虚貝-45

絶望の果て

「ミキさんとこで知ったんだ。これ食べたらたらしでもいくかって朝に夕飯食ってたら、携帯にサヤが殺されて来夢が捕まったって連絡が入って。それだけだったんでわけ分かんなかったけど、とりあえずあいつの部屋に行ったら、もう野次馬しかいなかった。父親とかレイプはあとで知った。で、半年以上、あいつに会えなかった」
「脱走させた、って」
「ちょうど一年ぐらい前の八月にな。それでもかなり急いだんだぜ。あいつに会いたかったし、あの病院にいさせたくもなかった。ひどいとこだったんだ。患者の虐待とか人体実験とか、身よりがないとどっかに売ったり。俺その病院調べ尽くしたんで、ほとんど実態知ってる」
「実態知ってて、ほっといてるの」
「俺、来夢の味方で、正義の味方じゃねえもん。俺が威してたんで、あいつに手出しはなかったと思う。あいつ、美少年の上に保護者いないじゃん。おまけに男娼でさ。ほとぼりが冷めたころ、ホモジジイあたりに売り飛ばされる危険性大だったんだ」
 そう、なのか。「何でそんなとこに行っちゃったの」と訊くと、「面倒見る大人がいなかったしな」と弓弦は苦くつぶやく。
「大人の名義借りて、俺の金を流して、マシな病院に行かせることはできたんだ。でも、俺はあいつを脱走させるつもりだったし。精神患者の生活を面倒見るって契約に、名義借りたり偽装打ち抜くのは厳しかった。そういう、真っ当な方法も考えはしたんだ」
 僕はうなずく。やはり弓弦は、大人の合法の使用を認めてもらえなかったので、非合法を犯したのだ。「実態とか簡単に調べられたんだね」と言うと、「俺の仕事の一分野だし」と弓弦は咲う。
「つっても、あんなにでかい罠張ったのは初めてだったよ。周旋なんて、手っ取り早く済ますのが鉄則だろ。半年もかけて、しかも、無報酬どころか俺が金はらうんだし」
「お金、はらった」
「はらったよ。あのとき助けてくれた人たちには、すげえ感謝してる」
 弓弦の口調は柔和で、真摯に心がこもっている。しかし、そうはいっても数桁で片づく出費ではなかっただろう。金額で友情を測るのは間違っているかもしれないけれど、この場合は比例していると考えていいと思う。
「ミカも助けたかったんだ。サヤはどうしようもなくても、ミカは取り戻させてやりたかった。つっても、ミカの病院は堅実で潔癖な病院だったんだ。管理万全だったし、親か医者がつきっきりだった。来夢より何倍も引っ張り出すのがむずかしくて」
「あきらめた、の」
「医者をグルにするのを考えた。で、そいつが当番のとき抜け出させるかって。でもさ、そしたらその医者が処分になるじゃん。あいつにしたみたく、医者のふりした奴を送りこむには厳しかったし。それでも、処分受けたあと、別の優待の仕事に就かせてやるって話で、ひとつ進められそうになってたんだ。けど、まあ、聞いたよな」
「……自殺」
「うん。で、全部チャラ。金積んで、ミカの病院での様子とかカウンセリングの内容読ませてもらったけど、あいつの親、わけ分かんねえな。何であそこまでミカがあいつを求めてて、遠ざけるのがいいって決めつけたんだろ。あと、これも聞いたかな。ミカは入院中、幼なじみのふたりに会ってるんだ」
「えっ」と驚く僕に、弓弦はかすかに眉を寄せる。フォークを皿の上に泳がせ、「聞いてない?」と不安げにする。
「幼なじみのことは、聞いた。大丈夫だったの」
「分からない。ミカがそいつらに、っていうのは知ってるんだな」
「うん」
「じゃあ、いいか。部屋に三人だけにしたそうなんで、会ったってことしか書かれてなかった。どんなこと話したか、何があったかは分からない。医者と親の腹では、子供の頃から信頼してるそいつらなら冷静に話すかも、って魂胆だったらしい」
「ミカさん──」
「冷静、どころじゃなかっただろうな」
「幼なじみの人は、普通にミカさんに会ったの」
「ああ。そいつらは自分たちがミカを傷つけたの分かってねえんだし。最初は俺、ミカが幼なじみに会ったの気にしなかったんだ。読んだとき、あいつに幼なじみいたのか、とか思ったし」
「あ──相手、知らなかったの」
「いや、ミカが何で家出したのかも知らなかった」
 僕はまじろぐ。弓弦はぜんぶ打ち明けてもらっていたのではないのか。
「ミカがさ、俺にも言うなって来夢に言ってたんだ。来夢にミカのカルテ読ませたときに初めて聞かされて、俺もぞっとした。ミカが自殺したのは、幼なじみに会わされた次の日だったんだ。たぶん、またそいつらに会わされるのが怖くなったんじゃないかな。ただでさえ、親に吹きこまれた嘘とかサヤを失くした呵責でぎりぎりにいたんだ。引き金にもなるよ」
「……うん」
「ミカはいろんなものにぐちゃぐちゃにされて、これからもっと恐怖にたたきこまれていくって思って、あんなのに踏み切っちまったんだ。あいつに会うだけで、全部助かってたのに」
 弓弦はフォークを持ち直し、僕は食事の手を緩める。
 会うだけで、来夢さんもミカさんも助かっていた。真実だろう。それを理解せず、まして、さらなる悪夢に突き落としたミカさんの親や医者が、門外漢ながらいらだたしい。
 特に、幼なじみに再会させたのには手ひどさが僕にも痛感できる。だが、恐らくミカさんの親たちは、自分が悪いとは思っていないのだ。来夢さんが悪い、とすら思っているかもしれない。
 そこが一番怖いな、と僕は水滴を流す烏龍茶のペットボトルを取り、「何かさ」と弓弦はフォークについたミートソースを舐める。
「俺には分かんないよ。何で、あいつらばらばらにされなきゃいけなかったんだろ。来夢もミカもサヤも、何にも悪くなかったんだぜ。あんなの起こらなくてよかったんだ」
「……うん」
「脱走のあと、俺たちはしばらく一緒に暮らしてた。あいつはずっとぐったりして、誰もいらないから俺がいればいいとか言って。俺といて、あいつはだんだん落ち着いていって──中はひどいもんだと思うぜ。それでも、上辺は取り繕えるようになった」
「来夢さんがね、言ってたよ。今は自分の経験はひどいっていう人が多くても、だんだん当たり前になっていくって」
「ああ」と皿を空にした弓弦は、横たわっていたワインの瓶を手にする。
「俺も言われたことある」
「弓弦は、どう思う」
「正しいんじゃないの」
 僕は弓弦を見る。弓弦は肩をすくめ、「紗月は思わない?」とワインに口をつける。
「思う、けど」
「けど」
「来夢さんのことも、なるのかな」
「なるだろ。あいつが受けたことは、世界史上初ってわけでもないと思うぜ」
「そうかな」
「うん。それに、世界中にはもっとひどい虐待もあるよ。俺たちが思いつかないだけで」
 そうなのだろうか。世界史上初ではない。世界中にはもっとひどいこともある。そうなのかもしれない。
「いっぱいあっても、苦しいのは苦しいよ」
「そりゃあな。ありふれるってことは、苦しくなくなるってことじゃない。今のうちはあいつのことは麻痺がきかないし、ショックが食い止めになればいいのにな。これ以上はダメだって警告になれば」
 僕は首肯し、「つっても」と弓弦はワインの栓を閉める。
「そのためには、あいつが過去を大衆に開かなきゃいけないか。やめといたほうがいいな。公に過去を告白するって、鬱陶しいし」
「鬱陶しい」
「虐待もイジメも、ひとりひとり違うものだろ。なのに、経験で連帯感持つのって、うんざりする」
 弓弦と来夢さんは、とは思っても、このふたりは共通の体験からでなく、ごく個人的に知り合ったのだった。
「告白すんなとは言わなくても、告白して何だと思う。黙ってようが言ってみようが、なくならないことに変わりはないじゃん。傷つける側に、傷つけてる自覚なんかないんだ。自分の行為で相手が傷ついてるなんて加害者は知らない。だから、告白を聞いても何も理解しない」
 僕は自分を犯した人たちを思い、確かに、と思う。あの人たちには、性的虐待をしていた感覚──自覚がない。加害者がそんな心理なら、当然虐待はなくなるものではない。虐待をなくすのは、つまるところ、被害者でなく加害者だ。
「告白とか暴露なんて、撲滅には無力なんだ。でたらめに吐き出しゃいいってもんじゃない。どんなに重い苦痛の告白も、他人の耳にはヒマつぶしのゴシップ。告白する奴が悪いんじゃない。告白をそういうふうにしか受け取れない大衆が悪いんだ。まじめに癒されたいなら、大衆には告白すべきじゃない。好奇心でレイプされて、飽きたら殺されるだけ」
「似た傷の人たちに、ひとりじゃないよって伝えるには、大衆通らなきゃいけないよ」
「俺、それも嫌い。誰かのためとかって、傷をばら売りするのは、教科書的なお節介だよ」
 弓弦にしては毒っぽい意見にどうとも返せず、僕はパスタの冷めた最後のひと口を食べる。弓弦は僕の皿が空っぽになったのを見ると、話を打ち切って食器洗いに移った。
 僕はベッドで弓弦を見つめる。食器洗いを終えると弓弦は洗面所やトイレを行き来して、僕をベッドサイドに座らせて、ベッドにもぐりこんだ。
 僕の陰った瞳に、心配そうに頬に触れてくる。いつもの弓弦にほっとした僕は、身をかがめて軽く口づけた。驚いた弓弦に、「我慢できなくなった」と僕ははにかんで咲う。すると弓弦も咲い、僕の頬を愛撫した手を引くと、冷房に髪を揺らして眠りについた。
 僕は弓弦の寝顔を見守り、食事中の話を思い返す。来夢さん、脱走の策略、ミカさん、風化しやすい衝撃──咀嚼しては嚥下していった中、ひとつ喉に引っかかったのは、弓弦の“告白”への反感だった。
 弓弦の信念が一貫していたとは思う。だが、何か感触がゆがんで、弓弦らしくない皮肉があった。告白による連帯感が嫌だとか、大衆は役に立たないとか、そのへんは弓弦の厳しいふるいを知っているので何も言わない。弓弦が求めるものは、共通点とか数量ではなく、個人の価値なのだ。僕が気にかかるのは、ふるいに残って許した人間にも、弓弦は大して甘えていないのではないかということだ。

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