彼の過去
「ときどき、家が嫌だったって話、したよな」
僕の軆にタオルをかけながら、弓弦は語り始める。「うん」と僕は弓弦の軆に身を寄せた。
「俺は学校とかの想い出がぜんぜんない。憶えてないっつうか、行ってないんだ。ずっと家にいて、俺のごたごたは全部家でのこと。両親が揃った家より壊れてたかな。俺の家、母親いなかったんだ。出ていったんだよ。俺がむっつになる前かな。そのうち帰ってくるだろって思ってたら、そのまま帰ってこなかった。今どうしてるかも知らない。死ぬまで会わないと思う。父親はいた。会ってないけど、どこにいるかは知ってる。刑務所」
「刑、務所」
「俺、妹いたんだけどさ。そいつを殺して、服役中なんだ」
「い、妹。え、殺したって」
「さんざんぶん殴ったあと、踏みつぶしすぎて首の骨が折れた。いつつだった」
弓弦を見上げた。弓弦は淡々としていて、僕の動顛した目には微笑む。
「妹、かわいかったよ。生きがいだった。妹も俺にべったりでさ。両親がめちゃくちゃだったんで、信頼できるのがお互い同士しかいなかったんだ。安心して身を寄せられるのが、相手しかいなかった」
「……そ、う。何で、おとうさんは妹さんを殺したの? しかってたとか?」
「俺が大切にしてたから」
「は……?」
「俺が守ってたから。親父は俺が憎たらしかったんだよ。俺の存在が許せなかった。でも俺、妹の鉄壁として存在価値があったんだよな。それがあいつは気に入らなかった。で、ビール瓶で殴って俺を脳震盪で気絶させたあいだに、妹を殺した」
動けない。盗み見た弓弦に、泣きそうな色や苦しげな色はない。いつもの弓弦だ。
信じられなかった。強いというより、麻痺しているような──
「俺が苦しいのは、そこだよ。すげえ情けない。妹が死んでいってるとき、すぐそばにいたのに。脳震盪って何なんだよ。しかもふとんに倒れて、ひとり助かってさ。起きたとき親父はいなくて、妹は口と耳から血を流して目を剥いてた。首が折れたって言ったよな。変なかたちで寝てて、死んでるのは明らかなんだよ。それでも信じられなくて、自分こそぐらぐらしてんの残ってんだけど、それも忘れてあいつを揺すぶって。抱き起こしたんだ。もう冷たかった。抜け落ちるみたいに、あいつの首がぐにゃっと後ろに反った。口の血が頬の涙の痕を流れて、何か、あのときの気持ちは何て言ったらいいのか分かんないな。押しつぶされそうで。ショックじゃない。怖い、でもないな。何だろ。あのときもそうだった。わめいても何言えばいいのか分かんなくて、殺されかかってる動物みたいな声しか上げられなかった。すごかったんだろうな。いつも無視してた近所の人が駆けつけて。パチンコかなんか行ってた親父は捕まって、俺はしばらく施設に入れられて、すぐ親戚に引き取られるのが決まって、こっち来て。そこが俺を憐れんでさ。同情が鬱陶しくて帰らないうちに、こんなふうになった。どうでもいいやって。来夢に逢わなきゃ、どうでもいいまま死んでたかもしれない」
「来夢、さん」
「こっちに来て、俺は初めて学校に行きはじめた。けど、勉強も集団行動もぜんぜん分かんなくて、合わなくて。担任は事情知っててやっぱり憐れむし、同級生は除け者にするか善意振りまくか。いつもサボって屋上で煙草ふかしてた。あいつはいつも裏庭にいたんだ。見下ろすといつもいるし、教室で偽善習ってる奴とは違うなって何となく感じて。気になって声かけにいったら、大当たり」
そういえば、弓弦と来夢さんがどう知り合ったかは知らないままだった。学校で知り合った、というのは意外でも、この街で合流したのでなければそれが有力でもある。
「親父に判決くだった直後だったな。無期懲役。死刑じゃないことにムカついて、あの頃は俺が殺してやるとか燃えてたけど。俺は殺意に生かされてた。死刑だったら自殺してたかも。殺すのはもういいやって思った瞬間、来夢がいなきゃ死んでた。来夢は俺に何にもできないとか言ってるけど、いるだけで価値があるんだ。すごく感謝してる。あいつがいなければ、もっと妹に取り憑かれてたよ。妹のこと考えるのは、今もあるけど、昔ほどじゃない」
弓弦の陰が思い返る。あれは妹さんを思い出していたのか。大切な人を知らないあいだに失くした、というのも妹さんのことだろう。不可解だった弓弦の仕草がほどけていく。
「今でも、思い出すときは思い出すよ。生々しくはない。無感覚。ときどき、強烈に目の前に突き刺さるときもあって、そのときの俺は、やりきれないというか。そうなって表に出せるのは、ひとりのときか来夢の前だけ。紗月が寝てるときにここでそうなったこともある。紗月は悪くないんだぜ、ただ、紗月が寝てるんだよな。すごい、やすらかそうに──妹もそんなふうに寝てたなあとか。あの頃の俺は、よくそれで報われてた。こいつを守ってよかったって」
「……うん」
「紗月にあいつを投影してるわけじゃなくて。俺、そういうのしょっちゅうなんだ。五歳ぐらいの女の子見て動けなくなるとか、今あいつが生きてたらって歳の女の子見ると情けなくなるとか。生きてたらあれぐらいかって、リアルなんだよな。昔ほどじゃないって、そういうのに立ちすくむのは減ったってことな」
僕はうなずき、弓弦の胸に抱きつく。涙は乾いても、肌は汗に湿っている。弓弦も僕をタオルごと抱き直すと、「母親は」と閑話休題する。
「妹を生んで家を出ていった。俺と妹、種も同じだと思うぜ。母親も俺を渾身で憎んでたな。嫉妬だったんだ」
「嫉妬」
「俺って、まあ美形だろ。ガキの頃も、それなりにかわいらしくてさ。父親に悪戯されてたんだ」
「えっ」
「それの理由はよく分かんねえ。やっぱ、俺がかわいかったからかな。親子の意味じゃなくて。それが母親に見つかって、あの女は嫉妬したんだよ。で、むちゃくちゃ引っぱたいてきた。その前から暴力はあったけど、現場を見つけて猛烈になって、最後の数ヵ月は妊娠中の不安定もあって、全身痣でどろどろ。死ぬかと思った」
僕は何も言えない。そんな家庭を“ごろごろしている”とか“何でもない”と言える弓弦がよく分からない。来夢さんは弓弦の家庭を、ごろごろしてはいけないのにそのわりにごろごろしている家、と言った。弓弦の家庭はそれ以上ではないか。
なぜ弓弦は咲えるのだろう。来夢さんについて、どうして生きていられるのか分からないと弓弦は言った。僕にしたら、弓弦だってそうだ。
「父親の暴力は屈辱からだろうな。俺は父親と深くはなってない。性的虐待って呼べるかも分かんない。やたら風呂に連れていかれただけ。俺が神経質だったのかな。普通、父親と息子で股間の洗い合いってするもんなのかな」
「……さあ」
「紗月、した?」
僕は首をかたむけ、「僕のおとうさんは僕とお風呂入らなかったし」と言う。子供だと軆を洗ってやったりしなくてはならないのが面倒なようだった。それを言うと、「そうか」と弓弦はうなずく。
「俺の父親は、俺をよく風呂場に連れてったんだ。で、俺のもんを素手で洗って、そっちのを俺に素手で洗わせるわけ。向こうが俺を洗ってくるだけなら、ぎりぎり普通だったかもな。何でこっちにも洗わせるんだよ。“ごしごし”って名前がついてた。『さあ、ごしごししよう』って──嫌だったよ。たまに勃起しやがるし。それがなんなのかは分かんなくても、本能的にやだった。『嫌だ』って言うんだよ。『自分で洗えば?』って。つっても、親子だからとか言われてさ。ざけんなよな。嫌なもんは嫌なんだよ。だから、またあいつが勃起したとき、俺は金玉を思いっきり蹴り上げた」
「蹴る」
「うん。五歳のとき。皮肉だけど、母親のせいでムカつくもんには攻撃するってたたきこまれてたし。そのことはほんとに気にしてない。セックスもできるし──いや、初めて男と寝るとき怖くはあったかな。この軆で男が勃起したら怖いかもって」
「怖かった?」
「ううん。蹴り上げたのがよかったんだ。はっきり拒否してんじゃん。性的がなくなる代わりに、暴力になった。父親の暴力は逮捕まで続いたよ。やらせたら、暴力はなくなったかもしれない。でも、強姦より暴力がマシだった。犯されないために殴られた。だから、父親にされたことが無意味だったとは思わない。向こうの感覚がバカだとは思うけど。毎日殴られて、蹴られて、俺んち貧乏だって言ったじゃん。あれは親父がろくに働かない上に、酒買ってばっかのせいだったんだ。飯ももらえなくてふらふら。盗みとはすでに共生してたな。妹には食わせてやらなきゃっていうのもあったし」
「そ、っか」
「俺が妹を守ったのは、父親が変な手を出せないようにするためでもあった。俺がいなかったら、手出ししてたに決まってるんだ。もう母親もいなかったし、部屋はポルノだらけだった。俺は妹をつきっきりで守った。髪引っぱったりはさせちまっても、殴るのもさせなかった。俺が全部代わりに受けた。自分で言うのもなんだけど、よくやったと思うよ。妹を守るっていう意味もまた、俺の自信になってた。めちゃくちゃにされても、俺がそうなったぶん、妹が無事だったら帳消しだった。軆には何の傷もなくて、眠れてる妹を見れるだけで、何も苦しくなかったんだ。父親から妹を守ってやれてれば、それでよかった」
でも、殺されてしまった──のか。そこまで壮絶に守っていたのと合わせ、妹さんが殺されたのを想うと、弓弦の真の痛みがくっきりしてくる。
理不尽な虐待を受けてまで守ったのに、知らないあいだに最悪を起こして、弓弦にしたら、あなたも殴られて昏睡していたのだからしょうがない、自分にされたことに傷ついておけばいい、なんて言葉はかえって腹立たしいだろう。
弓弦の痛みは、自分の傷を帳消しにさせる価値で守った人を守れなかった──無力感、というか、そういうものなのだ。利己的で、他者に捨て身になれない人間には、絶対知り得ない痛みだ。
うまく解けなかった、弓弦の部分が透けていった。来夢さんの言う通りだ。何でもない、と感じるのなんて弓弦ひとりだ。すさまじい軌道だ。
来夢さんと出逢って以降の軌道にも、僕は衝撃を受けていた。でも、そんな過去を知ると、弓弦が選んだ破天荒な道がすごく切ない。それらの選択が、痛切にぎりぎりのものであったと分かる。
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