ボーダーライン

 猫が怒っているみたいに、ふーっ、ふーっ、と息を吐きながら、浴槽に水が溜まっていくのを見ていた。
 右手には果物ナイフを握りしめて、左手には腕や手首からの血をしたたらせている。
 もう、分かんないや。生きてる意味が分かんない。死なない意味も分かんない。
 あんなのが父親なのも分かんない。助けてくれない母親も分かんない。私がここにいる理由も、ぜんぜん分かんない。
 安アパートのユニットバスだから狭い。マットも敷かれない剥き出しの床には、びしゃっと音を立てて、肉塊みたいな血だまりが飛び散っていく。
 ろくに掃除されていなくて黴びているけど、それでも一応白基調のタイルに、赤黒い血は生臭く立ちのぼる。七月になったばかりなのに、空気はねっとり蒸している。
 自分の目が、虚ろにぼやけているのが分かる。蛇口から飛沫を上げて、浴槽に水が溜まっていく。
 ふらふらしていて、裸足の足元が血だまりですべりそうになった。はっと洗面台をつかみ、力を入れた拍子に、さらにどす黒く血が薄い桃色のワンピースにはね返る。
 私は、また、猫みたいに強く呼吸した。
 ずっと死にたいと思ってきた。だけど、もはや、いちいち死ぬのも嫌になった。握りつぶす灯火もない。その虚しさが、私にこのナイフをつかませた。
 浴槽になみなみに水が溜まる。蛇口を捻って止めた。深呼吸して、右の爪先を冷水に浸す。軆はどろどろに汗ばんでいたから、ひんやり心地よかった。服も着たまま、ナイフも持つまま、血も垂らすまま、私は水風呂に入る。
 左手の指先から流れる毒々しい赤が、夏の夜空の花火みたいに、ぶわっと水中に広がる。息を吐いて、ゆっくりと身をかがめて、水風呂に浸かる。鉄を帯びた臭いの深紅が、長い髪にまとわりつきながら、水の中に立ちこめ、浴槽を血に染めていく。
 壁に背中を預けて、左腕をゆっくり掲げた。それから、右腕を持ち上げて、ナイフを当てた。
 死ぬかな。死ねるのかな。切ったくらいじゃ生温いかも。手首にナイフをぐっさり刺したら、さすがに死ぬよね。
 私はいつのまにか浅くなっている息をもらしながら、すでにぱっくり開いた生傷めがけて、ナイフを突き立てた。
 がらん、と濁った音がした。ナイフが落ちた音。浴槽の底に、落ちた音──
「起きた?」
 透明感のある凛としたそんな声に、はっと目を覚ました。
 まぶたを押し上げた先にあった、インディゴブルーの空に息をのんだ。見たこともない、深い空の色だった。夜明け前だろうか。
「ほぼ死んでるねえ、君」
 私は声をたどって、右隣を見た。
 透けて溶けそうな波打つ金髪に、黒のレースのヘッドドレス。軆のラインが分かる、黒のミニドレス。黒のニーハイに、黒いエナメルのヒール。そんな見るからにゴスロリの美少女が、青い瞳に私を映していた。
 しゃべったから、もちろん生きているのだろうけど。それでも、その青い瞳がまったく輝いていなくて、模造ガラスみたいで、人形かな、と思ってしまう。
 淡い月明かりの中で、彼女は細い首をかたむける。
「どうすんの、たった十三歳でこんな世界に来て」
 私はかすかに眉を寄せて、あたりを見まわした。
 何もないことに驚いた。いや、藍色の空と草の大地はあるけれど、ほかには何もないのだ。前後左右、草原がさあっと広がっていて、涼しい風にはその青い匂いがする。
 どこ? ここはどこ?
「終わってるね。終末世界でさえないか。逆に更地じゃん」
 美少女は意地悪そうにくつくつ笑ってから、ぽかんとしている私を覗きこんだ。こんな原野にはそぐわない、ほんのり甘い香り。
「さあ、自殺をしたら、その魂はどんな処理になるでしょう?」
「……私、死ねたの?」
「正解は、消滅です。自分で自分の魂を踏みにじるなんて、存在価値もありません」
「………、存在価値がないから、死ぬんだよ」
「それでも生きることが、人間としての理なの。さて、君はどうする? このまま、消滅いっとく?」
 うつむいた。
 消滅。それがいったいどんな感覚なのか、よく分からなかったけれど、どこか「死ぬ」とは違うような気がした。
「あなたは……何?」
「は?」
「何で、今、私のそばにいたの?」
「担当だから」
「担当……」
「君の担当、ほんと嫌だったわ。胸糞すぎて」
「私の人生を見てたの?」
「そんなとこ」
「……確かに胸糞だね」
「君の人生には、どうこう言わないけど、君の頭の中にはうんざりしてた」
「私の親は見てないの?」
「見てたよ」
「……じゃあ、しょうがないでしょ」
「そういうとこが嫌だった」
 私は息をついた。何となく左腕を見て、あの無数の傷がないことに気づく。
「ここは死後の世界なの?」
「その手前ってとこかな」
「………、じゃあ、消滅でいいよ」
「やりたいことないの?」
「え」
「やり残したことはほんとにないんだね?」
「……私は死にたいだけ」
「そお」
 美少女は、すっと背筋を伸ばす。風に金髪がふわっとなびいて、不意に、何もないところからあふれるようにその背中に翼が現れた。
 その翼は、ふさふさの羽根におおわれていたけど、黒かった。
「……あなた、悪魔なの?」
「天使だよ」
「真っ黒だけど……」
「穢れてんだよ。君みたいな人間から闇が感染してくるの」
「………、ごめん」
「謝るくらいなら、せめて生きてほしいわ」
 またうつむきそうになり、ふと、睫毛の隙間にきらきらした光を感じた。顔を向けると、遥か先の地平線に、じわじわと金色が滲みかけていた。その周りが次第に橙色になり、桃色になり、藍色と溶け合って、空色が始まっていく。
 見たこともない、美しい朝焼けだった。私はそれを見つめ、急に膝に顔をうずめた。嗚咽が引き攣って、涙が数滴こぼれる。
「逃げたかったなあ……」
「ん?」
「私、あの家から逃げたかった」
「………、」
「それだけでよかった」
 美少女は私の前にまわると、腰に手を当てて身をかがめてくる。
「あるじゃん、やりたいこと」
「えっ……」
「生きてたら、逃げられる。ここで死んだら、君は墓場はあの家の中」
 私は目を見開く。美少女はにやりと笑うと、「よし!」と私の手をつかんで引っ張った。
「逃げろ。君は逃げられる。あの地平線まで行ける」
 同じ視線の高さになって、そう言い切った美少女は、優美な指先を空中に踊らせた。残像のように光が描かれる。ドアのような長方形ができあがると、美少女は目を閉じて、線の中に手を触れた。途端、風が流れこんでくる。
 金属的な、血みどろの、あの臭い──
「僕は君を見てるから」
 柔らかい風が私に巻きつく。奪うように光の中にさらっていく。そんな私の背中に、そんな声がかかったような、空耳だったような……
 ざばっと、水中に潜っていた頭を上げた。血染めの浴槽の中で、私は死にかけたまま生きていた。
 麻痺していたような左腕に、急に冷水が沁みて痛む。
 死ねなかった、と思った。なのに、なぜか、がっかりしない。どこか、ほっとしている自分に驚いた。
 何で。もう私には、生きる意味はないのに──……
 水中に突っ伏していたあいだのことは、ノイズのような頭痛しかなくて、何も思い出せなかった。ただ、こんなんじゃダメだ、と思った。一番最初に死んじゃダメだ。死ぬのは手詰まりになってからでいい。私はまだ、この足で立てるかを、歩けるかを、走れるかを試していない。
 赤い水を排水溝に流し、腕にはタオルを巻いて、ユニットバスを掃除した。
 今、家に誰もいない。自分のかばんなんて持っていないから、干してあったエコバッグに、着替えとか必要なものを詰めこんだ。靴もないから、裸足で玄関の扉を開けた。
 逃げられる。
 私は逃げられる。
 人がいる道を歩いていたら、駅に出た。腕の痛みに少し息が上がって、うずくまった私に声をかけてくれた人が、出血に気づいて救急車を呼んでくれた。救急隊員の人に、父のことも母のことも、何もかも話して、的確に対応してもらえた。
 入院のあとに連れていかれた養護施設は、居心地のいい環境とは言えなかったけど、そのぶん十八になったら出ていってやると思えた。二十歳のとき、日本を飛び出してバックパッカーをして、私は遊牧民が暮らす草原が広がる国に来た。
 あまりなめらかには言葉は通じなくても、何とか現地の人とコミュニケーションし、私は旅客用のコテージを借りてひと晩を過ごした。明け方に目を覚まし、バルコニーに出ると、ちょうど地平線から朝陽がのぼりはじめていた。
 燃えている太陽を見つめて、その光を顔に浴びて、なぜか既視感を覚える。でも、どうしても、どこでその力強い光を見たのか思い出せない。
 ずいぶん遠いところまで来れたな、と感じた。幼い頃、私にはむごたらしい家の中しかなかった。けれど、もうあの家がどうなったかさえ知らない。私はすべてを投げ出して、遠い国で地平線を見ている。
 夜が終わっていく。
 朝が始まっていく。
 夜が朝になる境界線。
 私はあの地平線をずっと探してたんだ、と噛みしめて思い、生きていく力が湧いてくるのを感じた。

 FIN

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