虚貝-28

気を引き締めて

 翌朝目覚めると、弓弦がカウチで熟睡していた。いつ帰ってきたのか分からなかった。思うよりぐっすりしていたようだ。時刻は七時半を過ぎたところだった。弓弦が眠って、何時間も経っていないだろう。夕方までヒマと言っていたし、一緒に過ごすのは昼からでもいい。僕は弓弦の体調を想い、物音を殺すよう努めた。
 近頃、汗を落とすために朝からシャワーを浴びるのが日課になっている。部屋にエアコンはあるのだが、リモコンが見当たらない。どこかにしまっているのだろう。どこにあるのか訊いておこうと思いつつ、気づくと忘れている。さっぱりしたら服を着て、ベッドサイドでトーストとミルクティーの朝食を取る。
 食器を洗いながら、弓弦が起きるまでどうしようかなと思う。昨日僕は、弓弦に告白をしようかとさんざん悩んでいた。僕はカウチのあるほうを向き、弓弦疲れてないかな、と気弱に走る。疲れていたとしても、今熟睡して体力を取り戻しているのか。そして、めずらしく夕方までゆっくりしていられる。
 食器を片づけた僕は、読書でヒマをつぶそうと棚の前に立った。ここの本を読み尽くしたら、本を買ってもらおうかと思っている。CDも並んでいるけれど、邦楽にしろ洋楽にしろ、ジャケットから察するにロックだ。とりあえずクラシックはない。クラシックが聴きたい、なんて笑われるだろうか。そういうつもりでクラシックを好んでいたわけでもなくも、金持ちの息子って感じだしなあと三冊の本を選んでベッドに横たわった。
 弓弦が起きたのは昼前だった。背伸びしようとして、カウチを落ちかけて焦っていた。思わず笑うと、弓弦はこちらに軆を起こす。「笑っただろ」と言われ、僕は答えずにまた咲った。息をついた弓弦は目をこすり、壁の時計をあおぐ。「寝すぎた」とつぶやいくと、無造作に頭をかく。
「紗月、いつ起きた」
「ん、七時半ぐらい」
「あー、もしかして俺が起こした」
「ううん。自然に」
「そっか。いや、七時頃に帰ってきたんだよな。うるさかったかと」
 七時。その時刻の帰宅はすでに何度もあっても、昨日出かけたのは午前十時頃だ。「遅かったね」という感想もおかしくない。
「向こうの奴らと会うの久しぶりだったしな。遊ぼうぜと引っ張りまわされていた。俺はあっちのノリにはついていけんっつうのに」
「こことは違うの」
「ぜんぜん。こっちは、娼婦だのダンサーだの、玄人好みの遊び場じゃん。あっちは、クラブとかライヴハウスが多い。こっちより外の奴が出入りして、淫売専門の場所ではないんだ。宿がつながってるとこがあって、そこにちょっとうろうろしてるけど」
 この街一体が売春でおおわれているわけではないのか、と鼻白む。
「あーあ、疲れたな。七時半か。分かんなかった。爆睡だったか」
「コーヒー作ろうか」と申し出ると、「お願い」と弓弦は僕の言葉に甘えた。僕はベッドを降り、キッチンでインスタントコーヒーを作る。仕事はしたのかな、と思ったけど、そこはそれでしたのだろう。湯気を立てるカップを、背凭れに沈む弓弦に持っていくと、ベッドとカウチで迷い、わざわざ離れるのは感じが悪いかと弓弦の隣に座る。コーヒーをすすった弓弦は、「うまい」と僕に微笑み、僕ははにかんで咲い返した。
「紗月は大丈夫だったか」
「僕」
「ひとりでさ。ミキさんとこは行かなかったんだろ」
「あれ、知ってるの」
「あそこでメシ食って帰ってきたんだ。ひとりで大丈夫だった?」
「ん、うん。まあ」
 昨日──は、告白について悩みまくって、時間の飛びはあった。歯切れの悪い返答に、「何かあったのか」と弓弦は愁眉になる。
「と、いうか。さらっと元気になるのもむずかしいし」
「……そっか。ごめんな、そばにいられなくて」
「ううん。深刻にはならなかったよ。ちゃんと眠れたし。怖い夢見ると、いつもしばらく眠れないんだ。昨日は怖くなかった。弓弦のごはんもおいしかったし」
「そっか。もう昼だな。起きたの七時半なら腹減ってないか」
「ちょっと」
「シャワー浴びたら、何か作ってやるよ。今日はここにいるんだろ」
「うん。弓弦は」
「俺も。出かけるの十八時頃だし、夕飯も作れる。あー、半日ものんびりできるってめずらしいな。昔はあいつと一日中ぼーっとしてたのに」
 あいつ、とは来夢さんか。開放的に大息する弓弦に、のんびりしたいよなあと小さく息をつく。あんなことを話したら、弓弦の気分を害してしまうだろうか。
「弓弦」
「んー」
「今日はゆっくりしてたい?」
「え」
「疲れてる?」
「いや、別に。寝たのは寝たし。のんびりするって、どっか遊びにいってもいいって感じだし。何で?」
 弓弦と顔を合わせる。不思議そうな面持ちが浮かんでいる。
 どうしよう。話して悪いことになったら。弓弦なら受け入れてくれると思った。万一、そんなの話されても迷惑とか、混乱させるとか、信じてくれないとか、みんなと同じ解釈をされて、僕がいたたまれなくなったら。
 弓弦との関係が壊れるのだけは嫌だ。固まる僕に怪訝そうにし、「何?」と弓弦はコーヒーをすする。
「……あの、」
「うん」
「話、が」
「話」
「話したら、弓弦といられなくなるかも」
「そんなん俺が抵抗してやる」と弓弦は言う。僕は不安で弓弦を見つめる。
「僕が、鬱陶しくなるかも」
「失敬な。ありません」
「分かんないよ」
「いや、分かる。紗月が俺といたくなるんなら、どうもできなくても」
 口をつぐむ。この話を弓弦に笑われたり、ないがしろにされたら、分からない。嫌いにはならない。ただ、初めて心を許した人であるぶん、ショックがひどくて顔を合わせるのがつらくなると思う。僕のだんまりに、弓弦は焦った顔になる。
「何、俺といたくないのか」
「ん、ううん」
「黙ってんじゃん」
「………、変な話で」
「変」
「弓弦が笑ったり、どうってことないって言ったりしたら、僕怖いよ。弓弦にそんなこと言われたくない」
「じゃあ、しないよ」
「僕に言われたからって、無理やりしないのは嫌だよ」
「言われてなくてもしないって」
「何で分かるの」
「紗月を傷つけたくないと思ってるからだろ」
 弓弦を見る。目が合うと、弓弦はちょっと照れた。「キザか」と恥じ、僕はかぶりを振りながら、どうしてだろうと思う。どうして弓弦はこういうとき、大切なひと言をさらりと言ってくれるのだろう。僕は無造作に自分の膝に触り、「弓弦には」と口を開く。
「話してもいいかな、って思えてきてて」
「うん」
「外の、こと」
「……うん」
「でも、分かんない。弓弦でも分かってもらえないかも」
 弓弦は眉を寄せ、「百パー理解すんのは無理だろ」と言う。
「俺は紗月自身じゃねえんだし。分からなくていいじゃん。つうか、分かんなくて普通なんだよ。紗月が苦しいことは紗月にしか分かんない。それでいいと思うぜ。分かったふりされんのも嫌だろ」
 うなずく。分かったふりは一番嫌だ。そうする人は、決まって常識で僕の痛みを独断する。
「分かっとかなきゃいけないこともあるよな。それはもう、説明以前で分かってるし」
「え」
「紗月が苦しいっていうこととかさ。どれだけ苦しいかは分かんなくても、何かに傷ついてるのは分かる」
 そっか、と僕は納得する。僕も、弓弦がどんなことでどのぐらい苦しんでいるのかは分からない。でも、弓弦に影が落ちるのは知っている。弓弦の僕への理解も、それに近いものだろう。
「紗月が傷ついてるのは分かるよ。だから、紗月が傷ついてないっていう態度はしない」
「うん──」
 僕は睫毛を下げ、「僕が傷ついてるって思うんだね」と訊く。意味が測れなかったのか弓弦は面食らっても、「うん」と返す。
「何で。え、違うのか」
「……分かん、ない」
「分かんない」
「僕──」
 言えそう、と思った。思った、が、直面して迷った。どう、口火を切ればいいのだろう。どうしよう。どう言えばいいのか分からない。切っかけは、どんな言葉が適切なのか。
「紗月」
 ふと弓弦が優しく僕の名前を呼んだ。顔を上げると、弓弦はまごつく僕を取り成すように微笑んだ。「何か食うか」と出し抜けなことを言われ、僕はぽかんとする。
「腹減ってると、わけ分かんないだろ」
 弓弦と見つめあう。弓弦は僕の肩を軽くたたいて、「シャワーも浴びたいし」とカウチを立ち上がった。痺れを切らした──のではなく、整理の時間をくれたようだ。僕は知らずに入っていた肩の力を抜き、長い息を吐く。
 弓弦がざっとシャワーを浴び、昼食を作ってくれているあいだ、カウチで心を整理した。引けなくなっているのは分かった。嫌だとは思わない。
 ゆっくりでいい。話そう。そう思って、僕は弱りそうな気をぎゅっと引き締めた。

第二十九章へ

error: