悪夢のあと【3】
だが、ひとつ引っかかった。来夢さんの恋人──ミカさんは亡くなったわけだけど、なぜ亡くなったのだろう。来夢さんはいつ、どうしてそれを知ったのか。「混ぜ返すみたいですけど」と断ってそのへんを訊くと、「ああ」と来夢さんも話のもれに気づく。
「弓弦が教えてくれたんだ。雲隠れのとき、ミカはどうしてんのって訊いたら、めずらしくあいつが言いよどんでさ。何だよって問いつめたら、自殺したって」
「……自殺」
「俺のためにミカの脱走も弓弦は考えてて、その中で知ったみたい。彼女は耐えきれなかったんだ。そうだよな。俺は事後に直面したけど、ミカはもっとひどい。全部聞いてたんだ。見てた、かもしれない。それでサヤはいなくなって、俺にも会えなくて、決定的なのは両親の嘘だったらしいよ」
「嘘」
「ミカは俺に会いたがってたんだ。けど、両親はミカの心なんか知ったこっちゃないだろ。むしろ憐れんで、俺を忘れさせようと努力してさ。俺まで失くすのは彼女には死だったのに、あいつの親はそれを察しなかった。俺に会いたいって言った彼女に、あの男はあんたを捨てて遠くにいったって吹きこんだ」
来夢さんをぎこちなく見た。そういうこともあったのか。ミカさんの両親は、そこまで娘の必死な心をすくいとれなかったのだろうか。
「あいつ、俺のこと怨んだかな、とか思ったけど。そんな感情的な女じゃないよな。俺よりずっと強かった。なのに、それに限って信じたのは、サヤを守れなかったからだと思う」
「サヤちゃん、を」
「あいつは、俺がサヤを愛してるのをよく分かってたし、自分だってサヤが大切だった。それを守れなかったんだ。すぐそばにいながら動けなかった。自分も殴られたとか、ショックだったとか、そんな事実は目に入らなかったんだろうな。自分を責めて、俺に捨てられて当然、とか思っちまったんじゃないかな。たぶん」
そうか、と切ない辻褄に口をつぐむと、「バカだよな」と来夢さんは苦しげにつぶやく。
「そんなわけないのに。そんなん考えたら、俺だってたくさん悪かった。考えるだけ虚しくなるんで、目えつぶってるけど。親がつきっきりだったらしくても、何かの隙に彼女は病院のどっかから飛び降りたんだ。俺が脱走するずっと前のこと」
来夢さんは頼りない息をつき、長い睫毛を伏せがちにする。冒せない雰囲気に、どうしたらいいのか分からなくなる。弓弦ならうまく被膜をこわさずにするりと入りこみ、咲わせるのだろう。僕はおろおろと固まってしまい、来夢さんは泣きそうに咲う。
「自分とミカのことばっかしゃべってるな。俺が一番つらいのは、やっぱ、サヤのことだよ。つらすぎて、何て説明したらいいのか分かんない。だって、あの子、九ヵ月だったんだぜ。何のために生まれてきたんだよ。あんなことされるため? そんなのないよ。俺をいっそう苦しめるためかな。サヤをあいつにあんなふうに殺されるほど、俺を打ちのめすことってない。もうあの子の顔もよく思い出せない。写真もないし」
僕は黙っている。ただ、以前来夢さんが子供が欲しくないと言っていたのがよぎった。
「ミカもいなくなったし、あの子は俺の記憶にしかいない。怖いよ。サヤには実体がない。だから夢だったみたいなんだ。ときどき思うよ。サヤが生まれたのも、ミカと出逢ったのも、全部夢だったらよかったって。すごく幸せだったけど、今はあの幸せほど苦しいものはない。痛いんだ。苦しくて、生きてたって何の達成感もない。あのことには、苦しむほかにどうしたらいいのか分からない」
来夢さんは息をつぎ、僕はうつむく。沈黙が空気を固め、身動きも息遣いも禁じた。冷房が風を吹く音だけが響く。
無力感に、詮索したことへの後悔も覚えていると、来夢さんの含み笑いが力なく緊張を緩める。「ごめん」と言われ、僕はとまどった。
「ダメだな。まだすげえつらい。気持ち入っちゃった」
「え、えと……『まだ』なんですか」
「うん。『まだ』だよ。死ぬまで突き刺さったままだと思うけど、その突き刺さってんのが当たり前にはなってくとは思う。麻痺するんだ」
来夢さんは大きな息をつくと、「傷ついてられるのも今のうちじゃん」と伸びをする。
「俺の経験って、ひどいんだろうけど、現段階でっていうのがつくと思うな。五年もすれば、きっとこんなのありふれてる。出てきたときはショッキングでも、流せるようになることって多いじゃん。イジメも幼児虐待も、よく考えたら殺人とかえらいことなのに、『ああまたか』で済んでる。俺の経験も、今はみんなびっくりしても、五年後には『ふうん』で済むようになるよ」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。そんなもん。で、実際に傷つけられた人間にしか痛みは分かんなくなるんだ。周りが聞き飽きて軽くしたって、痛みの重さは変わるもんじゃないからね」
僕は視線を空中にやって、うなずく。来夢さんの意見が、絶望に囚われた主観でないのは分かる。「空っぽになってくんだ」と来夢さんはジーンズの脚を伸ばす。
「『つらかった』って言うだけ、弱虫の自己憐憫だって取られるようになる。だから、護るために隠すしかなくて、傷つける行為が知られなくなって、ひどくなって、増えていって。最後に残るのは、心なんてない“物”なのかもしれない。下手なSFじゃないけどね」
来夢さんは皮肉に苦笑し、時計をあおいだ。十二時が近かった。来夢さんは身をかがめ、床に置いていたカップを取る。そういえば、夜中からここにいて仕事はよかったのだろうか。訊いてみると、「今日は休み」と返される。
「夕方まではぼうっとしてる」
「そう、なんですか。ごめんなさい、せっかくのお休みに」
「いいよ。不幸自慢って楽しいし」
来夢さんは明るく笑い、「シャワー浴びてきていい?」と立ち上がった。うなずくと、来夢さんは足元にあったリュックをつかみ、バスルームに行ってしまった。
不幸自慢。そんな軽さだろうか。口にするのもつらかったのではないか。遠慮するようなふりで、僕はけっこう質問していたし、悪いことしちゃったな、という想いがぬぐいきれない。
僕がぐずぐず思っているあいだに、来夢さんはシャワーを浴び終える。冷蔵庫の未開封のカクテルを開け、弓弦と同じく水のように飲んでいた。それを空にすると、髪を拭くときに僕の隣に放ったリュックを取りにきて、僕と顔を合わせる。
「どうする?」
「え」
「俺、このあとミキさんのとこに飯食いにいくけど。一緒に行く?」
「えと、どっちでも。弓弦、いつ頃帰ってくるでしょうか」
「さあ。あー、明日は紗月くんといられるとかぶつぶつしながら出かけてた」
「じゃあ、早く帰ってるでしょうか」
「かもね。ここにいたのがいいかな。店で弓弦に逢ったら、待ってるって伝えとくよ」
僕がこくんとすると、リュックを肩にかけた来夢さんは歩き出す。が、ちょっと止まって考え、僕を振り返った。
「紗月くん」
「はい?」
「その──さっきの話で分かると思うんだけど、弓弦はほんとに、俺のためにいろいろしてくれたんだ」
「はい」
「あいつはいつもそうだった。そろそろ、息を抜いてほしいんだ。で、あいつにそうしてやれるのは紗月くんだと思う」
「僕、ですか」
「甘えてもらえるようになりたいって言ってたじゃん。それ、頑張ってほしいんだ。そのための応援なら、俺、いくらでもするよ。今すぐじゃなくても、弓弦を甘えられるようにしてやって」
「……はい」
「あいつのそばにいて、守るばっかじゃなくて、守られることも教えてやってよ。あいつは俺なんかよりずっと繊細だし、どっかでは臆病なんだ」
僕がきっぱりうなずくと、来夢さんは微笑み、「じゃあ」と歩き出した。僕は黙ってその背中を見送った。向こうに行ってすがたは見えなくなっても、足音、靴を履く音、ドアの開閉まで聞き届ける。
部屋にひとりになって、エアコンのほかに物音がなくなると、僕はカウチに沈みこんで大息する。
僕はショックを受ける。来夢さんはそう前置きした。だから、ある程度は覚悟していたけれど、とても予測なんてうつわにおさまる衝撃ではなかった。ちょっと喪心状態で、軆が重い。
あれは来夢さんの過去だ。実話だ。不穏に波打つ神経のために疑いたくても、事実だ。来夢さんはあの話の中を生きた。吐きそうな白昼夢を、あの人は生身でくぐりぬけてきた。すごい、とか、ひどい、とか、感懐がばらばらで、衝撃がうまく完成しない。
悲劇的な映画に、非日常的なために遠い感覚があるのに似ている。もちろん、これまでの来夢さんの仕草の空白が、絵空事ではないのもしめしている。来夢さんは、この衝撃に実感さえ覚えなくてはならない。それがどんなに息苦しくのしかかるものなのか、僕には分からない。弓弦もミカさんやサヤちゃんと接したことがあるだろうから、僕より現実的に衝撃だったと思う。
衝撃と同じぐらい、弓弦と来夢さんの絆には感服する。権力的で、犯罪的で、真っ当な友情に見ない人もいるだろう。けれど、弓弦はそのとき十五歳の少年だった。大人のやり方では、大人に負ける子供だった。
といって、あきらめるわけにはいかなかった。弓弦は、違法な安全策を取ったのだ。弓弦は本来、権力を乱用する人間ではない。そのとき権力を行使したのは、周囲に不遜と言われて体裁を失ってでも、来夢さんを取り戻したかったということだ。
強いなあ、としみじみ思う。そして、そんな人の恋人になれた自分が、まだちょっと信じられないような気分にもなった。
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