噛み合わない軆
「紗月──」
少し躊躇したあと、自分で服に手をかけた。弓弦は驚いた目をした。積極的すぎるかな、と思いつつ、買ってもらった黒いTシャツを脱ぐ。熱いのは頬ばかりではなかった。自分で脱いだのなんか、初めてだ。しかも、このあとはどうしたらいいか分からない。握りしめるTシャツを膝でくしゃくしゃにして、恥ずかしさに顔を上げられなくなる。
けれど、弓弦はきちんと切っかけをすくいとってくれた。優しく僕の手から服を取ると、それはベッドの下にやる。丁重に僕の肩に触れて顔を上げさせると、軽く口づけ、褒めるように微笑んだ。僕がはにかんで咲い返すと、弓弦は僕を抱きしめ、素肌の熱や感触を取りこむ。
「いいか」とささやかれ、僕はうなずいた。弓弦は僕の腰に手を添え、ゆっくりシーツに横たわらせる。ベッドが低くきしめき、弓弦は僕におおいかぶさるかたちになる。軆が陰る感じに不気味な感覚は覚えたものの、弓弦を見つめておけば何とかなった。弓弦は顔を仰がせ、明かりをどうするかを訊いてくる。
「明るいと、いろいろ見えちまうぜ」
「暗いと弓弦も見えないよ」
「じゃ、つけとくか」
「……恥ずかしい」
かぼそく言った僕に弓弦は咲い、「ベッドスタンドつけとこうか」と腕を伸ばす。
「え」
「ここの。そしたら真っ暗じゃないじゃん」
弓弦は腕を伸ばして、ベッドスタンドのオレンジの明かりをつけた。空目をしてそれを見た僕は、そうすることにした。弓弦はリモコンで明かりを消す。「非常燈あるけど」と言われたけど、それは消してもらった。遠い天井の電燈は、連想や錯覚の危険がある。それを説くと、弓弦はうなずいて天井の明かりを消し、室内はベッドスタンドのオレンジの光が頼りになった。
リモコンを置いた弓弦は、額にかかる僕の前髪をほどいた。上に乗っているかたちなので、湿り気を残す前髪がおりて弓弦の瞳がまっすぐ見える。暗がりとほのかな光で、その瞳が飲みこむように濡れているのが認められた。
弓弦は僕の頬を愛撫し、再び唇を重ねる。跳ねる鼓動がシーツを伝って全身に響く。唇を離すと、弓弦は自分も上半身だけ剥き出しになった。
僕は弓弦の軆を見つめた。僕はわりあい、来夢さんに近い華奢な体質をしている。性質も年齢もある。弓弦はそれとは別種の、しっかりした男の軆をしていた。服がなくなると肩幅が視覚に鮮やかになり、胸は平たく、でも筋肉の弾力はある。
いいなあ、と羨望でなく陶酔を感じるあたりで、自分が男が好きなのを感じる。性格もだけど、僕は弓弦の容姿も好きだ。弓弦が認識を妨害されてきた僕の“好み”なのだ。
「何?」と弓弦が凝視に照れて、僕は首を振ったけど、ちょっと考えて「綺麗だね」と言った。
「え、何が」
「弓弦の軆」
「そ、そうか。よく分かんない。紗月もかわいいよ」
「かわいい」
「俺、男はかわいいのが好き」
「容姿の好みあるんだ」
「ん、まあ多少。紗月みたいの俺の理想。顔も中身も。何でも俺の望み叶えてる」
僕は照れ咲い、「弓弦も僕の理想だよ」と返す。弓弦は微笑し、僕にかぶさると頬を撫でた。唇に唇をあて、素肌から体温が降りそそぐ。「好きだよ」と弓弦は煙草がこもった吐息とささやき、僕はすぐ近くの弓弦を見る。
「すごく、好きなんだ。こんなに好きになれる人と出逢えるとは思ってなかった」
「……うん」
「何か、夢中なんだ。俺、自分を全部紗月に預けてると思う。紗月のためなら何でもできるとか思うし。怖いな」
「怖い」
「紗月には、こんなの重すぎるだろ」
僕はかぶりを振り、「嬉しい」と言った。弓弦の唇は僕の唇を離れ、耳元に移る。
「こういうの、愛してるっていうのかな」
「うん」
「そっか」
弓弦は僕の耳たぶを柔らかく咬む。
「愛してるよ」
「僕も愛してる」
弓弦の口づけはうなじに下降した。僕の両腕はシーツにだらりとしている。これではあのときのままかと、弓弦の背中にまわすべきかに悩む。そうすると、弓弦の肌は僕の肌に密着するだろう。大丈夫だろうか。分からない。でも弓弦だし、と思っても、その思い方も気休めじみている。
そんなのをごちゃごちゃ考えているうちに、弓弦は首筋から肩へをほぐし、鎖骨を愛撫していた。水気に冷たい弓弦の髪が喉元をくすぐっている。頼りない光と暗闇に慣れた瞳孔で、僕は天井を見ている。
弓弦の口づけを感じる。何でだろう、と突然哀しくなる。何で僕は、これが初めてではないのだろう。何度もこんなふうに口づけられた。そのせいでうまく弓弦の口づけを受け止められない。怖い。そんな想いがめまいにちらつく。
いつ終わるのだろう。いつ次にいくのだろう。次されることはなんだろう。
唾液が肌にべたつく。湿った唇の音がする。どうしてだろう。なぜ僕はこんなことをされなければならないのか。何でみんな僕を決めつけるのか。楽しくない。嬉しくない。気持ち悪い。男なんか嫌いだ。それとも、それは保身の錯覚で、やっぱり僕はこのことが──
「紗月?」
かぶさった声に僕ははっとした。目は開いていても、視覚が飛んでいた。まばたきをすると外界が知覚され、覗きこんでいるのが弓弦だと知る。
「弓弦……」
「怖いか。やめてもいいぜ」
「うう、ん。別に」
「止まってたけど」
「ちょっと、思い出しただけだよ。弓弦が嫌だったんじゃない。平気だよ」
「そう、か。無理するなよ」
「うん」
弓弦は僕の頭をやすんじたあと、首筋に顔を埋め直した。切ったクーラーもあり、僕たちは汗をかきはじめていた。
僕は思い切って弓弦の背中に腕をまわした。現実を憶えておきたかった。弓弦の背中は広く、腕をまわしきれずに肩甲骨に指が触れる。堕ちた思考のあいだに肌は密着し、弓弦の体温はじかに僕の体温に溶けていた。
弓弦や石けん、瑞々しい汗の匂いがする。ジーンズ越しの弓弦の性器が腰にあたっている。弓弦は秘めやかな音を立て、僕のうなじに柔らかく咬むような性的な口づけをしている。
弓弦の左手は僕の体勢を整え、右手は確かめるように僕の肌を探っている。快感とは、どんなものなのだろう。あの人たちに無理やりいかされた経験はあっても、あんなのは快感ではない。精神的には吐き気がした。精神的にも昇華するのが快感なのだろう。僕は弓弦とならそうなれるのだろうか。
一抹、期待はしたけれど、むずかしいみたいだった。弓弦が少し軆を起こし、ジーンズを下ろしていいかを問うてきた。ぴったりしていた肌にできた隙間に、汗も手伝って冷たいものを感じながら、僕はとまどう。
いや、当たり前ではないか。交わるなら、性器をさらさないわけにはいかない。でも、怖かった。ここに来て以来、僕は入浴で洗うときぐらいしか、性器に触れていない。当然、他人の手にも目にもさらしていない。触られたり口をつけられたりするのか。とっさに思う。
嫌だ。
そうだ、気持ち悪い。あの人たちと同じではないか。あの人たちもいっぱい僕の性器に触った。卑猥に遊び、素直に楽しめとささやき、勃起したら悲惨以外の何物でもなかった。僕は勃起したくない。射精して笑われたくない。セックスなんか辱めだ。二度としたくない。こんなものは、ひっそりと萎えさせ、できれば切断して──
緩く身をよじって遅疑する僕に、「嫌だったらいいんだぜ」と弓弦は穏やかに諭した。嫌だ、けど、弓弦を見ると嫌悪の勢いが鈍った。弓弦に応えてあげられないのも嫌だ。弓弦のために自分を殺すのは、いけないことなのだろうか。僕はそうしたいけど、弓弦はさっき自分を殺すなと言った。
どうすればいいのだろう。素直になるとは何だろう。下着を下ろされたくない。弓弦を拒否したくない。矛盾が並立し、混乱に身動きできなくなる。
弓弦はそんな僕に優しく息をついて微笑むと、汗ばんだ髪を梳いた。
「やめとくか」
「え……」
「いきなりやるなって言ったの俺だし」
「あ──」
「もうやめよう。頑張ったもんな」
頑張った、だろうか。したいと思ったことに、ぎりぎり身をかけただろうか。
弓弦を受け入れたい。そうするつもりだったし、決心は揺らいでいない。それをできる限り振り絞っただろうか。いや、していない。僕はまだ、精一杯やっていない。
そう気づくと、大丈夫な気がしてくる。
「汗かいたな。シャワー──」
起き上がろうとした弓弦の腕を、僕は慌ててつかむ。急な動作にベッドがきしんだ。弓弦は僕を見て、「大丈夫だよ」と僕はじっと見つめ返す。
「まだできる」
「………、無理するなよ」
「してないよ。したいんだ。してよ。弓弦にはしてほしい」
綺麗だけど鋭い眼光が僕を見据え、真剣なものを読み取ると、弓弦は離そうとした軆を戻した。「ほんとに」と言葉で確かめられ、心のどこかに影はちらついても、僕はうなずく。弓弦はしつこく疑うことはしなかった。軽く口づけると、汗がにじむ肌を彷徨っていた手を僕の脚のあいだにやる。
心臓がこわばった。でも、唇に弓弦の煙草の味がして追いはらえた。弓弦はジーンズ越しに僕の性器に触れ、僕は恥ずかしさに睫毛を伏せてしまい、けれど視界が消えると弓弦にされている認識も消えかけ、焦って目を開ける。
ジーンズのジッパーが下りる音が、やけに耳についた。弓弦は唇をちぎると、オレンジの光の中、瞳で確認を取る。かすかながら首を縦に振ると、弓弦は身を起こして僕の下半身に移った。
僕は動悸に視線をうろつかせる。弓弦は腰まわりに手をかけ、僕のジーンズを脱がせた。自分の手の先導でなく服が肌の上を移動し、離れ、肌がさらされる感触に、心はどうしても耐えがたい何かを発芽させてしまう。
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