じゃなかったら、出世のあてもない街娼から始めなきゃいけなかった。そしたら、病気もハードプレイも隣合せだぜ。成り上がりのぶん、最初はお姐さんにも男の子にも嫌がらせされたよ。でもそれは一種の洗礼だし、やばい客よりマシだった。あいつが面倒見てくれたのは感謝してる」
弓弦を見やる。ここで覗けるのは、はみでた脚だけなのだけど。
「弓弦ってすごいんですね」
「まあね。あいつはたらしでやたら顔広くなって、その中にえらい人とかもいたんだよな。で、そういう人のお遣いっぽく仕事を始めて、生き残ってひとり立ちしたと」
「生き残る」
「弓弦の仕事って、引き受けといて詐欺とかやれるし。でも、弓弦はひたすら堅実にやって、こいつなら任せられるって思われていった。この街がやばいとこでも、安全に運ばせたいことはいっぱいあって、そこに弓弦が現れたと。結果的には詐欺師より稼いでるよ。えらい人も、今はパシリじゃなくて依頼ってかたち取ってるし」
弓弦の仕事を知らない僕には、よく分からなかった。来夢さんは、コーヒーを飲んで寝ぼけまなこを開いていっている。僕はあまり期待せず、「弓弦の仕事って何なんですか」と尋ねてみる。
「え」
「弓弦の仕事、です」
「あれ、知らないの」
「はい」
「何だ。あいつは──」
来夢さんはあっさり言おうとして、ふと口をつぐみ、弓弦のいるカウチのほうを見た。一考して僕と顔を合わせると、「弓弦に訊きなさい」と言ってから、ベッドを降りた。シャワーを浴びるそうだ。来たときも浴びたのに、と思っても、来夢さんの仕事は軆を清潔にしておくに越したことはないのか。来夢さんは僕に飲み干したカップを渡し、「おいしかったよ」と微笑むとバスルームに消えた。
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