虚貝-25

いつか恋をしたら

 弓弦は、最近僕が思い悩んでいるのを案じている。隣の来夢さんは理解しているようだ。「俺に言ってどうかなるなら言えよな」と弓弦は言い、僕は不明瞭に咲うしかできない。
「俺が何かしたと思う?」
 僕を覗きこんでいた上体を起こし、弓弦は来夢さんと顔を合わせる。夕方近くて、客の雰囲気が変わりかける頃だった。僕たちはこの場で、それぞれ朝食や夕食を取っている。
 スクランブルエッグをすくっていた来夢さんは、「さあね」とスプーンを口にふくんだ。弓弦は眉根を寄せるまま、ハンバーグを食べる僕に目をやる。弓弦の食事はミックスサンドイッチだ。
「俺が悪いのか」
 首を振った。「嘘つかなくていいんだぜ」と言われてうつむいた。「紗月くんを嘘つきにしてどうする」と来夢さんが言い、弓弦は気がついた顔になってそれは謝る。
「じゃあ何? 変な奴に絡まれたとか」
 かぶりを振る。そういう危険はすっかり減った。巷では、僕は弓弦の恋人だ。
「でも、何かあったんだろ。何か、急じゃん。そうなったの」
「弓弦」と来夢さんに呼ばれ、「ん」と弓弦は顔を上げる。
「紗月くんだって、詮索されたくないことがあるだろ」
「詮索」
「してるよ、お前」
 弓弦は自分の詰問を思い返し、否定には結べなかったようだ。ばつが悪そうに僕に謝罪すると、ため息と向こう側に沈む。アイスコーヒーをストローですすった来夢さんは、「お前って、紗月くんが関わると熱血」とつぶやく。
「熱血!?」
「熱血じゃん」
「失敬な。俺は──、……そうかなあ」
「もうちょっと、ほかの奴にするみたいに冷静になれよ」
「何で紗月をほかの奴と一緒にするんだよ」
「──だって、紗月くん」
 僕は困った視線をうつむけた。深読みしたくなってしまう。
「紗月くんを特別にすんのはよくても、接し方考えろよ」
「心配なんだよ」
「お前だって、露骨に心配されたって迷惑なことあるだろ」
 弓弦は口ごもり、サイダーに口をつける。そして一考すると、「ごめん」と僕に言った。僕はまた首を振った。弓弦は僕のその反応を見つめ、吐息と頬杖をつく。来夢さんはその弓弦を小突き、弓弦は来夢さんを見た。
「俺、ってさ」
「ん」
「もしかして、紗月に対してださい」
「うん」
「お世辞言えよ」
「何で俺がお前に愛想使うんだよ」
 弓弦は来夢さんと見合い、「ださいよなあ」と自認してサンドイッチを手にした。来夢さんは肩をすくめている。
 僕への心配をちらつかせつつ、弓弦は話題をほかに移した。来夢さんの仕事の具合や世間話、以前ここで僕に嫉妬をぶつけた男の子の話も出た。「あいつ、ゲイだったかなあ」と首をかしげていた来夢さんは、ひと足先に勤めに出かけた。
 残った僕と弓弦は顔を見交わす。外はすっかり暗くなっていた。
「弓弦は、仕事いいの?」
「夜中までヒマだよ」
「そっか」
「どっか行ってほしい?」
 うなずけば実行しそうに不安げな弓弦に、僕は慌ててかぶりを振った。「一緒にいたい」と言うと弓弦は嬉しそうに咲い、「部屋帰ろっか」と立ち上がる。僕はこくんとして、ミルクティーを飲みほした。支払いをした弓弦は僕と店を出て、すくみそうな人混みを部屋へと縫っていく。
「はぐれるかもしれないから」と弓弦は僕の手を取った。はぐれたら怖い、と心に弁解して僕は弓弦の手を握り返した。弓弦の熱が伝わってきてどきどきする。弓弦は僕を見おろして微笑んでくる。「何?」と照れ咲うと、「紗月とこうできるのいいな」と弓弦は言う。
「え」
「紗月がそばにいるの許してくれると、ほっとする」
 弓弦を見つめた。今度は弓弦のほうが照れ咲いした。こういうとき、あのことがなくてゲイを素直に認められたらなあ、と思ったりする。
「ごめんね」
「えっ」
「いろいろ、考えちゃって。弓弦が心配してくれるのは嬉しい」
「ほんと」
「うん。ただ、気持ちをどう説明したらいいのか分かんなくて」
 弓弦は愁眉し、僕はちょっと咲う。
「僕のも、ごろごろしてるんだよね。弓弦みたいにうまく開き直れなくて」
「……うん」
「弓弦といると、嫌なことが薄くなる。弓弦は何にも悪くないんだよ。ていうか、いてくれないと困る」
「いるよ」と弓弦は僕の手を握りしめた。僕が握り返すと、弓弦は子供みたいに咲う。そこに性的なものは何もないのだけど、僕の心臓はむしろ深く刺激される。弓弦がわだかまりなく咲ってくれると、安心できた。僕がいればそうして暗いものを追いやれるのなら、僕はいつでも弓弦といてあげたい。
 ビルに着くと、僕たちはそっと手を離した。僕は手持ち無沙汰になっても、弓弦は煙草に火をつける。「煙草っておいしい?」と訊くと、「してみる?」とさしだされる。僕は遠慮して、十歳から吸って早死にしたりしないかな、と弓弦の軆を愁える。弓弦にさっさと死なれたら、僕はどうしたらいいのか分からない。やってきたエレベーターに乗るときには、弓弦に腕を引かれた。
 十七階まで相乗りがないと、ささやかに幸福なのだけど、あまりあることではない。乗ってきた人は、弓弦の顔見知りが多く、僕についての質問は、「誰ですか」から「例の子ですか」になってきている。弓弦は相手によって返答の仕方は変えても、否定はしない。興味深そうに眺められると僕はうつむいて、弓弦がさりげなくかばってくれた。
 十七階でエレベーターを降り、弓弦は僕を部屋へとうながした。僕は靴を脱ぎ、弓弦は手を伸ばして明かりをつける。「夜中って、いつぐらいに出かけるの?」と訊くと、「零時過ぎかな」と返ってくる。零時過ぎ。寝ちゃうなあ、と思うと、「何で」とスニーカーを脱いだ弓弦は首をかしげる。
「途中で眠たくなりそう」
「はは、いいよ。気にすんなって」
「起きてられたら起きてるね」
 弓弦は咲い、明確には返答しなかった。リビング兼寝室に行くと、僕はカウチに座り、弓弦はカーテンを閉める。僕の隣に来ると、弓弦は何だか笑みになる。
「何」
「紗月とここでゆっくりすんの久しぶりだな」
「そう、かな」
「そうだよ。帰ってきても、紗月はミキさんとこに行ってるとか、寝てるとかが続いてたじゃん」
 僕はこの数日を思い返し、うなずいた。それで弓弦は昨日の夜、このカウチで落ちこんでいたっけ。
「一緒に暮らしてるわりに、すれちがってんの多いな」
「前よりは一緒にいられてるよ」
「うん──」
 弓弦は煙草をふかし、少し言いよどんだあと、「大丈夫?」と僕を向く。僕は質問の意味が測れず、「何が」ときょとんとする。
「いや、その、ここに暮らすようになって」
 僕はまばたきをし、「落ち着いてるよ」と答える。
「そっか。何か──ごめんな、しつこくて。紗月悩んでるしさ。ここに住むようになったせいかな、とか」
「ぜんぜん。助かってるよ」
「よかった。気になってたんだ。俺の気持ちに走って、紗月の気持ち考えなかったかなって。いたくなきゃいなきゃいいって、俺の感覚だもんな。俺はずぶといんで単に逃げ出せばよかったけど、紗月は後ろめたかったり、背中が怖くなったりするかもって」
「僕の親は、僕がこんなとこ来れないってきっと信じてるよ。後ろめたくはない。あの家よりここのほうが家だって感じるし」
「ほんと」
「うん。ごめん、弓弦の部屋なのに」
 弓弦は首を振り、「紗月の部屋だよ」と僕の髪を撫でる。僕は含羞しながら一笑する。
「ここにいて、不安なことない?」
「平気。悩んでるのも、ここであったことじゃないよ。あっちでの、忘れられないこと。前より考えごと減ったよ。あっちでは、どんなに落ちこんでも、弓弦みたいに心配してくれる人はいなかった。ここなら、弓弦とか、来夢さんもお話してくれる。あっちに帰りなさいって言われるほうが怖いよ」
「それは言わない。紗月がここにいるためだったら、何でもしてやる」
 僕は咲って、弓弦も咲う。「よかった」と弓弦は僕の髪から手を引く。
「俺の考え、無理に押しつけたかって思った」
「押しつけてくれてよかったよ。僕、自信ないしね。断言してもらうぐらいでちょうどいい。弓弦の言うことは、僕がずっと怖くて言えなかったことと同じだよ。弓弦がそうだって言ってくれると、僕も自分の気持ちが正しいんだって信じられる」
「そう、か。俺は、自分は動物みたいなだけのような」
「大切だよ。いたくないとこにはいたらいけないとか、僕あっちにいたら、家と学校の行き来に縛られて、そんなのも実行できなかった。心守るためには、常識とか気にしてたらいけないんだよね。弓弦がいろいろ教えてくれる」
 弓弦は決まり悪そうにして、「行き来外れたのは紗月じゃん」と煙草を吸う。
「登校拒否で」
「ぎりぎりに来て、やっとだよ」
「すごいよ。極限越えたってうずくまってる奴もいる。腰抜けならまだしも、追いかけられるのが怖いとか、逃げる気力もないとか、動かないというか動けない奴も」
「そう、かな」
「俺もここで何年も暮らしてるし、ぎりぎりの奴は見てきた。ヤクでボロ切れになってるのとか、いくら人殴っても無表情のとか、自分をがらくたあつかいで淫乱になってるのとか。昨日普通に話してたら、次の日に自殺したのとかもいる」
「仲良かったの?」と訊くと、「売春斡旋の客」と弓弦は返す。「どう思った?」と問うと、「別に」と弓弦はすげなく言う。
「自殺にしろヤケにしろ、そうなっちまう精神状態は自分で知ってるんで、ビビったりはしない。同情もない。俺にそいつらの苦痛の深さは分かんないし、分かんないんでとりあえず憐れむのはふざけてるし。ああそうって虚しい目を向けるだけ。乗り越えた奴には、素直にすごいなと思うよ。来夢とか」
「来夢さん」
「あいつにしたら、まだちっとも乗り越えてないのかな。俺は、今あいつが生きてることですべてに勝ってると思う。あいつは、……何なんだろうなあ」
 メロドラマ、のことだろうか。夢みたいで現実感がないから助かっている、とも聞いた。どんなことだったのか気になりはしても、相変わらず渇望ではない。
「それって、メロドラマみたいなの」
「は?」
「来夢さん、自分が苦しかったことはメロドラマみたいって言ってたよ」
「話聞いたのか」
「ううん、それだけ」
「………、メロドラマ──なあ。どうだろ。十六年生きてて、俺はあいつが受けた以上の衝撃は知らんレベルだし」
 普通の十六年と弓弦の十六年は違う。だいぶ話と違うな、と思っても、弓弦は来夢さんの視点に沿っているのかもしれない。
「弓弦は、来夢さんが大事なんだね」
「ん、まあ。言うと照れるな。あいつには言うなよ」
「うん」
「大事だよ。あいつがいたんでどうにかやってきた。あいつのためなら何でもしたい。もし自力ですべきことなら、そうできるように励ましたい」
 僕はうなずき、心ではうらやましくなる。そういう人がいれば、僕もずいぶん記憶に溺れなくなるのだろうか。
「俺は、そういうふうに想える恋人を捜してるんだろうな」
「え」
「ほら、たらしのふりでさ」
「あ、ああ──うん」
「あいつがいるんで何人もとは欲張らなくても、恋人は欲しいな」
 弓弦の横顔を見つめる。
 恋人が見つかれば、弓弦は僕をどうするのだろう。ないがしろにはせずとも、ここに暮らすのは遠慮してほしいと言うかもしれない。弓弦にそう言われて、僕は断れる立場ではない。おとなしくここを出ていって、そのあと、どうなるのだろう。弓弦に誰かいてあげてほしくても、そうなると複雑だというわがままな私情もある。
「何?」とこちらを向いた弓弦に、一瞬うつむき、「見つかるといいね」と軽い嘘をつく。
「弓弦に認めてもらえる人がたくさんいたら、何か、良さそう」
「はは、俺にはな。ほかの奴にもそうかは分かんないよ」
「僕にも、そういう人見つかるかな」
「えっ」
「弓弦に誰か見つかったら、僕、寂しくなるね。僕も誰か見つけておかなきゃ」
「あ──、うん。そっか」
「誰か見つけても、友達ではいてくれる?」と訊くと、弓弦は即座にうなずいた。「よかった」と僕が笑むと、弓弦は僕を見つめる。首をかたむけると弓弦は咲いながら頭を振り、「紗月の恋人ってどんなかな」と煙草を灰皿につぶす。どんな──答えられずに浅く睫毛を伏せると、「あ、それよりさ」と弓弦は話を転換し、もう恋人の話は出さなかった。

第二十六章へ

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