虚貝-31

重なる影【1】

 恋愛感情を理解したところで、それをどうしたらいいかは分からなかった。
 弓弦が僕をどう想っているかは、本気で分からない。弓弦にこの気持ちを受けてもらうことはできるのだろうか。例のたらしで、弓弦がいよいよ恋人を見つけてきたらどうする?
 単純な意味で、僕は弓弦を好きでいるのが怖くなる。弓弦に失恋したくない。
 これは弓弦にも相談できないしなあ、とひとり抱えるのを覚悟していたら、さいわいそうせずにすんだ。気持ちを自覚し、数日が過ぎた寝起きだった。弓弦はいなくて、僕は目をこすってベッドに座っていた。
 鍵の開ける音がして、弓弦だと思った。違った。ドアを開けたのは、リュックを肩にかけた来夢さんだった。
 いかにも寝起きの僕に噴き出した来夢さんは、「弓弦は?」と訊いてくる。僕は頬を染めながら寝ぐせに触り、「いないです」と答える。「上がってもいい?」と来夢さんは遠慮し、僕がうなずくと靴を脱いで部屋に上がってくる。
「うわ、涼しい」
 リビング兼寝室に踏みこんで独白し、来夢さんはベッドに面した窓の上のエアコンをあおぐと、「それ動くんだ」と言う。
「もう飾りになってんのかと思ってた」
 来夢さんは冷風に柔らかそうな髪を揺らし、「暑くなってきたもんな」とつぶやく。数日前、僕が訊くまでもなく弓弦は棚の下からリモコンを発掘してきた。僕が来る前は、この部屋にはあまりいなかったので、エアコンもろくに使わなかったのだそうだ。今かかっているのは除湿で、まだそれでずいぶん涼しくなる。
「弓弦がいないときによく逢うね」
「え、そう──ですね。弓弦とも逢ってるんですよね」
「そりゃあね。外で。ミキさんとことか、俺のたまり場にあいつが来たり。昔よっかはいられてないかな」
「寂しいですか」
「んー、まあ、たまに。昔と比較したりすると」
 来夢さんは照れ咲いすると、息を吐いて前髪をかきあげる。「寝ますか」とぐっちゃりしたベッドに焦ると、「先にシャワーもらうよ」と返される。
「いいかな。紗月くんも浴びたい?」
「いえ。ごはん食べたいですし。あ、ベッド汚いですね。綺麗にしておきます」
「平気だよ。俺は寝られればいいんだ」
「そ、そう、ですか」
 職業上、他人のにおいが生々しいベッドなど慣れっこなのだろうか。「じゃあ、シャワーもらうね」と来夢さんはあくびを噛んでバスルームに行き、僕はそれを見送る。
 エアコンの活動によって、僕は朝からいちいちシャワーを浴びる手間は省くようになった。夏が進めば面倒な朝に戻るとしても、さしあたりはそうもない。
 寝ぼけが取れた僕は、エアコンの効果でだるい軆をベッドから引きずりおとす。ああ言われても、這い出したベッドを整えるのは習慣だ。特にこのベッドは、部屋の真ん中にあるので、くしゃくしゃで放っておくとだらしなく見える。
 このふとんを干したのは、僕と弓弦の重ならない生活のため、僕がやってきて何回かだ。そういうのを含めた家事を勉強しようと思いながら、僕は毎日ぼうっと過ごすだけになっている。生活変わったなあ、と窓とガラス戸のカーテンを開け、朝食をこしらえにキッチンに立つ。
 あと数日で六月が終わる。弓弦と出逢ってひと月半だ。時間が軽やかになった。ここに暮らしはじめて一ヵ月で、家はどうなったのだろう。すでに家庭の記憶はない。焼きついているのは学校のことで、家のことを思い出そうとしても、息苦しい虚ろな停滞のほか、思いつく鮮烈なものはない。あちらでの時間の感覚はとてもゆがんでいて、こちらでのしなやかな時間の進みとは別世界だった。
 昨日弓弦が炊いたごはんと、弓弦ほどうまく作れないたまご焼き、冷凍食品の白身フライをカウチで食べる。はさむとすぐ崩れるたまご焼きに、ついに箸を突き刺してしまいつつ、ガラス戸の向こうを見やった。
 すっかり朝で、今日は天気もよさそうだ。掛け時計によると現時刻は八時過ぎだった。これを食べたら〈POOL〉に行こうか。近頃雨が多くて行くのが億劫で、顔を出すのが週に幾度かになっている。
 ミキさんに弓弦への気持ちを相談してみるというのもありだろうか。あの人は、僕と来夢さんの会話で僕がゲイなのは承知している。しかし、初恋にとまどっている相談なんて、笑われてしまいそうだ。
 来夢さんはどうだろう。来夢さんも恋愛をしたことはあるようだ。でも“引き裂かれた”らしいので、恋愛の話は嫌がるだろうか。それに、来夢さんとは弓弦というひと置きが強い。僕の相談を受ける義理もない。けれど、弓弦のことでもあるのだし、弓弦と寝たかどうかをよく気にしてくる。どうしようかな、とごはんをつついていると、当の来夢さんがタオルをかぶって帰ってくる。
 来夢さんはカウチの後ろに来て食事を覗くと、「朝飯?」と訊いてくる。うなずくと、「っそ」と後退してベッドサイドに座った。考えれば、来夢さんは軆を休めたくもあるだろう。ここは黙っているのが得策か。
「紗月くんは、弓弦と最後に会ったのいつ?」
「えっ。最後、は昨日の夜です」
「昨日。あいつ、紗月くんには健気だよな」
「健気」
「できれば毎日帰って。俺もそこまでされたことないな。会わなきゃ会わないでほっとかれる」
「つながってるって思われてるんじゃないですか」
 来夢さんは僕をちらりとし、「うん」と咲う。
「けど、俺はそんな強くないしさ。ときどき会っとかないと怖い」
 そんなものなのか。弓弦は弓弦で、来夢さんとの時間が欲しいとは言っていた。けれどそれは、会わないと不安というより、一緒に騒ぎたいという感だった。
「あいつを信じてないんじゃないよ。裏切るとかは思わないし。ただ、目え離してる隙にどっかに消えちまったら怖いなって」
「……はあ」
「まめに会うってことは、弓弦はまだ紗月くんを心配してるんだろうな。つっても、くっついたらくっついたでまたべたつきそうか。どう? 寝た?」
「えっ。い、いえ。まだ」
「まだ」
「……あ、」
 僕の揚げ足の返答に、来夢さんの瞳は色めく。「マジ」と問われ、僕はかぶりを振る。
「違います、あの──」
「キス」
「そんなんじゃないです。その、何というか」
「あいつに迫られたとか」
「ないです。弓弦、……弓弦は、分かんないんです」
「分かんない」と来夢さんは眉を寄せて髪を拭く。僕は体勢を直して来夢さんに背を向けるかたちになり、うつむいて考える。僕がそうすると来夢さんも追究はやめた。たまご焼きをひとつ食べて飲みこむと、「あの」と僕は来夢さんを振り返る。
「笑わないでくれますか」
「うん」
「一応、弓弦に関係するんですけど。でも、聞く義理がないと思うなら」
「俺に話して弓弦といい方向にいくなら、聞くよ」
「いい、方向」
「弓弦とずっといてやる、とかさ」
 ずっと──僕はいたい。どうしたら、弓弦にそう想う気持ちを受け入れてもらえるのか。そういう話だ。“いい方向”には入るだろう。
「眠くないですか」と一応心配をすると、「寝坊すればいいし」と来夢さんはベッドにタオルを放って、ベッドサイドを立ち上がった。僕は、ほぼ食べ終わって空になった食器を床に置く。ごはんが残っているので、それを一番上に食器を重ねる。顔をあげたところで、来夢さんが隣にやってくる。
 ボディソープの匂いをさせる来夢さんは、僕と顔を合わせた。至近距離で見ると、大勢にさばくのがもったいないぐらい、来夢さんの顔立ちは繊細だ。ぞんざいな性格との落差がすごい。もろい手首で膝に頬杖をつくと、「で」と来夢さんは話を取りなす。
「弓弦は分からないって、何かほかのことは分かったってこと」
「まあ」
「もしかしてって思うことがあるんだけど」
「あ、はい」
「やっと、弓弦をどう想ってるか自覚した?」
 口ごもってうつむく。図星にどうしても頬が熱くなり、それは紅潮に表出し、来夢さんはたやすく僕の心を悟る。「ほんとに分かってなかったんだね」と言われ、どうとも返せない。
「俺を警戒してごまかしてんのかと思ってた」
「え、いえ。そんなことは」
「うん。でも、じゃあ──何で。いきなりだね」
「………、弓弦に、話したんです。僕がこの街に来たのとか、ゲイ、っていうのとか」
 来夢さんの長い睫毛が上下する。その驚きがどんなものかは測りかねた。が、「まだ言ってなかったの」というひと言が、あきれと意想外が綯混ぜになった一驚だとしめす。
「ゲイ、まあ、ゲイはあれか。ここに来た理由──あれ、登校拒否じゃなかった」
「登校拒否の理由です。その、来夢さんたちにはくだらないと思いますけど、僕の中では、そう軽く口に出せることでもなくて」
「あ、いや。そういうの責めてんじゃないよ。全部隠してたのかと。登校拒否ってのは最初から言ってたんだよね」
「です、ね。最初というか、早いうちに」
「そっか。理由はずっと黙ってたんだ」
「話すと、ゲイっていうのも一緒に知られなくちゃいけなくて」
「弓弦も訊いてきたりしなかったんだ」
「はい。聞いてくれるときは聞いてくれるときで、気遣ってくれました」
「うん」と来夢さんはうなずく。それは分かる、といった表情だ。
「弓弦、半分は僕のこと感づいてました。ゲイっていうのはびっくりしても、その、理由は。来夢さんも分からないですか。僕が、どんなのかって」
「さあ。あー、俺の昔の女を連想することはある」
「昔の」
「輪姦されたんだ」
 僕はどきっとして来夢さんを見る。来夢さんは気にしない顔で、「このへんじゃめずらしくないよ」と言う。
「は、あ。………、輪姦」
「男ふたりにね。で、紗月くんには性的な何かがあったのかなって思ったりした。弓弦以外の男は避けてるし。そいつもさ、紗月くんが弓弦だけは許せるみたいに、俺だけは許せたんだ。ほかの男は怖がっても、俺のことは怖がらなかった」
 自分の弓弦への許容を照らし合わせれば、その女の人がどれだけ来夢さんを信頼していたかが分かる。

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