虚貝-47

「……紗月?」
 はっと弓弦を見た。いつのまにか弓弦が起きていた。びっくりした目で僕を見つめている。「あ」と僕は頬を熱くさせ、思わず手を引く。弓弦は僕が引っこめる手を目で追い、その目はとまどいとショックを入り混ぜている。
 弓弦の瞳には、ショックの中にかすかに怪訝の色があった。不快でなく、愛撫という行為を不可解がる色だ。その色は、何というか、幼い。髪を撫でられ、幼い頃に戻った色合いで衝撃を受けている。
 もしや弓弦は、今、初めて頭を撫でられたのではないか。軽い挨拶ならともかく、愛情が生む愛撫は、少なくとも幼い頃には一度も──
 僕は息を吐き、視線をさげている弓弦の髪に再び手を伸ばした。弓弦は僕を見た。僕はついその目に手を引きそうになったものの、負けない。僕が強くならないと、弓弦は強さをほどけない。
「何で」
「え」
「俺、うなされてたりした?」
 弓弦に目を上げた。瞳が重なると弓弦は緩く微笑み、「大丈夫だよ」と言う。
「そんなの見てないよ。見てたとしても憶えてないし。何でもないから」
「弓弦──」
「こんなのしなくてもいいよ。な」
 弓弦は脱力している僕の手を外し、カウチにおろさせた。ついで、起き上がって僕を抱き寄せようとし、僕は甘えそうになった本心を何とか押しのける。突き離された弓弦は、僕の行動にまじろいだ。
「紗月──」
「弓弦、は、僕をどう想ってるの」
「は?」
「弓弦、僕のこと、どう想ってる?」
「どう、って。好き、だよ」
「ほんとに」
「ほんとに。何。何だよいきなり──」
 笑おうとした弓弦に反し、僕はうつむいた。だったら、なぜ無理をするのだろう。僕に頭を撫でられて明らかに動揺しているのに、はぐらかそうとしている。うなだれた僕に笑えなくなった弓弦は、「何だよ」と不安げに僕の髪に触る。
「紗月のこと、愛してるよ。ほんとだよ。何でそんなの訊くんだ。何か不安になることあったのか。あ、俺、寝言で変なの言った?」
 弓弦の心が読めない。はぐらかしているのか、もしや、動揺さえ自覚していないのか。
「何か言ったとしても、本気じゃないって。俺は紗月を──」
「弓弦にとって、愛してるって何?」
「えっ」
「弓弦には、僕って何。そんな、かっこつけなきゃいけない相手なの」
「かっこ──」
「どうして、僕にも無理するの。ぜんぜん甘えてくれないの。そうやって、すぐに何でもないよって、ほんとに何でもないの。弓弦は僕に自分をさらしたくないみたい。守ってばっかりで、僕は弓弦の妹じゃないんだよ」
 弓弦は困惑に口ごもる。僕は弓弦の妹ではない。ちょっと違うな、と思っても、この気持ちをどう名状すればいいのか分からない。ぴったり来る言葉がつかめず、自分の冗漫さが嫌になる。
「妹、って……俺はそんなつもり──。ごめん。紗月には、そんなふうに取れたかな。俺はそんなふうには思ってないよ。紗月はちゃんと紗月として見てる」
「………、僕のこと、みんなと一緒って思ってるでしょ」
「みんな」
「仕事で接する人とか」
「思うわけないだろ。何でそうなるんだよ。また誰かに何か吹きこまれたのか」
「弓弦は、僕が信じられないの?」
「信じてるよ。何。何だよ。何かあったのか」
 僕は唇を噛んだ。瞳が滲みかけていた。この語彙が自分でも腹立たしい。弓弦を怒らせたいみたいだ。
 僕が言いたいのはこんなのじゃない。もっと質素に考えるのだ。言葉少なでもいい。僕は息を飲みこみ、ゆっくり舌の上に言葉を選ぶ。
「……僕」
「ん」
「僕、……も、弓弦を守りたい」
 弓弦は目を開いた。僕はその言葉で少し胸が透いた。その勢いのまま、言葉を紡いでみる。
「弓弦、僕にもそうやって頑張るでしょ。弓弦が僕に心配かけたくないの分かるけど、僕は弓弦が好きだから、強さばっかり見せられても不安だよ。僕のこと好きなら、甘えてよ。弓弦のこと受け止めたい。弓弦は、どうして自分のことを考えないの」
「自分──」
「もっと自分のこと考えてよ。自分のいろんなとこ見て、知って、分かってあげてよ。それでどうしたらいいのか分かんなくなっても、僕が弓弦のそばにいる。弓弦には、まず自分を守るようになってほしい」
 弓弦の瞳の狼狽が、弱く、思いがけなくなっていく。失せる怪訝に、幼いとまどいがあらわになる。「でも」と発された弓弦の声は迷子みたいに震えそうだ。
「……守らなきゃ」
 弓弦を見つめた。弓弦は瞳を切り替えた。
「……別に、守るようなところないし」
「あるよ。弓弦、そうやって決めつけてるんで苦しいんだよ」
「苦しくなんかないよ。紗月が決めつけてんじゃん」
「何で僕にもそんなの言うの」
「ほんとなだけだよ。何──大丈夫だって。心配しなくていいよ。俺はほんとに──」
 ダメだ、と思った。いくら言っても、この繰り返しだ。弓弦の心の殻は、予想以上に堅いらしい。端的に言っても、この人は僕の意見を受けつけない。かといって、割り開くほどの衝撃的な真実を僕はつかんでいない。ここは染みこみ、じわじわと開くほかない。
「弓弦は、僕が頼りないって思ってるでしょ」
「え」
「僕のこと弱いって思ってるんじゃない? 傷ついてるから、誰にも触らせないようにしなきゃって」
「……ん、まあ」
「じゃあ僕、弓弦なんかいらないよ。守ってもらわなくていい」
 弓弦は目を剥いた。僕は瞳に膜を張った。
 もちろん、嘘だった。僕には弓弦が必要だ。守ってもらいたい。が、ここで重要なのは、僕の嘘でなく、それに対して弓弦がどう出るかだ。
 冷静に嘘だと見破れば、せっかちな治癒はよそう。じゃあ守ってやらないと僕を捨てたら、その程度だったとこちらも弓弦を捨てよう。もちろん、ほんとは嫌だけど。そして、さもなくば──弓弦の瞳は、再び泣きそうになった。
「何で。俺が何かしたのか」
 絶望的な声は、僕が仕掛けた罠に堕ちた感じだ。恐らくそれは、“守ってもらわなくていい”というひと言だ。
「そんな、俺のこと嫌いになったのか。どうして。俺、何かした? 言ってよ。言ってくれたらもうしない。嫌だよ。いらない、って俺には紗月がいるんだ。必要なんだよ。行かないでくれよ。俺、紗月がいないと」
 僕は無言で弓弦を見ている。ここまで泣きそうな弓弦は初めてだ。
「何か言ってよ。守らなかったらいてくれる? 俺が自分のこと考えたらいるのか。じゃあそうする。紗月のこと弱いとか思ったりしない。だから」
 僕は弓弦の手を取り、痛ましい哀願を止めた。弓弦は、僕の手を怯えてすがりつくように握りしめる。僕は弓弦の手を包み、「弓弦といる」と言った。途端、弓弦はほっとした顔になり、僕はこの場の主導権を持った。
 正直、これまでの人生はひたすら受け身だったので、どうあつかえばいいか見当は皆無なのだけど、まごまごして弓弦のほつれかけた傷口の殻を再生させるわけにはいかない。
「弓弦にね、守ってほしくないってことじゃないんだよ。弓弦に守ってもらったらあったかいし、落ち着くし。でも、僕はそれだけじゃ嫌なんだ。弓弦が好きだから」
「好き」
「うん。好き。僕も同じように弓弦を守って、あったかくなってほしいんだ。自由な弓弦が見たい。自分の気持ちで行動してほしいんだ。もっと自分を大切にして。犠牲ばっかりが愛情じゃないんだよ。自分のこと考えて、人を守るより自分を守って。そうして隙ができても、そこは僕が守る」
「………、けど」
「ん」
「けど、俺──そんなん、分かんないよ。考えるって、何を考えるんだ。何を大切にするんだ。守るって、俺にそんな、守るようなとこないよ。ほんとに、思いつかないんだ」
 弓弦の瞳は湿っていて、嘘の影はない。
 ほんとに思いつかない。それは僕を切なくさせた。弓弦は、真実を記憶の棚から追放しているのだ。引き出しの把手をもいで、開閉できなくして、忘却を精神安定剤にしている。その引き出しにこそ、弓弦の中枢がつまっているのに。ゆえに弓弦は、自分についてやたら無知なのだ。
 こじあけるのはダメだ。あるかどうか分からなくても、まずは鍵を見つけよう。

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