虚貝-44

その痛みの心象

 ぼんやりしていると、玄関で音がした。僕が振り返るのと足音が近づいてくるのは、同時だった。
 言うまでもなく、現れたのは弓弦で、僕を見ると子供っぽい笑顔になる。リュックはベッドに放って後ろに来ると、カウチ越しに僕の肩を抱きこんだ。
「おかえり」と言うと、「ただいま」と弓弦は軽く僕の首筋に唇を当てる。
「何か久しぶり」
「そうかな」
 心外そうな弓弦の表情は、何だかかわいい。「会いたいから待ってたんだよ」と言うと弓弦は甘心し、僕を解放して隣にやってきた。弓弦は軽く息を切らしていて、訊いてみると走って帰ってきたのだそうだ。
「ミキさんとこで、来夢に逢ってさ」
「あ、そうなんだ」
 弓弦に逢えば伝言する、と来夢さんは言っていたので、それでだいたい把握できた。「ごはん食べにいったの?」と訊くと、「というか」と弓弦は唸る。
「紗月がいるなら、落ち合って部屋に持って帰ろうかと。俺、明日の朝までヒマだし」
「ほんと?」
「ほんと」
 思わず笑みになる僕の頭を、弓弦はぽんぽんとする。
「ぎりぎりまで一緒にいたいじゃん。紗月が待ってるってあいつに聞かされて、即行で帰ってきた」
「そっか。あ、じゃあごはんは」
「まだ。紗月は」
「僕も食べてない」
「じゃ、先に食べるか」
 うなずいた僕に弓弦はカウチを立ち上がり、僕も弓弦が見える場所にいたくてベッドに移動する。
「何食べたい?」
「何でもいいよ。あ、でも、朝はチキンライス食べたから」
「米以外、な」
 弓弦はキッチンに行き、冷蔵庫や棚をあさる。弓弦はいつも、いつのまにか食べ物を補充している。「パスタでいい?」と訊かれて僕がこくんとすると、弓弦は準備を始める。換気扇をつけたり鍋に水をはったり、弓弦に料理とはイメージをかけはなれているのだけど、悪いものではない。
「弓弦、ごはん食べたら寝る?」
「んー、そうだな。そうしたい。何かある?」
「ううん。隣で本読んでるね」
「そういや、紗月クラシック欲しいんだっけ。コンポがいるな」
「え、携帯用でいいよ」
「そう? CDショップも行かないと。彩雪だとでかいとこが多くても、今んとこはこっちのがいいだろ」
「クラシックとか売ってるかな」
「あるよ。今日の夜ヒマだし、出かけてみる?」
「いいの」
「ああ。ついでに外食するか。あ、ミートとナポリタンどっちがいい」
「ん、ミート」
 弓弦は棚をあさって缶づめのミートソースを取り出し、沸騰したらしい鍋に麺をすべりこませる。
 菜箸で麺を混ぜる弓弦を眺め、来夢さんに話してもらったのを言ったほうがいいのかな、と思う。隠すことではないし、僕が知っているのを分かっていれば、弓弦も来夢さんの過去を僕に繕う必要がなくなる。
 弓弦は湯がいた麺を炒めて、温めたミートーソースをからめると、できあがった昼食を持ってくる。
「あっちで食べる?」
「ううん、ここでいいよ」
「っそ。飲み物何がいい?」
「烏龍茶、まだあったよね」
「また買ってきとかないとな」
 弓弦は自分の白いワインと僕の烏龍茶を持ってくると、ベッドに乗った。「弓弦って夜中に帰ってきたんだよね」とフォークに麺と湯気を巻きつける僕が言うと、弓弦は驚いた顔をする。
「起きてたのか」
「来夢さんが」
「そっか。うん、二時間ぐらい。一時間はあいつと話して、一時間は寝た」
「僕の隣で」
 弓弦は眉を寄せ、「起きてたんじゃん」と言う。「来夢さんが言ってたんだよ」と僕は咲って熱いパスタを口に運ぶ。トマトソースが、インスタントよりずっとおいしい。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、やっぱ、あれは無意識の行動か」
「え」
「一時間昼寝して俺がベッドを出ようとすると、君は逃がすまいとしがみついてきたんですけど」
 弓弦を見た。弓弦はにやにやとした。逃がすまいとしがみつく──。頬が熱くなって思わずうつむくと、弓弦はげらげらとした。
「かわいかったぜ」
「べ、別に、そんな、そういうつもりじゃ」
「分かってるよ。でもかわいかった。出かけるのがつらかったもん」
 しがみつく。記憶にはなくても、恥ずかしかった。うつむくままの僕に、「ごめん」と弓弦は腕を伸ばして頭を撫でてくる。上目をすると弓弦は柔らかく笑んで、僕は顔を上げられる。
「俺は嬉しかったよ」
「……恥ずかしいよ」
「紗月、いつもそうやって恥ずかしがって、そんなん自分からほとんどしてくれないじゃん」
「してほしい?」
「したいなって思ってくれてたら嬉しい」
「………、恥ずかしいよ」
 弓弦は笑い、麺が絡まったフォークを口に入れる。しがみつく、とか、抱きつく、とか、弓弦に対しては、そうだ。怖いではなく、恥ずかしい。そうしている最中は幸福でも、あとで思い出すと赤面する。「我慢できなくなったときにしてください」と言われ、僕はこっくりとして冷えた烏龍茶を飲む。
「弓弦、来夢さんに逢って何か話した?」
「いや。紗月のこと聞かされて、行ってやれよって言われたんで。何で」
「いや、えと……来夢さん、暗くなったりしてなかった?」
「別に」と弓弦はワインの栓を開ける。アルコールの甘い香りは、ジュースのように率直でなく、くせがある。
「普通だったぜ。何で」
「僕、悪いことしたかもしれなくて」
「悪いこと」と弓弦は怪訝そうな瞳をし、僕は湯気に曇る銀のフォークを皿にうろつかせる。
 怒られるだろうか。来夢さんにとって、あれは最も詮索されたくない過去に違いない。来夢さんみずから話したのならともかく、僕が質問した。
「何だよ」と覗きこまれて僕は数秒口ごもり、「怒らない?」と訊く。弓弦はうなずき、「紗月は俺が怒るようなことしないだろ」と言う。そうかなあ、と不安も感じつつ、ここは弓弦が僕を許容してくれるのを信じる。
「話して、もらったんだ」
「え」
「来夢さんのこと」
「来夢──」
「子供のときとか、恋人の人とか、娘さんのことも。話してもらった」
 弓弦は僕を見た。僕は伏目のままでいる。弓弦は不明瞭な声をもらし、「問いつめたんじゃないんだろ」と確かめる。
「訊いたのは僕だよ」
「あいつ、嫌そうにした」
「別にいいよ、って。でも、悪かったかな。やっぱいいですって言ったほうがよかったかも。ほんとは嫌々だったとか──」
「話したくなきゃ、あんなの話さないだろ」
「………、うん」
 弓弦はワインに口をつけ、「そうか」と感慨深そうにつぶやく。僕は不安に弓弦を窺う。弓弦は僕の様子に微笑み、「紗月に心許す気持ちは分かるよ」と言う。
「紗月がしつこく食い下がらないのも。ただ、あいつが口に出せたのかと思って。今まで、そんなのなかったし」
「そ、なの」
「うん。あんまり触れようとしない。紗月は、あいつのことぜんぜん知らなかったんだよな」
「ん、うん」
「きつかった?」
「……うん。聞かなきゃよかったとは思わないよ。きついよって前置きされて、分かってて聞いたんだし。何か、僕、何とも言えなかった。言っちゃいけないよね。弓弦がすごいなあとも思った」
「俺」
「いろいろ、助けたのも、来夢さんの支えとしても」
「そっかな」と弓弦は照れ隠しにワインを飲み、「新聞とか載らなかったの」と僕は訊く。
「小さく載ったかな。外での事件なら派手にあつかわれてたと思うぜ。この街のことだし、俺もコネで最小限に食い止めた」
「そっか。完全に隠すのはしなかったんだ」
「警察動いてたしな。隠蔽したらミカの親なんかが騒ぎ立てただろ。事実だけ流して、虐待とか男娼とかまで掘り下げるのを食い止めた」
 なるほど、と僕は柔らかい歯ごたえのパスタを食べる。しかし、流れるには流れたのか。向こうでの僕は、無関心を極めていたので、知らなくてもしょうがなくはある。
「弓弦は、ミカさんとサヤちゃんに会ったことあるんだよね」
「サヤは何回かだけど。そのへんの冷めた家庭よりずっと家族だったな。あったかいというか、愛情があるというか。俺が感じたことのない空気だった」
 僕は弓弦を見る。弓弦は咲い、「今は紗月がいるよ」と言う。
「紗月は、ミカとサヤに会ったことないんで、実感薄いよな」
「うん。どんな人だったの」
「んー、ミカは美人だったな。口達者で神経太くて、でも来夢以外の男は怖がる」
「……はあ」
 何かイメージ違った、と思っても黙っておく。
「そう親しくなかったんだ。来夢があいだにいての関係で、深くは関わらなかった。サヤは赤ん坊にしてはおとなしくて、あいつにそっくりだった」
「来夢さんも言ってた」
「サヤのことは──むごいよな。娘を父親にレイプされるって、ショック半端じゃないよ。サヤにとっても、相手はじいさんだったわけだろ。ひどかっただろうな。そのとき、苦しいって感覚を知ったぐらいだと思う。自分がどれだけひどいことをされてるかも分かんなくて、ただ痛いだけで」
 重い心象に視線を俯角に泳がすと、「俺に同情の資格なんてないんだけど」と弓弦は弱く咲い、僕は首を振る。でも、だんまりでトマトが香るパスタを飲みこんでいると、「俺はさ」と弓弦は話題をそらす。

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