虚貝-49

必要だったのは

「弓弦は、妹さんにはじゅうぶんやった。今もじゅうぶんやってる。でも、ちょっと妹さんは置いておいて、それ以外の子供の頃を思い出してよ」
「子供……」
「弓弦は、妹さんにしてないことを自分の心にしてるんだ。忘れて、なかったことにして。弓弦は自分の心をないがしろにしすぎだよ」
 弓弦は唇を白く噛みしめる。
「もっと自分を大切にして。自分勝手になっていいんだよ。僕は弓弦を嫌いになったりしない。そばにいる。わがままになっていい。僕はそうしてほしいんだ。それで弓弦は誰かにいてほしかったんでしょ。ずっとずっと、僕のこと捜してたんでしょ」
「………っ、」
「もう弓弦は、子供じゃないんだ。あの頃のこと忘れられないの分かるけど、じゃあ、今ここで十六歳になってるのも忘れないで。もう弓弦は誰にも抑えつけられてない。抑えつけなくていい。おとうさんはここにいないんだ」
「……とうさん……」
「弓弦は弓弦のものなんだ。おとうさんに支配されてて、どうするの」
「俺は──」
「自分の気持ち見てよ。妹さんのこと考えないで。吐き出していいんだ。それは悪いことじゃない。必要なんだ。自分がつらかったこと。忘れてないでしょ。憶えてるでしょ。弓弦のおとうさんは、弓弦に何したの?」
 弓弦はそろそろと目を開いた。水分は、今にもこぼれおちそうだった。深海の海底にいた記憶が、もうそこにある。
「弓弦は、どうして守らないと怖いの?」
「……いない、から」
「いない」
「そうしないと、いないから」
「何でいないの?」
「いわれた……」
「言われた?」
「……お前、なんか消えちまえって。何の役にも立たないって」
「誰が言ったの?」
「……とうさん」
「おとうさん」
「とうさん、が──。いっつも、俺のこと踏みつけながら。言うんだ。お前なんか、そこにいたって虫酸が走るだけだから、消えちま──」
 弓弦の頬に涙が伝った。ついで、その大粒は止まらなくなった。弓弦は何かが切れたように、わっと泣き出した。僕は立ち上がって、弓弦の頭を胸に抱きしめる。弓弦は僕の軆にきつくしがみつき、破裂したようにさらに泣き出す。
「そうだよ。何でだよ。どうして俺があんなことされなきゃいけなかったんだ。どうして殴るんだよ。あんなこと言われなきゃいけないんだ。何で俺の父親はあんなのなんだよ。何であれじゃなきゃいけなかったんだ。俺が何かしたのか。だったら、殴るんじゃなくて、言ってくれたらいいのに、どうして殴ることしかできないんだ。とうさんは俺のこと踏みつけたいだけだったのか。何で。分かんないよ。何で俺は、とうさんにあんなふうにされなきゃいけなかったんだ」
 弓弦の頭を撫でた。こもるような弓弦の泣き方は、痛みにのたうち、瀕死に怯え、呼吸を痙攣させ──そんな尋常ではないものが綯混ぜになって鬱積していた。禁断に近い感情だ。人間として知ってはならないほど、むごい裂けめから嘔吐している。僕なんか吹っ飛ばされそうな途轍もなさだったけれど、精神力を張って受け止め、できれば包みこもうと努める。
「かあさんだって、俺のことさんざん引っぱたいて、そのままどっか行って。何で。何のために俺を生んだんだよ。あんなことするために生んだのか。ひどいよ。だいたい、何で俺がとうさんに悪戯されてて助けてくれないんだ。何でもっとたたくんだよ。あいつにそうしろよ。何で俺なんだ。俺はかあさんが守ってくれなかったから自分で自分を守ったのに、そしたらとうさんまで殴ってきて。俺はとうさんのあれを受け入れなきゃいけなかったのか。自分のこと守るのは犯罪かよ。何で父親の触りたくないからって、殴られなきゃいけないんだ。踏みつけられて、どうして……」
 その吐露に、僕は弓弦の中枢を悟った。そう、弓弦は自分で自分を守ろうとしたことはあるのだ。とても幼い頃。性的虐待から。それで弓弦は罰のごとく父親に殴られ、存在否定されるようになった。
 僕の中が哀しくなる。弓弦の父親の虐待が、弓弦に残した傷口の正体は、自分で自分をいたわることへの罪悪感だったのだ。
 弓弦は僕の胸に涙をこすりつけ、滔々と両親を罵る。心の傷口の血をどくどくとあふれさせ、連綿と自分を痛めつけた親を呪う。
 僕は身をかがめて弓弦の頭に頬をあて、抱きしめる腕に力をこめた。弓弦は僕にしがみつき、吼えながらしゃくりあげる。僕は弓弦の頭を優しく撫でる。
 弓弦の漫罵は、徐々に最後に残る切ない疼痛を濾過しはじめる。
「何で。何でとうさんもかあさんも、俺にあんなことしたんだ。そんなに俺が憎かったのか。俺はあんたたちの子供なんじゃないのかよ。何であんなのしかしなかったんだ。何でそんなのしかできないんだよ。苦しいよ。痛いよ。どうしてこんなふうに抱きしめてくれなかったんだ。俺が悪かったのか。あんたたちが作ったんだろ。どうして俺のこと一度も愛そうともしてくれなかったんだ。俺……俺には、あんたたちの愛情が必要だったのに!」
 目をつぶった。弓弦はついに、何も言えないほど哭しはじめた。突き刺さったように僕の胸は痛い。それこそすべてを派生させた要だった。
 両親の愛情が、必要だった。
 そう、だから余計に弓弦の傷口はひどい。軆の傷が消えれば、そばにいなくなれば、終わるはずだった。しかし、弓弦の痛みは何も終わっていない。心に傷があるからだ。幼く柔らかな心に虐待は突き刺さり、深くえぐった。弓弦に突き刺さった途方もない凶器は、愛を欲したことだった。
 弓弦が自分の傷の否認するのもうなずける。自分を虐待した両親の愛が欲しかったなんて、自尊心が認めないに決まっている。だから弓弦は、その心理もろとも受けた苦痛を深海に埋めた。忘れる。それぐらいでしか、弓弦は自分を守れなかった。
 憎めればよかった。憎しみを覚えるのは、おぞましく容易なことだったに違いない。それでも弓弦は、たやすく世界を憎むより、かぼそく人を愛する道を選んだ。 “誰か”を捜しはじめた。
 僕がその想いをすくいとろう。弓弦は、自分で肯定したら罰があるのではと恐ろしく、同意してくれる人を捜していたのだ。ずっと。すべて埋めて、でも何だか、地底に疼きを感じはじめた頃から。
 僕が弓弦に教える。愛情に呼応されることも、相互も、わがままも、守られることも。弓弦は僕が守る。行き場のなかった渇望も僕が受け入れる。僕の弓弦への愛情には、それだけの度量がある。僕が弓弦の虚ろを満たす。それは僕だけに遂行できる、使命のようなものだ。
 弓弦が僕にそうしてくれるように、僕も弓弦にそうしよう。愛情の循環だ。弓弦は僕が失くしたものをたくさん与えてくれる。僕も弓弦がもがれたものをたくさん育てよう。無理せず自分をいたわること、内観して心を大切にすること、こうして抱きしめられて泣くこと──親に切断された甘えを、僕が弓弦にそそぐ。
 知らなくてよかったのにたたきこまれたことは削る。子供のまま止まった心は現在に引き上げる。そのことで、少しずつでも、弓弦みずから、深い傷の具合を認めていってほしい。
 僕は本当に弓弦の親ではないので、本来の恋人としての立場も織り混ぜるのも大切だ。触れあいや口づけ、情交は僕に問題があるときがあっても、それは僕が弓弦をいたわるように弓弦が僕をいたわる循環の一環だ。
 僕は弓弦の親にはなってはいけない。恋人として、僕だって弓弦に甘えてかわいがってもらう。蝕み合うのではなく、慈しみ合う関係になろう。僕たちはあくまでも、恋人同士だ。
 弓弦はまだ泣いている。咆えるようなしゃくりあげは落ち着いても、弱々しいすすり泣きは続いている。まだ止まりそうにない。
 最後までつきあいたい。僕は軆を動かし、弓弦の隣に座った。弓弦は僕の胸の中を離れようとしない。弓弦が甘えてくれている。こんなときに不謹慎だけど、嬉しかった。
 弓弦の頭を撫でながら、弓弦の無邪気なあの寝顔を想う。僕はあの寝顔を守りたい。いつでもああして無防備になれるぐらい、弓弦の心をかばってあげたい。その中で、弓弦はゆっくり休めばいい。
 あの無垢な寝顔に、揺るぎない安堵をにじませられるようにしてあげよう。そして、僕は弓弦の髪をこうして愛撫し、その安堵を見つめて、満ちた愛情に思わず笑みをこぼしたい。

【第五十章へ】

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